第五話 幻を殺す

文字数 5,223文字

 結論から言うと、催眠療法には確かな効果があった。

 僕は催眠を受けている間、心地よいまどろみの中に身を浸し、全てから解放され鳥のように自由な気持ちになれたし、催眠を解かれた後にもその余韻は残っていて、治療前より身体が数キロ軽くなり、いつの間にか頭の中にかかりっぱなしになっていた靄が晴れたようにさえ感じられたのだ。
 半信半疑だったけれど、施術してもらって良かったと思えた。如月の催眠療法の腕は、どうやら信用出来そうだ。
 僕は良い気分を維持したまま夜を迎えて、恐る恐る窓の外を見てみると女の姿もなかったため、ほっとして、久しぶりに(数ヶ月ぶりかもしれない)深い眠りについた。

 翌日。女は姿を見せなかった。
 翌々日も、翌々々日も、現れなかった。
 最初の内は、たまたま姿を見せないだけだろうと思っていた僕も、一週間もすると女は

と確信を持てるようになった。
 あの定食屋で見たのが最後だった。
 女の幻覚が消えたことを報告すると、如月は喜んでくれ、「治療の効果が出てきているんだろう」と言った。
 たった一度でそれほど劇的な改善が得られるものなのかと不思議ではあったが、如月の屋敷を訪れた日から、色々なことが良い方向に向かい始めたのは事実だった。
 女の幻覚は消え、よく眠れるようになり、江波からも「大分顔色が良くなった」とお墨付きをもらった程である。
 今では週に一度、僕は催眠療法を受けるため屋敷に通っている。
 いや、催眠療法のためというよりも、ただ如月に……葵さんに、会いたいだけなのかもしれなかった。
 彼と居ると不思議と心が穏やかになった。初めて会った時から感じていた、あの心を慰撫するような優しい声の効果もあるのかもしれない。
 喋り方にしろ、いつも穏やかにそれでいて興味深そうに、僕の話に耳を傾けてくれる態度にしろ、カウンセラーという職にこれほどふさわしい資質を持つ人も他に居ないだろうと思えるほどだった。

 それで気がつくと僕は、生まれ故郷の記憶から子供の頃の思い出、初恋の失敗談に家族のこと――母子家庭で育ったこととか妹が一人居るけれど自分と正反対の性格であまりソリが合わないとか、入院している祖母のこととか――まで、あらゆるプライベートな話を赤裸々に語っていた。
 僕は口下手だしそもそも“自分の話”をするのは苦手だと思っていたけれど、葵さんを相手にした時だけは、不思議と話したいことが次から次に溢れて止まらなくなった。
 もっと自分のことを知って欲しいとさえ思った。

 何度目かの催眠療法で、「退行催眠」をかけてもらった。
 潜在意識に眠っている過去の記憶を探り、これにより現在抱えている問題の根源を理解し、また癒やすことも出来るらしい。
 この退行催眠によって、どうして今まで忘れていたのかと自分で驚くような体験や感情が幾つも思い出された。その内の一つが、“友達”についてである。

         ✳︎✳︎✳︎

 小学校一年生の時のことだ。
 僕の所属する一年二組の教室では、

が飼われていた。何の動物なのかは分からない。図鑑を手繰ってみたりもしたが、ついぞ同じものは見つけられなかったので、僕はそいつを勝手に「ハイイロ」と呼んでいた。理由はそのまんま、そいつの体色が灰色だったからだ。
 ハイイロの身体には、頭から爪先に至るまで毛が一本も生えていなかった。ちょうど無毛のネズミのように、皺だらけで、ちょっとダブついて見える皮膚が剥き出しだった。
 サイズは子供の両手に乗るくらい。
 四本の足で、赤ん坊のようにべたべたと地べたを這い回っていた。
 耳は、猫のそれに似た形状ながら、小指の先ほどの大きさしかなかった。
 代わりにとても大きな口――頭の半分程をしめていた――はチェシャ猫のそれみたいな三日月型で、ずらりと並んだ小さな歯が白く輝いていた。その常時笑っているような口元と、つぶらな瞳がチャームポイントだった。

 ハイイロはゲージ等にはいれられておらず、放し飼いだったが、僕に異様に懐き、いつも僕にばかり(まと)わり付いて、他の生徒達には興味を示さなかった。
 ハイイロは勿論言葉を喋らないどころか鳴き声の一つもあげなかったけれど、こちらの言葉は理解しているようで、話しかけると首を振ったり、足を踏みならしたり、歯をかちかち鳴らしたりといった仕草で反応を示してくれた。
 お喋りしたり、一緒に遊んだり、こっそり給食を分け合って食べたり、ハイイロと過ごす学校生活は楽しくて、僕にとって彼はとても大切な友達だった。
 他の生徒や先生がハイイロの存在を完全に無視していることも、ハイイロのような生き物は教室意外のどこを探しても見つからないことも、おかしなことだとは感じていなかった。

 しかしある日の放課後、担任の教師に空き教室へと呼び出され、行ってみるとそこには母が居た。
 どうやら担任が母を呼び出し、三人で話をする機会を設けたようだったが、当時七歳の僕には何が起きているのか分からなくて、参観日でもないのに母が学校に居ることや、優しかった担任が見たこともない深刻な顔(当時の僕には怒っているように見えた)をしている事が、怖くてたまらなかった。
 担任は「元気?」とか「学校は楽しい?」とか、久しぶりに会った親戚のおばちゃんかのような不自然な前振りを挟んだ後で、やっと本題を切り出した。

