第十話 『やがて冬になる』
文字数 2,612文字
――カチリ。――カチリ。――カチリ。
身体を引きずって歩く囚人の足音のような、重く憂鬱な響きの音 。
昼間だというのにこの空間だけが、真夜中のような異様な静けさに包まれているせいで、時計の針音は余計に際だって聞こえた。
僕は耳を澄ませてみる。
針音に混じって聞こえてくるすーすーという穏やかな寝息。ゆっくりと、規則的に上下する背中。
問題はなさそうだ。
向かいのソファ、こちらに背を向けた格好で眠っている妹――悠里の姿を確かめて、僕は密かに息を吐く。
別にここでスマホを触っていても、大学の課題を片付けても、イヤホンを繋いで暇つぶしにゲームをしていても、誰にも文句は言われないだろうが、結局何をする気にもなれなくて、ただじっと座って悠里の背中を眺めていた。
今僕がいるのは、大学入学を機に一人暮らしを始めたアパートではなく、実家のリビングルームだった。
事の発端は一週間ほど前に遡る。
朝の四時。というとんでもない時間に母から電話がかかってきた時、僕は寝ぼけた、不機嫌な調子で電話に出たのだが、用件を聞いた途端一気に目が覚め、慌てて支度をしてタクシーに乗り込んだ。
悠里が運びこまれたという病院へ向かったのである。
悠里が負傷したのは、耳、だった。
左耳が“半分千切れかけた”状態で救急車で運ばれ、最接着の緊急手術を受けたのである。
母曰く、夜中に突然二階から悲鳴――というより絶叫が聞こえてきて、駆けつけてみれば、悠里が血まみれのベッドの上で耳を抑えてのたうちまわっていたのだと言う。
結果として手術は成功し、耳は縫合されて繋がった。ただ、退院後も悠里はひどく
誰かの付き添いが必要で、且つ、「昼間」「自分の部屋以外の場所」でないと眠れないと言う。
しかしうちは母子家庭であり、家計を支えている母が何日も仕事を休むことは出来なかった。そこで、大学生で比較的自由のきく僕が、日中付き添って過ごすことになったのである。
僕は決して勉強熱心な人間ではなかったが、万が一にも、留年などの危機に陥って母の負担を増やすわけにはいかないという気持ちがあったため、大学の授業をサボるようなことはほとんどしてこなかった。そのため一・二週間くらいなら休んでも、進級に響く心配がなかったのである。
しかし悠里からしてみれば、付き添いの相手が僕だなんてさぞかし気詰まりなことだろう。実際初めの数日間、悠里はソファに横たわるやいなやこちらに背中を向け、落ち着かない様子で身を固くしていた。
怪我をした理由についても自分から話そうとはしなかったし、こちらから問うことも憚られた。悠里が塞ぎ込んだ様子で、そっとしておいて欲しがっているように見えたから、というのもあるが、例えそうでなくとも、どうせなんと声をかけていいかなど分からなかっただろう。
僕と悠里の間には、目には見えなくとも手触りを感じられるような類いの、壁があった。悠里は明るくて友人も多く、クラスでも目立つタイプの女の子だ。しかも思春期まっさかりの中学生ときている。
僕のような陰気でつまらない、しかも七つも年の離れた兄など、目障りなだけなのだろう。悠里の態度はいつもよそよそしく、表立って喧嘩もしないかわり、必要以上の会話を交わすこともあまりなかった。
特に僕が実家を出てからは、顔を合わせる機会すら半年に一度程度しかなくなっている。
しかし、昨日。
「耳を、切られかけたの」
悠里はそんな風に話を切り出したのだった。
きっかけとなったのは、何の変哲もない
昨日の僕は何処へ行く予定もないからと着古したスウェットを身につけていたのだが、ふとそのスウェットの裾からほつれた糸が飛びだしているのが目について、引っ張ってみたら余計に伸びてしまったため、仕方なくハサミを出してきてそれをちょきんと切った。たったそれだけのことだ。
しかしその途端に、向かいのソファに寝ていた悠里がすごい勢いでとび起きて、こちらを振り返った。包帯越しに左耳を抑え、見開いた目でこちらを凝視する悠里に、
「ごめん、うるさかったか?」
