第2話 黒虎猫

文字数 2,715文字

「夜香(よるか)さん!来るんじゃない!」
「… 昴さん!」
「逃げるんだ 僕に構うな」
「昴さんを見捨てるなんて出来ない!」

   朝っぱらから何をしてるんだか
台所にゴキブリが出た位で。トースターから飛び出したばかりの熱々のトーストに齧り付きながら ハレーは両親に冷めた一瞥をくれた。
何時でも何処でもお構いなしに二人の世界に入り込めるのには最早驚嘆すら覚える。
朝食の支度をしていた母が突然絶叫し 隣りの部屋で朝のニュースをのほほんと見ていた父は 疾風の如く台所に飛び込んで来た。のは良いけど
見た目通りひ弱な父はゴキブリに限らず虫の殆どが駄目ときている。
自然の中で天体観測なんて良く出来たものだと思うが 星を前にすると我を忘れるらしい。
ゴキブリは二人の愛情劇場には目もくれず 我が道を突き進む。其処へ
「其の猫がやっつけてくれるんじゃない?」
何処から入って来たのか黒地に虎模様の入った猫が一匹 音も無く現れた。金色の目を爛々と輝かせ 身を沈めてそろりそろりと獲物に近付いてゆく。
「え?猫?…ど 何処に?」
父と母がきょろきょろと辺りを見回す。
   あ 何だ霊か
普通に視えるものだから分らなかった。
「若しかしてスピカの事?」
スピカは電池で動く茶虎猫の縫いぐるみで 鳴いたり尻尾を振ったり歩いたりするが考えて行動する能力までは流石についていないだろう。
母は食卓の下にちょこんと座っていた猫の縫いぐるみを手に取ると
「よし!スピカ 行け!」
ゴキブリに対峙させる。
   いや!無理だから!
抑も自分が可笑しな事を言ってしまった責は認めるが 母も天然が過ぎる。だが
奇跡が起きた。
進行方向にスピカを仕向けられたゴキブリは一時停止を余儀なくされ 進退を熟考していたところ 背後に迫っていた黒虎猫のパンチをくらった。
弾き飛ばされたゴキブリは両親の熱烈な悲鳴を浴びながら惜しまれつつ ― 其れは無いか
退室して行った。

「行って来まーす」
麗らかな陽差しを浴びた新緑は目に眩しく 柔らかな風に木々がさわさわとそよぎ 青空には灰色の風扇が…?…いや、丸々と肥えた灰色の背広を着たサラリーマンが漂っている…
   もう!
気分が台無しだ。ハレーは足を止め 憎々しげに上空のサラリーマンの霊を睨み付ける。ハレーの鋭い視線に気付いた霊はそそくさと消えて行った。
ハレーには霊が視える。だが視えるだけで取憑かれた事は一度も無い。ハレーに睨まれるとみな一様に逃げてしまうのだ。
霊は素直だ。生きている人間の方がよっぽど質が悪い。
どんなに冷たい目で見ようが蔑んだ目で見ようが全く懲りない男もいるし。
今日は父は追い縋って来ない。母と宜しくやっているのだろう。馬鹿馬鹿しいったら。
「おっと」
半ば憤慨しながら歩いていたら 道の真ん中に居座っていた野良猫に気付くのが遅れた。
黒斑模様の猫は 金色の目を大きく見開いて総毛立ち「ぎゃああ!」と叫ぶと瞬時に姿を消した。
   何よ 失礼な!
むっとして頬を膨らませる。ハレーは動物に対して特別関心も愛情も持ってはいないが 動物の方は挙ってハレーの事が嫌いだ。母は本当はペットを飼いたいのだろうが 娘と折り合いが悪いのを知っているから縫いぐるみで我慢している、と言うのも分かっている。
けれど 如何する事も出来ない。

