第1話 出発

文字数 3,065文字

 その小型豪華客船のデッキの上にはテーブルが幾つも並んであった。
 テーブルの上には、各々の客の好む飲み物や食べ物などが並べられ、客は洋上の景色を見ながらそれを楽しんでいる。
 始めに乾杯用に高級スパークリンワインで乾杯し、ウエイターは次のワインのボトルを上品に、さりげなく持ち、客のワイングラスにワインを注ぐと、客は上機嫌になる。

「ソムリエ、ありがとう、最高だよ、ウイ!」
 あまりワインを(たしな)んだことのないその年配の客が、ご機嫌で言うと、外人のウエイターは「アリガトウゴザイマス」とにこやかな笑みを浮かべる。

 ワイングラスを手で傾けながら、客はそれを気障(きざ)に喉の奥へ流し込んでいた。最高級のヴィンテージ・ワインを舌の上で転がし、味わいながらワインが喉を通り胃の中に収まると、その冷たい感触と香りが体中に染みわたり、客は幸福感に包まれる。

 したたかに飲んだ客はほろ酔いになりながら、船内に消えた。その後を心配そうにして付いていくのは、どうやら彼の連れ合いのようである。この神秘的な外国の海上の夜に、彼はアルコールと共に酔いしれたのかもしれない。
 この小型豪華客船は、それぞれのファミリーや友達、恋人達を乗せて快適な旅行を楽しんでもらうつもりだった。

 船の上から見る海原はどこまでも遠く広く、微かに見える水平線は空と一体化して見事だった。よく見ると水平線は平らでなく、小さな波が立ち白い飛沫を立てているが、広く見渡せば彼方に見える地平は丸みを帯び、改めて地球は丸いのだと言うことに今更気が付くのも、こういう海洋に出て改めて実感するのかも知れない。

 船内に入れば更なる高級料理が良い香りを漂わせており、人々の食欲を誘っていた。
 船上の楽しみと言えば何と言っても、ゆったりとして海を滑りつつ、大いなる海原を眺め、楽しむ極上の食事であり、ミニゴルフや、長旅で疲れた身体をリフレッシュする為にジョギングも可能であり、流した汗を船内のジャグジー風呂に入れば極楽である。
まさに、これらは壮大なドラマを見ているような感じがするのだった。陽が陰って水平線の彼方に隠れる頃になると、雲の切れ目から差し込む淡いオレンジ色の光に照らされて、海は夜の女のように化粧をして妖しくその表情をかえるのだ。

 海面にはさざなみが立ち、小さな飛沫を上げる、それが屈折した光と融和すると宝石をばらまいたように美しい。時々思い出したように海面から飛び出した魚が跳ね、クルージングの客達を喜ばせる。
 海の景色に飽きてきたら、船の中に入り船内生活を楽しむのである。そこにはまた違った別世界が広がっている。船内は想像以上に広く、色々な娯楽施設があり、まさに洋上の楽園である。
そこにはエンターテイメントとして豪華なステージがあり、毎夜に楽しいショーが繰り広げられる。踊りたい人には洒落たダンスホールもあり、甘い音楽に乗りながらムードを楽しめる。そこではすでに何組かのカップルは甘いムードミュージックで踊っていた。

 この地中海周りをクルージングするのは、成田空港から出発地まで飛行機で行き、そこから乗船し、周遊しながら寄港地に寄り、その地を見学したあと、再び乗船し、次の寄港地を目指すのだ。飛行機での旅と違ってゆったりしており、客の好みに合わせて色々なコースがある。なかなかそのプランは好評だった。
 クルージングの旅行に加わった藤崎夫妻にとっては初めてだった。夫の恒夫は長年勤めた銀行を去年退職してやっと妻の晴子との海外旅行が実現したのだ。夫婦は今、船内のゆったりとした広いバーラウンジでコーヒーを飲みながらくつろいでいた。