おずおずと謝罪を口にした。ほんの小さな、しかも一瞬の物音であり、普通なら気に留まるわけもないが、今の悠里は特別に神経が過敏になっているのだろうと僕は思った。しかし悠里は首を横に振って「はさみ、」と呟いたのである。
「え?」
「はさみ、早く、しまって」
悠里は目を伏せてそう言った。
僕はよく分からないまま、ハサミを片付けて戻ったが、悠里はソファに掛けたままじっとしており、寝直そうとする様子を見せない。
一体どうしたのかとたじろいでいると、暫くして、耳を切られかけたの、と、言い出したのだった。
「しゃきん、しゃきんって、すごく切れ味のいいはさみを閉じたり開いたりするみたいな、音。どこからなのかどうしても分からなかったんだけど、あの夜は耳元で聞こえて、目を開けたら、いたの」
悠里の話は要領を得なくて、言わんとしていることが僕にはさっぱり掴めなかった。戸惑いながら、
「いたって、何が?」
「分からない」
悠里は何かを払うように首を横に振りながら、分からない、分からない、と繰り返した。
「なにか、見たことのないような――化け物、だった」
震える声で呟かれたその言葉を聞いた瞬間、息が止まった。
心臓を鷲掴みにされるような不意打ちの衝撃に、縋るように、自分のスウェットの胸元を握りしめる。
僕は表向きはどうにか平静を保って(上手く出来ていたかどうかは分からないけれど)悠里から話を聞き出した。
時系列があちこちに飛び、ところどころが抜け落ちている彼女の話を補足・要約すれば、大体次のようになる。
一月程前から、悠里はどこからともなく聞こえてくる
しゃきん、しゃきん、というハサミを開閉するような鋭い音だ。
それは一人きりの室内や、学校の中や、夜道を歩いている時など、全く時と場所を選ばず、なんの前触れもなく聞こえてきて、しかしすぐに何事もなかったように止むのだと言う。
いつも、周囲にそのような音の発信源になりえる物は見つからず、気味悪く思いながらも、対処のしようがなくて放っていた。
しかしあの事件があった夜、いつも通り部屋で眠っていた悠里は、しゃきん、という例の音が聞こえてきてはっと目を覚ました。
身体を引きずって歩く囚人の足音のような、重く憂鬱な響きの
昼間だというのにこの空間だけが、真夜中のような異様な静けさに包まれているせいで、時計の針音は余計に際だって聞こえた。
僕は耳を澄ませてみる。
針音に混じって聞こえてくるすーすーという穏やかな寝息。ゆっくりと、規則的に上下する背中。
問題はなさそうだ。
向かいのソファ、こちらに背を向けた格好で眠っている妹――悠里の姿を確かめて、僕は密かに息を吐く。
別にここでスマホを触っていても、大学の課題を片付けても、イヤホンを繋いで暇つぶしにゲームをしていても、誰にも文句は言われないだろうが、結局何をする気にもなれなくて、ただじっと座って悠里の背中を眺めていた。
今僕がいるのは、大学入学を機に一人暮らしを始めたアパートではなく、実家のリビングルームだった。
事の発端は一週間ほど前に遡る。
朝の四時。というとんでもない時間に母から電話がかかってきた時、僕は寝ぼけた、不機嫌な調子で電話に出たのだが、用件を聞いた途端一気に目が覚め、慌てて支度をしてタクシーに乗り込んだ。
悠里が運びこまれたという病院へ向かったのである。
悠里が負傷したのは、耳、だった。
左耳が“半分千切れかけた”状態で救急車で運ばれ、最接着の緊急手術を受けたのである。
母曰く、夜中に突然二階から悲鳴――というより絶叫が聞こえてきて、駆けつけてみれば、悠里が血まみれのベッドの上で耳を抑えてのたうちまわっていたのだと言う。
結果として手術は成功し、耳は縫合されて繋がった。ただ、退院後も悠里はひどく
なにかに
怯えていて、一人で眠ることができない状態に陥っていた。誰かの付き添いが必要で、且つ、「昼間」「自分の部屋以外の場所」でないと眠れないと言う。
しかしうちは母子家庭であり、家計を支えている母が何日も仕事を休むことは出来なかった。そこで、大学生で比較的自由のきく僕が、日中付き添って過ごすことになったのである。