取り替えっ子  ―

冬化粧を始めた山々の連なるあの場所で
ハレーは五歳の時 山の麓に住む父方の祖父と鍛錬に赴き 其の儘行方不明に為った。
昼夜を問わず 血眼になって大人達はハレーを探した。
山の中とは言え 鍛錬の場所は夏場はキャンプも出来るような開けた場所で 近くには浅い川が流れ 見晴らしは悪くなかった。なのに
祖父が鍛え上げた肉体で一連の型を取って見せ さあハレーもやってご覧、と顔を向けた時にはもうハレーの姿は其処になかった。
ハレーの姿は何処にもなかった。
山道を一人で歩いていたハレーが村人に見付けられたのは 行方知れずになってから五日過ぎた薄暮の頃だった。鍛錬をしていた場所から十分も掛からない。幾度となく大勢の大人達が行き来し 声の限りに名を呼んだ場所でハレーは不意に見付かった。
ハレーは茫然自失の状態であったが 服装はいなくなった時の儘で汚れてもいなかった。
見付かるまでの間に三度も雪が降ったにも関わらず 凍えてすらいなかった。
神隠しだ、と皆口々に囁いた。腰の曲がった痩せぎすの小柄な老婆が怖い顔で迫りハレーは取り替えられた子だ、と萎びた指を突き付けた。
祖父母と両親は一笑に付した。
ハレーはハレーではない、と言われても ハレーの記憶はハレーでしかない。
自分の記憶に何ら悪しきものもなく 何が違うのか分らない。誰と取り替えられたと言うのか。ハレーは行方不明になった時から見付けられるまでの間の記憶が一切なく 何処で如何していたのか 幾ら頭をひねってみても思い出せない。其れは認める。だが 何か別のものになった、と言う感覚もなければ 自分は別のものだ、と言う感覚も無い。ただ
其れ迄は懐いていた祖父母の飼い犬が急にハレーに向かって吼える様になり 近付くと怯えた。其れ以来 生き物は皆ハレーを嫌い怖がった。
其れだけの事だ。
たった 其れだけの事 ―
ハレーは鞄から小腹専用のキャラメルを取り出すと 一粒口に放り込んだ。
甘い。少し気分が持ち直した。 と
先程の黒虎猫が 足下に纏わり付きながらついて来ている。
   霊だと平気なんだ
ハレーが見下ろすと 黒虎猫が見上げてくる。
にゃあと鳴いたようだが声はしない。
「憑いて来ないでよ」
ハレーは冷たく聞こえると言い、と思いながら抑揚のない声で猫に向かって声をかけた。
猫は知らん顔でついて来る。
もう、と思いながらもハレーの本心は嬉しくて仕方無い。
「憑いて来ても良いけど 大人しくしててよ」
照れくさくて突っ慳貪な言葉を吐く。頭の中では何て名前が良いだろう、等と考え始めている癖に。
「あんたはあたしのこと 平気なの?」
憑いて来る位なんだからそうなんだろうけど 態々聞いてしまう。どんだけ嬉しいんだか。
「いや 別に」
   え?
少しハスキーな所のある明るい声音。だが黒虎猫が喋った訳ではなかった。
   神室月兎!?何で?!
ハレーの直ぐ背後に 後光のように朝日を受けて耀くゴールドメッシュのチャラ男が居たのだ。
「全然平気だけど?」
   ぎゃあああ! やめてー!
ハレーは顔から火を噴いて 祖母譲りの平手打ちをお見舞いした。
快晴の天に殊更良い音が木霊する。

其の後の事は知らない。
自分史上最高速度で逃げたから。
黒虎猫は ― 宙を飛ぶように一緒に走っている。
自分の顔の筋肉が緩んで来るのが分かる。

ハレーの駆ける足は軽やかなものに変わっていった。

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登場人物紹介

東宮ハレー+黒虎 霊感美少女。祖父直伝の蹴りと祖母直伝のビンタで悪を成敗。

神室月兎+天女  ゴールドメッシュのチャラ男。好物はアップルパイ。

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