第13話 命の生還
文字数 2,204文字
溺れかけた老人を助けた乗員が、ボートの中にいる乗客に声を掛けた。
「この中にお医者様か、看護婦さんはいませんか?」
すると隅の方に座っていた男性が手を挙げた。
「はい、私で良ければ、歳はとっていますが、少しでもお役に立てば……」
「あぁ、助かります、その方をこちらに」
周りの人達は避けて、その男性を寝ている老人の前に通した。
「助けて下さい! 主人を……」
老人の妻がオロオロしながら二人を見つめていた。
「大丈夫ですよ、奥さん」
その男性は、夫人の手を優しく握りしめた。
「今は引退していますが、何とかしてみましょう、マークスと言います」
マークスという男性は乗客に向かって言った。
「どなたかお手伝いをお願い出来ませんか?」
すると一人の女性が手を上げた。
「私はナタリーと言います。以前に看護婦をしていました」
マークスとナタリーは微笑み握手を交わした。
「わかりました、彼は海水は飲んでいませんか? マークスさん」
「さきほど、この方をうつぶせに抱いて背中の辺りを叩いて出させましたよ」
「そうですか、意識は少しはあるようです。呼吸も……少しありますね、奥さん助かりますよ」
「あぁ、有り難うございます!」
老人の妻は涙の目で二人を見つめていた。
「まずは気道の確保です、ナタリーさん、そこのタオルを下さい。肩の下にこのタオルを丸めて入れて頭を後ろに傾けましょう。これで気道がまっすぐになって、ふさがりにくくなります。次に人工呼吸をしましょうか」
マークス医師は眼を瞑っている老人の鼻を摘んで口から息を二秒くらい吹きかけていた。老人の胸が少しずつ膨らんでくるのを妻は心配そうに見つめている。
「さあ、次は心臓マッサージです、ナタリーさんは私がしたように息を送って下さい、 私が五回ほど心臓を押したら一度の割合で息を送って下さい」
「了解しました」
妻はこの時ほどマークスと、ナタリーという人を頼もしく思ったことはなかった。
(私達を、神様は見捨ててはいないのですね)
胸の前で手を組み、十字を切り祈っていた。心の中で(あぁ、神様……彼を、夫をお助け下さい……)と願っていた。
マークスは老人の心臓マッサージを行い、ナタリーは人工呼吸を行っている。心臓の位置は左ではない。乳房を結んだ線の中央のやや下あたりを、手の平の付け根で圧迫をするのだ。マークスの額に汗がジワジワと滲んでいた。どのくらいしただろうか、老人の心臓はドキドキと動き出していた。
「動きましたね」
「はい、マークスさん」
「身体が冷えているので、その大きなタオルを彼に」
「了解です」
そして老人は薄目を開けた。
「あなた! あなた……」
(あぁ、おまえか、助かったんだね)
弱々しい声を出して彼は死の縁から生還したようである。
「脳もやられてないようで、大丈夫ですよ、処置が早くて良かった、奥さん」
マークス医師は老人とその妻の二人を見つめながら言った。
「あぁ、マークスさん、ナタリーさん、有り難うございます」
老人の妻はうれし涙を流して、マークスとナタリーに感謝をした。
彼等を見守っている人達も手を叩いて、喜びを共有していた。しかし、恐怖が消えたわけではない。これから更なる危機が迫っているのだ。陽はとうに沈み、予備エンジンで動かしている照明もちらつき始めている。海水の温度もたいぶ下がってきたようだ。
甲板 の上には子供とその母親がまだ残っていた。老人達が次から次へと縄を伝って、危なげながらもボートに降り立っていた。親子は周りの気迫に押され、押しのけられながら大人達を横目で見ながら佇んでいる。ただ、人混みに紛れオロオロするだけだった。こうなってくると誰が先に降りる、降りないなどとは言っていられなくなる。始めの頃こそ守られていた優先順位も、次第に怪しくなってきたからだ。
時間的な余裕がある場合には規律は守られていたが、その余裕が無くなってくるとそうも言っていられない。どんな人間でも命は惜しい。
しかし、それを極限まで我慢し、人を先に助けたいと言う人間もこの船の中にいた。逃げ遅れた親子に気が付いたのは、及川龍平と佐々木明子のカップルである。
「おや、奥さん、まだ残っていたんですね」
「はい、怖くて、下が……それに」
「みんなに圧倒されて、逃げ遅れたんですね」
「はい」
「では、僕が手伝いましょう」
「そうですか、でも怖いです」
彼女の前で七歳くらいの女の子が母親の手を握り不安そうな顔をしている。
「ぐずぐずしていると船と一緒に沈んじゃいますよ」
「あぁ、それも怖い、私は良くても未だこの子が……」
「僕が誘導しますからね。娘さんは明子に抱かせて降りますから、あなたも……」
「あ、はい、分かりました。お願いします」
何本かの綱が下がっている場所には人が溢れていた。
「明子、君も一緒に来てくれ! この子を抱いて降りてくれないか」
「うん、分かったわ!」
龍平は母親とその子供を抱いた明子の四人で人混みを掻き分けて縄が下がっている場所に来た。彼は周りに向かって叫んだ。
「まだ、子供と母親が残っているんだ、そこを開けて下さい!」
