第6話 沈みゆく船

文字数 2,523文字

 このクルーズ船の通信業務は、航海士が兼務しており、選任の通信長や通信士は置いていなかった。かつてのような遭難信号SOS等のモールス信号は廃止され使われてはいない。それは機器類の信頼性が増し、小型化による簡便化によるからであり、機器に頼っていたのである。

 そのシステムは、沈没などの遭難時には決められた周波数の電波を発信し、人工衛星を介して各国関係所庁がそれを察知し救難の捜索が行われる。
 この操作は、一般的には手動でスイッチを操作して救難電波を発射するのだが、その時には運悪く、担当者が忘れてスイッチを待機状態にしていなかった為に、機能はしていない。それが後でこの捜索を送らせた原因になるのだが。

 それというのも、突然のアクシデントによる混乱により、その作業を怠ったと言うべきかも知れない。故に、その客船は沈みつつも、始めは遭難信号を発信することはなかった。
 更に言えば、この遠洋では、たとえ携帯電話を持っていたとしても、この海上に於いては電波の通信は傍受できず、通信は専用の通信機以外には不可能だったのである。

 この時、この小型豪華客船ローズ・プリンセスはトラブルを抱えながらも、遠洋上で遭難信号も発せず、どこからもサーチされないまま、沈み行く運命にあった。
 やがて、船の下部層にある機関室を始めとして、全てが海水に浸りつつ徐々に沈み始めていた。クジラによる海水の荒れが収まったのも束の間で、再び客船に更なる不幸な出来事が襲い始めていた。船長のクラークは、各階を見回っていた。彼はそれぞれの場所で客に掴まり、クレームの説明に追われていた。

「船長、どうしてこんなところまでにクジラが来るのかね、客は安心してクルーズを楽しもことができないじゃないか!」

「あんなに大きなクジラが近づいているのに何故、発見できないのかね」
「緊急避難はどうなってるんだ! ボートの数は足りているのか」
などの質問が相次いできて、船長はその対応に追われていた。
 中には、船長の胸元を掴んで興奮していて暴言を吐く客もいる。
「おいっ! 船長、何とかしろっ!」
 彼は、前日には穏やかに、ご機嫌でワインを飲んでいた人の良さそうな男である。

 人とは、いざとなると人が変わるものである。理性も見識も無くなり、本来の人間の強欲が出て、まことにやっかいなる生き物でもある。実のところ、この船にもっと危険なことが起ころうとしているのに、いつもの冷静な船長はその対応に追われて、本来彼がやるべき仕事を遂行していなかった。それがこの船の不幸の始まりとも言える。
 船長と客がそんなやりとりをしているとき、船が大きくぐらりと揺れた。

「キャッ!」
「なんだ! この揺れは?」

 一瞬のその揺れでバランスを失ってよろける者もいる。通常運行状態では、これほどまで揺れはあまりない。その振動は、旋盤が機械材料を削り出すように小刻みに足に伝わってくる。これは船長が身体でいつも感じているエンジン等の振動とは違っていた。

「この揺れが、皆さんひょっとしたら大変なことに、兎に角、今はそれどころじゃないんだ、失礼する!」
「わ、分かりました、船長」

 客は船長の緊迫した顔をみて、彼等の置かれている危険度をようやく悟ったようである。
 船長は客との会話を遮って、慌てて操縦席に向かっていた。それぞれの階では客は大騒ぎになっていた。スイート・ルームから出てきた上院議員のアランが、クラークを見つけて言った。

「船長、どうなっているんだ、この船は、大丈夫なのか?」
 彼は、昼間の穏やかな表情からは打ってかわって厳しい顔をしていた。彼にとっては、久し振りの休暇を、妻とこのクルーズ船で楽しもうと計画したのだ。この旅が終われば、すぐに取りかからなければならない議員としての仕事は山ほどある。

「あ、アラン議員、今この船を調査していますので、後ほど……」
 忙しいクラークは、相手が議員といえども今は相手にしている暇はないのだ。
「ちょっと、クラーク船長!」

 アランが言葉をかけても、クラークはもうそこにはいなかった。乗員による指示により客のほぼ全員がライフ・ジャケットを装着していた。それを使うのが初めての者もいて、手間取っている人もいる。クラーク船長は操縦席に戻った。

「チャーリー航海士、どうなってるんだ、あの下から何か異様な音が聞こえてくるんだ。なんか発見できたか?」
「あ、いや……船長、ひょっとしてこれは、クジラがこの船にぶつかって出来た傷じゃないでしょうか?」
「ふむ、君はクジラの傷だと言うんだね、なるほど、しかし、私はそんな事例は聞いたことがないが……」
「ええ、私もですが」

 クラークと航海士が話をしている時、再び船が揺れ、その振幅は先ほどよりも大きい。そこに下の機関室から電話があった。
 通信士が船長のクラークにそれを取り次いだ。

「あ、クラークだが、マーチン機関長、船が揺れているが、何かあったのかね?」
「船長、大変だ、この船のどこかで亀裂が入っています、早急に対策を!」
「なに! 亀裂が?」
「ジェームスから連絡があり、機関室が浸水されているようです、客の避難を!」
「なに、それほど酷いのか?」
「沈むのは時間の問題かと……」

「そんな、馬鹿な! 自動で仕切り隔壁が閉まるはずだが」
「初めの衝撃のとき、自働に切り替える前に既に亀裂が深くなっていたようで」
「なんて言うことを! 分かった、もうそれ以外の方法に無いんだね」
「そうです」
「では、全員に避難を! 機関室長、乗員もだ、まずは客からパニックにならないように誘導しよう」
「了解! もう機関士達は先ほどから準備をしています。船長はアナウンスの用意を願います」
「分かってる!」

 エンジンが止まり照明が消えるとパニックになる、その前にしなければならない。直ぐに補助エンジンが起動されたが、それも耐久時間が限られている。
 その前に全員をこの船から脱出させなければならない。船が少し傾き始めた。
 海水を抱き込んだ船はその重さに耐えきれず、徐々に沈んでいく運命にあった。すでに時刻は夕方になっていた。船長のクラークは、沈みゆく船と海を見つめながら厳しい顔をしてマイクを握っていた。

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