第3話 ヨハネの福音書 

文字数 1,651文字

概要

 ヨハネの福音書は全21章であり、「初めにことばがあった」という句ではじまる。この「ことば」はイエスのことを意味しており、イエスが永遠の昔から存在していることを示そうとしたもの、と理解されている。

 ヨハネの福音書の半分は、十字架上の死とその後の復活の記述である。イエスを十字架にかけたのは、ユダ、ユダヤ人宗教指導者たち、ローマから派遣されていた総督ピラトたちであった。復活に関する記述は最後の2章に書かれてあり、信仰をもつキリスト教徒はこの記述を信じている。

 イエスは神であり、地上にあらわれたのは神が人の姿をとってあらわれた存在であるという見方が存在する。ニケーア公会議では、イエスと神を同質とみなすアタナシウス派が正統とされ、この考えは、のちに三位一体説につながった。
 一方、異端とされたアリウス派は、イエスの本性は神聖ではあるが、人の子であり、神そのものではないという見方をする。このアリウス派の考えは、ローマ領内での布教ができなくなった後、ゲルマン人に布教された。

ヨハネの福音書の内容

 ヨハネの福音書の冒頭には、次のような記述がある。佐藤によれば、この書は西ヨーロッパやアメリカより、ロシアのキリスト教により大きな影響があるという(p.259)。

「始めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1:1)

コメント

 鈴木の解釈を参考にすれば、冒頭の文章における「言(ことば)」はイエスを意味し、この箇所はイエスが永遠の昔から存在していることを示すものである。新井は、深い理解を得た時、信仰的事実に共鳴できるとのべているが(p.188)、科学的認識に慣れた現代人の同意を得ることは難しいこともあると考えられる。このような時代にあっては、より理性的な聖書解釈に寛容な態度が向けられることが要請されている。
 笠井は大学の神学部に入った当初、賛美歌を歌う同級生が偽善的に見え、別の学校に入りたいと考えていた。しかし、ブルトマン神学の講義を受け、ブルトマンが示したような考えに沿ってであれば、キリスト教を理解していきたいと思うようになった。ブルトマンの神学は「現代における正しい聖書の読み方なのである(p.5)」とまで述べている。このエピソードは、キリスト教から遠ざかることを考えていた神学生が、非神話化という考えを知り、生涯を通じて聖書を読み、キリスト教を伝えることを可能にさせた、という事例である。
 笠井の説明によると、ブルトマンは、神話的な世界像は科学以前の時代における世界像であり、この世界像は変革が可能なものであると考える。神話の本来の意義は客観的な世界像を与えることではなく、「世界と人間を隷属せしめている彼岸の力について語ること」であるという。ブルトマン神学がどのようなものであるかは別として、笠井はこうした考えをするブルトマン神学により、キリスト教から離れるのを思いとどまったのである。
 ヨハネ福音書には、イエスが永遠の昔から存在していること、イエスが奇跡をおこなったこと、死後復活したことなどが記述されている。科学的認識が普及した時代に生きる人のなかには、この信仰的事実をそのまま受け入れることはできない人間が存在する。理性ですべて理解できるかどうかは別として、笠井の事例にみたように、より理性的な解釈を許容するのでなければ、それだけ聖書は読まれず、それだけキリスト教も普及しないと考えられる。

参考文献
新井智(1976)『聖書その歴史的事実』日本放送出版協会
笠井恵二(1991)『ブルトマン』清水書院
佐藤優(2010)『新約聖書I』文藝春秋
鈴木崇巨(2016)『1年で聖書を読破する』いのちのことば社
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