「なにをいまさら、もう遅いぞ!」
「うるさい! 君たちは立派な紳士達だろう、さあ、この親子を先に!」
龍平は声を張り上げながら、強引に母親とその娘を抱いた明子に縄を掴ませた。
海の下は渦を巻き始め、ボートも左右に木の葉のように揺れ動いていた。
「この中にお医者様か、看護婦さんはいませんか?」
すると隅の方に座っていた男性が手を挙げた。
「はい、私で良ければ、歳はとっていますが、少しでもお役に立てば……」
「あぁ、助かります、その方をこちらに」
周りの人達は避けて、その男性を寝ている老人の前に通した。
「助けて下さい! 主人を……」
老人の妻がオロオロしながら二人を見つめていた。
「大丈夫ですよ、奥さん」
その男性は、夫人の手を優しく握りしめた。
「今は引退していますが、何とかしてみましょう、マークスと言います」
マークスという男性は乗客に向かって言った。
「どなたかお手伝いをお願い出来ませんか?」
すると一人の女性が手を上げた。
「私はナタリーと言います。以前に看護婦をしていました」
マークスとナタリーは微笑み握手を交わした。
「わかりました、彼は海水は飲んでいませんか? マークスさん」
「さきほど、この方をうつぶせに抱いて背中の辺りを叩いて出させましたよ」
「そうですか、意識は少しはあるようです。呼吸も……少しありますね、奥さん助かりますよ」
「あぁ、有り難うございます!」
老人の妻は涙の目で二人を見つめていた。
「まずは気道の確保です、ナタリーさん、そこのタオルを下さい。肩の下にこのタオルを丸めて入れて頭を後ろに傾けましょう。これで気道がまっすぐになって、ふさがりにくくなります。次に人工呼吸をしましょうか」
マークス医師は眼を瞑っている老人の鼻を摘んで口から息を二秒くらい吹きかけていた。老人の胸が少しずつ膨らんでくるのを妻は心配そうに見つめている。
「さあ、次は心臓マッサージです、ナタリーさんは私がしたように息を送って下さい、 私が五回ほど心臓を押したら一度の割合で息を送って下さい」
「了解しました」
妻はこの時ほどマークスと、ナタリーという人を頼もしく思ったことはなかった。
(私達を、神様は見捨ててはいないのですね)
胸の前で手を組み、十字を切り祈っていた。心の中で(あぁ、神様……彼を、夫をお助け下さい……)と願っていた。
マークスは老人の心臓マッサージを行い、ナタリーは人工呼吸を行っている。心臓の位置は左ではない。乳房を結んだ線の中央のやや下あたりを、手の平の付け根で圧迫をするのだ。マークスの額に汗がジワジワと滲んでいた。どのくらいしただろうか、老人の心臓はドキドキと動き出していた。
「動きましたね」
「はい、マークスさん」
「身体が冷えているので、その大きなタオルを彼に」
「了解です」
そして老人は薄目を開けた。
「あなた! あなた……」
(あぁ、おまえか、助かったんだね)
弱々しい声を出して彼は死の縁から生還したようである。
「脳もやられてないようで、大丈夫ですよ、処置が早くて良かった、奥さん」
マークス医師は老人とその妻の二人を見つめながら言った。
「あぁ、マークスさん、ナタリーさん、有り難うございます」
老人の妻はうれし涙を流して、マークスとナタリーに感謝をした。
彼等を見守っている人達も手を叩いて、喜びを共有していた。しかし、恐怖が消えたわけではない。これから更なる危機が迫っているのだ。陽はとうに沈み、予備エンジンで動かしている照明もちらつき始めている。海水の温度もたいぶ下がってきたようだ。
時間的な余裕がある場合には規律は守られていたが、その余裕が無くなってくるとそうも言っていられない。どんな人間でも命は惜しい。
しかし、それを極限まで我慢し、人を先に助けたいと言う人間もこの船の中にいた。逃げ遅れた親子に気が付いたのは、及川龍平と佐々木明子のカップルである。
「おや、奥さん、まだ残っていたんですね」
「はい、怖くて、下が……それに」
「みんなに圧倒されて、逃げ遅れたんですね」
「はい」
「では、僕が手伝いましょう」
「そうですか、でも怖いです」
彼女の前で七歳くらいの女の子が母親の手を握り不安そうな顔をしている。
「ぐずぐずしていると船と一緒に沈んじゃいますよ」
「あぁ、それも怖い、私は良くても未だこの子が……」
「僕が誘導しますからね。娘さんは明子に抱かせて降りますから、あなたも……」
「あ、はい、分かりました。お願いします」
何本かの綱が下がっている場所には人が溢れていた。
「明子、君も一緒に来てくれ! この子を抱いて降りてくれないか」
「うん、分かったわ!」
龍平は母親とその子供を抱いた明子の四人で人混みを掻き分けて縄が下がっている場所に来た。彼は周りに向かって叫んだ。
「まだ、子供と母親が残っているんだ、そこを開けて下さい!」
「なにをいまさら、もう遅いぞ!」
「うるさい! 君たちは立派な紳士達だろう、さあ、この親子を先に!」
龍平は声を張り上げながら、強引に母親とその娘を抱いた明子に縄を掴ませた。
海の下は渦を巻き始め、ボートも左右に木の葉のように揺れ動いていた。