第15話 沈みゆく命

文字数 1,853文字

 その時、龍平も明子もライフ・ジャケットを身につけてはいなかった。それが幸か不幸かは、後の結果で判断しなければならない。一般的には、遭難時には着用するのが普通である。広い海に放り出された場合、これを着用しているかどうかで大きく異なる。この目的は、海面から浮きながら顔を出して呼吸を可能にするからである。着用するときには、付いている紐を引けば空気が入り、それが浮き輪になり、海中で浮くことが出来る。

 そして救助が到着するのを海に浮かびながらひたすら待つのだ。しかし、これを装着すると動きが制限され、着用しても股ヒモが外れた場合に、抜け落ちることがある、またサイズが合わないと同じことが言える。明子の場合には、少女を抱いて綱を伝って降りるとき、それを着ていると困難だと思ったからであり、自分が海に落ちるなどとは想像もしていなかった。しかし、少女にはライフ・ジャケットは装着させていた。

 もし着用したとしても、高所から海上に落ちた場合、波との衝撃を受けてダメージを受けることがあるのだ。その明子は少女をボートの中に投げ出すことは出来たが、その後のバランスを崩して、海面から五メートルほどの高さから落下した。明子は泳ぎはそれほど得意ではなかったが、泳げないわけではない。しかし、少女を抱えながら綱を伝って降りる作業は彼女のスタミナを想像以上に消費していた。少女をボートの中の母親に預けたときには、明子は疲労困憊の状態だった。
 そして気が遠くなるような意識の中で、そのまま海に転落した。身体に冷たい海水を浴びながら、何故か明子には不思議なほど恐怖感が湧かなかった。自分の重さで、海の中に沈みながら、どこか冷静な自分がいるのだ。

 自分の口と鼻から漏らす息が、泡となってブクブクと自分の身体をすり抜けていく。冷静な自分……それは、なんの保証も無く、直ぐに婚約者の龍平が助けに来てくれる、そういう思いとは又違っていた。海水を口と鼻で吸いながらも、(死)とはこういうものかと思ったくらいである。或いは意識の中でそれを覚悟していたのかもしれない。

 その時の明子は海面から三メートルくらい上から落下し、鉛のように沈んでいった。しかし、生きることを諦めたわけではない。ただパニックになっていなかっただけであり、冷静な自分がいる。海面に落ちた衝撃で、一時期の目眩から覚めたのだ。

(このまま、死んでしまうかも知れない、でもまだ死ねないわ、このままでは……)
そう思った瞬間から彼女の心の中に生きようと言う気持ちが芽生えた。
沈みゆく海の中で体制をクルリと立て直し、頭を上に向けて足を蹴って浮上した。海の中は暗かったが、恐怖はなかった。まるで人魚のように、自分が海面に向かって浮き上がる感覚なのだ。それは地獄の底から、天国に向かって羽ばたいている自分を感じていた。
(神様は、まだ私に生きなさい、と言っているのね……)
 そのように明子は不自由な姿で、浮上していた。

 一方、龍平は明子が少女を抱いた後、海に落ちたのを目撃したのだ。そして、悔やんでいた。自分が安易に少女を抱いてボートに降りるように頼んだからであり、それは自分よがりで、(明子には出来る)という思い込みがあった。

 あの混乱した状況の中では、あの選択はベストだと思いながらも、もっと他の選択肢はなかったのか悔やまれてならない。龍平は、船の上から明子が落ちた当たりに目がけて飛び降りようとしたが、それは止めた。その場所にはあまりに距離がある。周りに障害物がなければ、ダイビングをして飛び込んだだろう。下はボートが近くで木の葉のように揺れていたし、無謀に飛び降りたらその上に落ちるかも知れない。 すぐに龍平は船の縁に跨って縄を掴んだ。
(待っててくれ! 明子、今助けにいくぞ!)

 心の中で叫びながら、猿のように素早く縄を伝って降り始めた。そして海面五メートルくらいの所へ来ると、掴んだ縄から手を放し、明子が沈む所へとダイビングをした。ボートの人達は二人の行方を心配そうに見守っている。龍平と明子に助けられた人は少なくない、その彼等は祈っていた。
(どうか、あの若い二人を助けて下さい、神様……)

 人々は、海に飛び込んだ龍平と海に沈んだ明子に祈りを捧げた。しかし、彼女を助けたとしても、問題はその時間であり、冷たい海水に長く浸かっていると体温を奪われ死を招くのだ。今までに、多くの遭難者が海から助かりながらも亡くなったのは、その理由による。それは命を賭けた時間との勝負だった。


ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み