「母さん、楽しかったねえ。今度の旅行は、長年苦労をかけたけれど、これからはゆっくりと母さん孝行をするよ」
「いえいえ、あなたこそ長い間のお勤めご苦労様でございました。あたしはこの旅行を前から楽しみにしていたのよ、ありがとう。父さん」
二人は運ばれてきたデザートを食べながらコーヒーを飲み、この旅を楽しんでいた。このラウンジには何組かの客がそれぞれに楽しんでいる。

 藤崎夫妻から少し離れた場所に、若いカップルがいた。彼らは今年の秋に結婚する及川龍平と佐々木明子のカップルである。
 明子の左手の薬指には、龍平から貰った可愛い指輪が光っていた。彼女の長い髪の毛は船内に漂う風でそよぎ、美しい明子はそれだけで絵になっていた。龍平にとって、この婚約者の明子は誰にも自慢したくなる存在なのだ。
「龍平さん、いよいよ私たちも秋に結婚するのよね」
「そうだね明子、大分待たせてごめん、でもこれからはずっと一緒だから、あのご夫妻のようにね」
「そうね、わたしたちもあの方達のようになれたら素敵よね」
「うん」

 龍平が何気なく藤崎夫妻を見たときに、偶然彼等と目が合い、お互いは軽く会釈をした。
 誰にでも気さくに話しかけるくせがある龍平は、その時、何故か藤崎夫妻に声をかけたくなってきた。彼の心の中には、この明子を自慢したくなる気持ちがあることも嘘ではない。

「明子、ちょっとあのご夫妻に声を掛けてこようかな。日本の人はあまりいないから」
「ダメよ龍平さん、くつろいでいらっしゃるのですから」
龍平は明子が言い終わらないうちに立ち上がり、彼らの方向に歩いて行った。
「あの、初めまして、及川と申します。同じ日本人の方とこんなところでお会いするのも何かの縁と思います。宜しければ少しお話しでも」
 恒夫は若者が近づいてきたのに気がついて、龍平を見た。
「あ、いや、私も外国のこの場所で日本の若いあなたたちとお会いできるとは思いませんでした。どうぞどうぞ、よろしければお相手の方も一緒にお話しましょうよ、ねえ母さん」
「はい、もちろんですとも。お父さん」

二つのカップルは、すっかり意気投合して夜がふけるのも知らずに話し込んでいた。
「だいぶ話し込んでしまいましたね。では今夜はこれで、またお話ししましょう、では」
「こちらこそ、お二人の間に割り込んでしまいました。おやすみなさい」

 藤崎夫妻はさすがに疲れたのか、すぐに彼らの部屋に戻り心地よいベッドの中に体を横たえて眠りに入ろうとしていた。龍平と明子は、海の空気を吸いに船外に出た。二人は海風を身体で受けながらデッキ内の手すりに掴まり海を見ていた。船上は照明に照らされていて、明るいのだが、当然に海は暗くてあまり良くは見えない。ここで二人は、これからの二人だけの甘い生活を語ろうとしていた。

「僕はこの海の匂いが好きなんだよ、明子ちゃん」
「そうなんだ、龍平さんは、海の男の子ですもんね」
「あは、若い頃よく海で泳いで遊んだしね。潜って珍しい貝も穫ったしな」
「そうなんだ、私はそういうのはからきし駄目なの、もし落ちたら怖いわ」
「大丈夫、僕がいつもいるから」
「うふ、頼もしい将来の旦那様」

 そう言って明子が手を龍平に重ねたとき、いつもの彼の反応がないのだ。龍平は暗い海をじっと見つめながら、急に深刻な顔をしていた。何か海に不気味な音を感じたのだろうか。
「ちょっと黙って! 明子」

 いつもの龍平からは想像できない厳しい顔だった、そんな彼の顔を見るのは明子は始めてなのである。龍平が聞いているそれは、海の底の方から聞こえてくる何か不気味な音のようだった。それは普通の人では聞こえない小さな音だが、仕事柄彼にはそれがわかるのだ。彼の仕事は計測器メーカーの音響担当の技師だからである。聞こえてくるどんな音でも、彼の耳はそれを聞き分けてしまう能力がある。



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