プロローグ
文字数 1,424文字
―――僕が“水”を恐れるようになったきっかけは、ある日降った、なんの変哲もない雨にあった。
天気予報というものを確認する習慣が、僕にはついぞない。
だからその日降り出した雨だって、僕にとっては不意打ち、青天の霹靂とさえ言えるものであり、ぐしゃぐしゃになりながら駆け込んだコンビニで売られている傘の値段を見て、内心深い溜め息を吐きながらも、それを購める他はなかった。
こんなビニルのはりぼてのために一日分の食費(五百円)がとんでしまうことを口惜しくは感じても、これを教訓に今後は天気予報に注意を払おう、などとは考えず、何度だって同じ失敗を繰り返すのが、僕という人間である。
はりぼてをさして歩き出してから暫く、信号に引っかかって足を止めた。
目を伏せて、雨粒に叩かれるアスファルトの道路をぼんやりと眺める。何も写し取らない黒い水溜まりが、ぴちゃぴちゃ、ぱたぱたと、音をたてて膨らんでいく。
ちらりと信号に目を遣るとまだ赤だった。
水溜まりに視線を戻す。
水溜まりの中に、
先まではなかったように思えた。
ほんの一瞬目を離した隙に、どこからか涌いて出たかのような……。
それは、指、のように見えた。
しかしただのビニル袋が白い子犬に見えたり、うち捨てられている布団が死体に見えたり、そういう一瞬の錯誤というのはありがちなものだから、指に見えるだけの別の何かだろうと、初めは思った。
しかしどんなに目を凝らして、擦って、瞬いてみても、それの正体は一向掴めず、やはり人間の指のようにしか見えなかった。
黒く細い指は身を捩る虫のように蠢き、喘いだ後、縋るように水溜まりの縁を掴んだ。
まるで、水溜まりの底に溺れている人間が居るかのように。
そんな筈はないのに。
しかし、馬鹿げた想像を肯定するように、その指の持ち主が——頭が、ずるり、水を引きずりながら現れ出た。
ぷかりと、頭の上半分だけが水面に浮かび上がる。
なんなんだ、アレは……。
ザアアアアという水音と銀針のノイズの隙間を縫って、水底からゆっくりと、這い上がってこようとしている。人の形をした、しかし決して人ではない、ナニカ。
影、のようだった。
地面から剥がされて立体化した人の影のような。
しかしそれは影と違ってのっぺらぼうではなく、“目”を持っていた。
歪なアーモンド型に抉られた穴が二つ、不揃いに並んでおり、その奥に埋め込まれているのは確かに眼球だった。
真っ白な眼球の中で、小さな小さな黒瞳が、出口を求めて飛び回る虫みたいに、ぐるぐると回転し暴れている。
やがて、虫がぴたりと動きを止めて、僕を見た。
水溜まりから顔の上半分だけを出して、こちらをじっと見詰めている得体の知れない化け物——。
と、不意に水しぶきにべしゃりと頬を打たれて、はっと我に返った。
手から滑り落ちた傘の上げる飛沫だと気付く。それを契機に、
——逃げろ。
凍り付いていた頭と身体が動き出し、喚いていた。
逃げろ、アレが完全に這い出て来る前に逃げろ!
ひ、ひ、ひ……掠れた悲鳴じみた自身の呼吸が雨音に吸い込まれていく。手足が死人のように冷たく強張っているのは、雨のせいか恐怖のせいか、或いは両方なのか。
僕は頭の中の声に追い立てられるようにして、どうにか足を動かし、身を翻して走り出した。
大雨の中傘もささず、ぐしゃぐしゃになりながら、走って、走って、逃げ続けた。
――それが全ての、始まりだった。
天気予報というものを確認する習慣が、僕にはついぞない。
だからその日降り出した雨だって、僕にとっては不意打ち、青天の霹靂とさえ言えるものであり、ぐしゃぐしゃになりながら駆け込んだコンビニで売られている傘の値段を見て、内心深い溜め息を吐きながらも、それを購める他はなかった。
こんなビニルのはりぼてのために一日分の食費(五百円)がとんでしまうことを口惜しくは感じても、これを教訓に今後は天気予報に注意を払おう、などとは考えず、何度だって同じ失敗を繰り返すのが、僕という人間である。
はりぼてをさして歩き出してから暫く、信号に引っかかって足を止めた。
目を伏せて、雨粒に叩かれるアスファルトの道路をぼんやりと眺める。何も写し取らない黒い水溜まりが、ぴちゃぴちゃ、ぱたぱたと、音をたてて膨らんでいく。
ちらりと信号に目を遣るとまだ赤だった。
水溜まりに視線を戻す。
水溜まりの中に、
何か
が、落ちていた。先まではなかったように思えた。
ほんの一瞬目を離した隙に、どこからか涌いて出たかのような……。
それは、指、のように見えた。
しかしただのビニル袋が白い子犬に見えたり、うち捨てられている布団が死体に見えたり、そういう一瞬の錯誤というのはありがちなものだから、指に見えるだけの別の何かだろうと、初めは思った。
しかしどんなに目を凝らして、擦って、瞬いてみても、それの正体は一向掴めず、やはり人間の指のようにしか見えなかった。
黒く細い指は身を捩る虫のように蠢き、喘いだ後、縋るように水溜まりの縁を掴んだ。
まるで、水溜まりの底に溺れている人間が居るかのように。
そんな筈はないのに。
しかし、馬鹿げた想像を肯定するように、その指の持ち主が——頭が、ずるり、水を引きずりながら現れ出た。
ぷかりと、頭の上半分だけが水面に浮かび上がる。
なんなんだ、アレは……。
ザアアアアという水音と銀針のノイズの隙間を縫って、水底からゆっくりと、這い上がってこようとしている。人の形をした、しかし決して人ではない、ナニカ。
影、のようだった。
地面から剥がされて立体化した人の影のような。
しかしそれは影と違ってのっぺらぼうではなく、“目”を持っていた。
歪なアーモンド型に抉られた穴が二つ、不揃いに並んでおり、その奥に埋め込まれているのは確かに眼球だった。
真っ白な眼球の中で、小さな小さな黒瞳が、出口を求めて飛び回る虫みたいに、ぐるぐると回転し暴れている。
やがて、虫がぴたりと動きを止めて、僕を見た。
水溜まりから顔の上半分だけを出して、こちらをじっと見詰めている得体の知れない化け物——。
と、不意に水しぶきにべしゃりと頬を打たれて、はっと我に返った。
手から滑り落ちた傘の上げる飛沫だと気付く。それを契機に、
——逃げろ。
凍り付いていた頭と身体が動き出し、喚いていた。
逃げろ、アレが完全に這い出て来る前に逃げろ!
ひ、ひ、ひ……掠れた悲鳴じみた自身の呼吸が雨音に吸い込まれていく。手足が死人のように冷たく強張っているのは、雨のせいか恐怖のせいか、或いは両方なのか。
僕は頭の中の声に追い立てられるようにして、どうにか足を動かし、身を翻して走り出した。
大雨の中傘もささず、ぐしゃぐしゃになりながら、走って、走って、逃げ続けた。
――それが全ての、始まりだった。