僕は決して勉強熱心な人間ではなかったが、万が一にも、留年などの危機に陥って母の負担を増やすわけにはいかないという気持ちがあったため、大学の授業をサボるようなことはほとんどしてこなかった。そのため一・二週間くらいなら休んでも、進級に響く心配がなかったのである。
しかし悠里からしてみれば、付き添いの相手が僕だなんてさぞかし気詰まりなことだろう。実際初めの数日間、悠里はソファに横たわるやいなやこちらに背中を向け、落ち着かない様子で身を固くしていた。
怪我をした理由についても自分から話そうとはしなかったし、こちらから問うことも憚られた。悠里が塞ぎ込んだ様子で、そっとしておいて欲しがっているように見えたから、というのもあるが、例えそうでなくとも、どうせなんと声をかけていいかなど分からなかっただろう。
僕と悠里の間には、目には見えなくとも手触りを感じられるような類いの、壁があった。悠里は明るくて友人も多く、クラスでも目立つタイプの女の子だ。しかも思春期まっさかりの中学生ときている。
僕のような陰気でつまらない、しかも七つも年の離れた兄など、目障りなだけなのだろう。悠里の態度はいつもよそよそしく、表立って喧嘩もしないかわり、必要以上の会話を交わすこともあまりなかった。
特に僕が実家を出てからは、顔を合わせる機会すら半年に一度程度しかなくなっている。
しかし、昨日。
「耳を、切られかけたの」
悠里はそんな風に話を切り出したのだった。
きっかけとなったのは、何の変哲もない
ハサミ
だった。昨日の僕は何処へ行く予定もないからと着古したスウェットを身につけていたのだが、ふとそのスウェットの裾からほつれた糸が飛びだしているのが目について、引っ張ってみたら余計に伸びてしまったため、仕方なくハサミを出してきてそれをちょきんと切った。たったそれだけのことだ。
しかしその途端に、向かいのソファに寝ていた悠里がすごい勢いでとび起きて、こちらを振り返った。包帯越しに左耳を抑え、見開いた目でこちらを凝視する悠里に、
「ごめん、うるさかったか?」
おずおずと謝罪を口にした。ほんの小さな、しかも一瞬の物音であり、普通なら気に留まるわけもないが、今の悠里は特別に神経が過敏になっているのだろうと僕は思った。しかし悠里は首を横に振って「はさみ、」と呟いたのである。
「え?」
「はさみ、早く、しまって」
悠里は目を伏せてそう言った。
僕はよく分からないまま、ハサミを片付けて戻ったが、悠里はソファに掛けたままじっとしており、寝直そうとする様子を見せない。
一体どうしたのかとたじろいでいると、暫くして、耳を切られかけたの、と、言い出したのだった。
「しゃきん、しゃきんって、すごく切れ味のいいはさみを閉じたり開いたりするみたいな、音。どこからなのかどうしても分からなかったんだけど、あの夜は耳元で聞こえて、目を開けたら、いたの」
悠里の話は要領を得なくて、言わんとしていることが僕にはさっぱり掴めなかった。戸惑いながら、
「いたって、何が?」
「分からない」
悠里は何かを払うように首を横に振りながら、分からない、分からない、と繰り返した。
「なにか、見たことのないような――化け物、だった」
震える声で呟かれたその言葉を聞いた瞬間、息が止まった。
心臓を鷲掴みにされるような不意打ちの衝撃に、縋るように、自分のスウェットの胸元を握りしめる。
僕は表向きはどうにか平静を保って(上手く出来ていたかどうかは分からないけれど)悠里から話を聞き出した。
時系列があちこちに飛び、ところどころが抜け落ちている彼女の話を補足・要約すれば、大体次のようになる。
一月程前から、悠里はどこからともなく聞こえてくる
音
に悩まされていた。しゃきん、しゃきん、というハサミを開閉するような鋭い音だ。
それは一人きりの室内や、学校の中や、夜道を歩いている時など、全く時と場所を選ばず、なんの前触れもなく聞こえてきて、しかしすぐに何事もなかったように止むのだと言う。
いつも、周囲にそのような音の発信源になりえる物は見つからず、気味悪く思いながらも、対処のしようがなくて放っていた。
しかしあの事件があった夜、いつも通り部屋で眠っていた悠里は、しゃきん、という例の音が聞こえてきてはっと目を覚ました。