第2話 不気味な予感

文字数 2,222文字

 彼の耳はその音が発する周波数成分を分析し、そのものが発するレベルや周波数特性や帯域、高調波成分等を経験的に判断し、その物体の固さや大きさなどを当ててしまう。もちろん詳細な分析は周波数分析計測器やエコー検査器などで詳細を調べるのだが、自分の耳や身体でおよその検討はつく。

 今龍平が聞こえている音は低い周波数でおよそ三〇ヘルツくらいで、海でこの音を出すのは龍平はクジラしか知らない。通常、この低さでは海の音に消されて聞こえにくいのだが、龍平にはそれが分かるようだ。この低音は海水を伝わり、小型豪華船の船底に当たり、彼の身体で感じているのだ。

「明子、これはまずいぞ! この海の下で大きな何かがこちらに近づいている」
「そ、そんな!」
 龍平が船上で不安に感じているその時、地下の操縦席は緊張に包まれていた。船長と操縦士が顔を突き合わせて話しあっていた。

「船長、何か変な予感がします。何か分かりませんが、このレーダーに写っている黒い物体は何でしょう。さっきから異様な動きをしていますが、大きな魚の群れでしょうか」
「ふーむ、今時この季節ではあまり見かけないが、ひょっとしたら鯨の群れかもしれないな。気をつけてモニターしよう」
「はい、船長」
「念のために、沿岸警備隊に連絡をしておいてくれたまえ。この船の緯度と経度も、周りに何か異常が起きていないかもね」
「承知しました、船長」
 しかし、彼らの不安は的中した。その黒い塊の物体は恐ろしいほどのスピードで急速に豪華客船に近づいていた。次第に客船は揺れ始め、その動きは更に大きくなっていった。海は海面が渦のように揺れ動き、船を海中に引き込むようにうねっている。船内に緊急のアナウンスが英語とイタリア語で交互に流された。

「皆様、緊急のお知らせです! この船に何かが近づいています。鯨かもしれません、大きく揺れるので、揺れに注意して下さい。それからライフジャケットのご用意を! 関係者は準備を願います!」
 放送を聞くまでもなく乗客は異変に前から気が付いていた。船は左右に揺れ始め、物がゆかに飛び散った。

「キヤー! これはなに? なんなの?」
「どうなっているんだ! 船長を呼べ!」
 大声を出しているその男は大きく船が傾いたので、もんどりと床に倒れ込んだ。倒れた拍子に頭をどこかで打ち付けたらしく、額から血が噴き出した。
「キャァ! あ、あなた、血……血が、誰か、お医者様を!」
彼の妻らしい女性がおろおろしながら叫んでいる。もう船の中と言わず、船上も含め怪しい雰囲気に包まれていた。

 鯨が船舶を襲うことなど滅多には無いのだが、極たまにあるらしい。それは明確には解明されてはいないが、鯨が船を海の異分子と感じたり、子供の鯨が船と戯れる為に親子で接近したりと定かでは無いが、あり得ることなのだ。やはりレーダーに映っていたのは鯨だった。その大きさから言うと親が二頭とその子供らしい。鯨は想像以上に速いスピードで迫ってきていた。大きな鯨だと一〇メートル位もあり、時速六〇キロメートルで泳ぐ鯨もいる。

 あっという間に鯨は船に近ずいていたのだ。鯨は船の下に潜りグルグルと周りながら暫くして、ようやく引き上げて行った。鯨が近づいている頃から船は異変に気が付いていたが、あまりの早さに、どうしようもなかった。船底にどこかでバリバリ! という音がしていたが気づく者はいない。
 その船の中では誰もがパニック状態である。照明器具は振り子のように揺れ、留め具から外れ落ちていた。その器具が当たり頭から血を流している者もいた。船内の医者という医者は駆り出され治療に当たっていたが、この状態では為す術もない。
その船は鯨の背びれか何かが当たったのだろう、船底には亀裂が走っている。皆が大騒ぎをしている間にも、その傷は少しずつ広がっていくのだが、操縦士達は船を安定させる為の操縦でそれに気付いていない。

 その他の乗員達も、客に与えるライフジャケットの配布などで対応に追われていた。船は波のうねりに合わせるように右に左に、又は円錐状に揺れ動いている。その度に船内にあるワインやビール、酒などの瓶類が倒れゴロゴロと転がっていたが、それらは海の外に投げ出されていた。デッキにいる人は海水で濡れた床を滑らないようにして船内に戻ろうとするが、入り口に人が集まり中には入れない。或る者は滑ってデッキを転がるように海に落ちそうになった。

「誰か! 助けてくれ、滑って落ちそうだ、縄をくれ!」
 その声を聞いた乗員が縄を投げ、客はようやく命拾いをしたが、それで安心してはいられない、更なる危険が迫っているのだ。這いずってようやく入り口に辿り着いても、船中には中々入れない。
「おーい! 中に入れてくれ、お願いだ、これじゃあ、海に落ちる」
「駄目だ、他の入り口へ廻ってくれ、ここも一杯なんだ!」
「ふざけるな! 私らを殺す気か!」

 こうなったらまともな行動など誰も出来ない。誰もがパニック状態になっているのだ。冷静な龍平は明子の手をしっかりと掴んで、船の入り口付近でロープを身体とパイプに巻き付けながら海が収まるのを待っていた。その横で部屋から飛び出してきた藤崎夫妻も青ざめた顔をして、荒れている海を見つめている。船の傷は広がり始め、海水が舐めるように船底からジワジワと浸水をしてきていた。



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