第5話 天女

文字数 2,045文字

ハレーはあんパンをしっかりと握り締めながら廊下を歩いていた。

父親は天文学のシンポジウムがあるとかで本州を離れ 遙かな離島に出張している。
母親は大学の天文部の合宿の引率で 父親とは反対方向の遠方に旅立つ事となった。
二人はロミオとジュリエットの如く別れを嘆き悲しんで家を出て行った。
母は白いレースのハンカチーフを手にし 何度も振り返りながら悲しみに堪えないと言った面持ちで弱々しく手を振った。父は大海原で無人島に漂着し、救助を求める人の様に大きく両手を振って返した。ハレーはむしゃむしゃとトーストを齧りながら見送った。
今生の別れでもあるまいに。
二人とも一人残されるハレーの心配などそっちのけで もう高校生なんだから大丈夫よね、とそう言われただけだ。
無論問題は無い。心からの笑顔で二人を送り出した。父親はハレーに鋭い一瞥をくれると羽目を外すんじゃないぞ、と釘を刺してから出て行った。其れでも追い出すのに随分かかったのだ。好い加減にしないと飛行機の時間に間に合わなくなる、と脅さなければならない程に。
二人が出て行くとハレーの心は浮き足だった。
学校から戻ると自由を謳歌し大きく伸びをする。と腹が鳴った。二人は二週間ばかり戻って来ない。必要なお金は戸棚の封筒に入っている。カップ麺ばっかり食べちゃ駄目よ、ちゃんと毎日野菜を食べてね、包丁で手を切らないようにね、くれぐれも火の取り扱いには気を付けてね、火を使ってる時は絶対傍を離れちゃ駄目よ、ちゃんと消したかこうやって指差し確認をして、家の戸締まりも忘れないで ― 長話にぶーたれた顔をしている娘にくどくどと説いた。母親はこの機会に一人娘に料理を覚えて貰いたいと思う半面 不器用な上に雑な考え方をする娘に不安を覚えずには居られなかった。冷蔵庫にはあらゆる食材が詰め込まれていたが 菓子やデザートの類いは一切無かった。ふーん、と見回してからハレーは一寸料理などしてみようかな、と言う気になった。自分好みの味付けにするのだから不味くなる訳が無い。
結果は惨憺たるものであった。
黒虎猫の「黒虎」は出来上がった料理をくんくんと嗅いでから ハレーを見上げ「にゃんだ此れ」、とは言わなかったがにゃおと口を動かした。傷ついたハレーは早々に手料理を諦めた。スーパーに赴くと購買意欲が沸騰し籠一杯に詰め込んだ。CDショップ、雑貨店、蜜で溢れた花畑を飛び回る蝶の様に渡り歩いた。夜は借りて来た新作映画を観ながら居間のソファに寝転がりアンジェのドーナツに齧り付いた。
両親が戻るまで後五日。
残金は小銭入れに入っている。学食のあんパンが後何回分買えるだろうか…。
麗らかな陽気を浴びて瑞瑞しく芽吹く若葉を 秋風に散って往く木の葉を見る様な目でハレーは眺めた。
憂い顔で教室に向かうハレーの前方に灰色の大きな風扇があった。
いや、灰色の背広を着たサラリーマンか。階段の踊り場で、窓から差し込む陽光が祝福の光ででもあるかの様に 件の男は跪いてプロポーズでもしているのか崇め奉ってでもいるのか。
男の前に居る女性を見ればどちらとも取れる。此の女性を言葉で現すなら「美しい」の一言に尽きる。透き通った体の儚さも相俟って幻想的で見目麗しく 其の姿は天女もかくや。
天女はハレーが視ている事に気が付くと笑んで見せた。艶やかで品のある大人の女性の笑みだ。年齢は二十代の後半と行った所か。長い黒髪は絹の様にしっとりと 減り張りのある肢体はマシュマロの様に白く柔らかそうで 黒い眸が嵌め込まれた宝石の様に際立って見えた。
天女はハレーに笑んだ後 両腕を真っ直ぐに伸ばした綺麗なフォームでサラリーマンを突き飛ばした。
   え?!
通常 霊はハレーが睨めば一目散に逃げて行く。だが此の時ばかりはそんな訳にはいかなかった。サラリーマンはズボンに収まりきらずに半分露出した尻を向けてハレーの方に飛ばされて来たのだ。ハレーの眼力も効かない。其ればかりか巨大な尻が迫って来る。
「きゃあ?!」
霊ならばぶつかる事もなくすり抜けるに違いない。其れは分かっているのだが ―
ハレーは悲鳴を上げて飛びすさった。其の方向にそこそこ固い物があり顔面を強打した。
同時にコンサート会場で今しもアイドルが登場したかの様な大絶叫が耳を劈いた。
ハレーは神室月兎の胸に顔を埋めていた。
「お?今日は大胆じゃん ハレー」
ハレーは忿怒と強打で赤鬼と化した顔で神室を見上げた。神室の横にあの天女が居た。其の周りには何時もの様に 生者も死者も、大勢が此のゲリラライブの如く現れた劇場を取り囲んでいる。送られてくるのは熱狂的な声援ではなく 狂乱に満ちた罵詈雑言と野次だ。
天女は妖艶な目でくすくす笑いながら 蔓草が絡み付く様に神室に密着している。
ハレーが睨んでも二人とも平気なものだ。拳を固めたが 其れよりも早く
「お前らぁ!!授業はとっくに始まってるぞ!全員校庭十周!!」
体育教師の雷が直撃した。
三度の危機的状況に陥ったが ハレーの手からあんパンが離れる事はなかった。
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登場人物紹介

東宮ハレー+黒虎 霊感美少女。祖父直伝の蹴りと祖母直伝のビンタで悪を成敗。

神室月兎+天女  ゴールドメッシュのチャラ男。好物はアップルパイ。

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