「なにもない所に向かって、いつも一人で喋ってるよね」

 担任はそう言った。
 そんなことはしていません、と僕は正直に答えたけれど、担任は困った顔をするばかりで、中々話は噛み合わなかった。
 しかし暫くして、ハイイロの事を聞かれているらしい、と僕は気がついた。
 答えたくなかった。
 先生も母もハイイロの事を嫌っていて、僕から遠ざけようとしているように感じられたからだ。しかし母と先生に囲まれ、問い詰められて、「ちゃんと答えなさい」と肩を掴まれれば、もう僕にはどうしようもなかった。
 問われるままに、ハイイロのことを全部話した。友達なんです、と恐る恐る主張した時、担任はあからさまに眉を顰め、

「そんなものいないわよ!」

 母は声をあげた。それは変に甲高く、ざらついた声で、まるで何かに取り憑かれているみたいに僕には聞こえて、とても怖かった。
 存在しないお友達じゃなくて、クラスの

お友達に目を向けて欲しい、と担任は言った。
 僕は頷いた。
 他にも担任と母は代わる代わる色々なことを僕に言い聞かせて、そして僕は一つも理解しえないまま、その全部に黙って頷いた。
 話が終わって教室を出る時担任が、僕には聞こえていないと思ったのか、あるいはどうせ理解出来ないとでも考えたのか、母に向かって、

「他の生徒達も怖がってるんですよ」

 と囁いていた。

「一度病院に行かれてはいかがですか?」

 帰り道、母は目を赤くしていた。

「そんなもの、いないわよ」

 歩きながら母は、今度は小さな低い声で、その言葉を繰り返した。

「……ごめんなさい」

 僕は呟いたが、母はその声が聞こえなかったみたいに、僕を置いて、足早に進んで行った。

 それから僕は急に、


 皆がどんな目で自分を見ているかがはっきりと分かるようになったのだ。

 ―――あいつは頭がおかしいんだよ。イジョウだ、イジョウ。そんなこと言ったらカワイソウだよビョウキなんだから。気持ちがわりいよ。こわいなあ。かかわっちゃダメってお母さんも言ってたよ。

 たくさんの声が聞こえてくるようになった。
 今までどうして気付けなかったんだろう。
 ハイイロはイジョウな、ビョウキの人間にしか見えない生き物で。

人間には見えない、見えてはいけないものだったのだ。
 それに気付いてから僕は、ハイイロを無視するようになった。
 ハイイロが遊んで欲しそうに僕の手をぱたぱたと叩いても、不安そうにうろうろと周りを歩き回っていても、じっと訴えかけるような目で見つめてきても、完全に知らない振り、見ない振りをし続けた。
 最初は“フリ”だったのだけれど、ハイイロはいつの間にか本当に見えなくなって、そして二度と、僕の前に姿を現すことはなかった。

「本当は皆に……いえ、母だけで良かった。母に認めて欲しかったんです、大事な友達のことを」

 催眠から覚めた時、自分が涙を流していることに気付いて僕は驚いた。
 「分かるよ」葵さんは僕の背中に手を添えて、同意してくれる。

「あなただけです。僕なんかの気持ちを、理解してくれるのは」

 葵さんは少しばかり変わった人だけれど、信頼できる。もしももっと早い段階でこの人に出会えていたら、自分の人生は今とは違ったものになっていたかもしれない。そんな風に思えるくらいに。

「うん、そうだね。その通りだよ」

 葵さんは艶然(えんぜん)と微笑む。

 あれ……?

 一瞬、小さな違和感のようなものが首を擡げた気がしたが、すぐに「気のせいだ」と思い直し、僕は涙を拭いながら笑い返した。

「IC……イマジナリーコンパニオンについては知ってる?」

 いつもの応接室へと場所を変え、僕がすっかり落ち着きを取り戻した頃、葵さんは切り出した。

「いまじなりーこんぱにおん?」

 耳慣れない言葉だ。首を捻る僕に、

「日本語で言うなら、すばり“空想の友人”だね」

「——あ」

「本人の頭の中にだけ存在する友。姿形は人間だったり架空の生物だったり、人形が喋り出すといった例もあるね。多くの場合、子供の成長に伴って自然に消えるよ」

 僕が見ていたのは、ハイイロとは、まさしくそれだったのだろうか。

「ICというのはね、妄想や幻覚とは別物なんだ」

 葵さんは言った。

「そう、なんですか?」

「幼少期の子供の豊かな想像力から生み出される存在で、社会的認知能力の向上や、情動を落ち着かせ発散する働きがあるとされているよ」

「えーっと、つまり?」

「心の隙間を埋め、支えとなり、その発達を助けてくれるもの」

 “異常”ではないということだよ。と、葵さんはその部分を特に強調し、言い聞かせるような調子で告げた。

 ――僕の頭はオカシクないんだ。ビョウキじゃ、ないんだ。

 先ほどまで退行していた余韻で、当時の感情が間近に、鮮明に胸に在ったため、葵さんの言葉は子供の頃の僕を直接に慰め、救ってくれるかのように感じられた。

「ICは他人の目には見えなくとも、持ち主の心の中に存在する真実だ。けれどあってはならないものだと他人に否定されたことで、君はそれを

しまった」

 そうだ。僕はハイイロを殺し、そして殺した事実すらも忘れることで、全てをなかったことにした。
 もう母の泣く顔を見たくなかったから。担任やクラスメイトの、気味の悪いものを見るような視線に晒されたくなかったから。

「僕が幻覚を見る原因は、

なんでしょうか」

 葵さんはこの問いにすぐには答えず、さらりと髪を揺らし、無表情にこちらを見返した。
 僕は焦燥にかられて口を開く。

「じ、実は、昔からなんです。子供の頃から僕はよく、変な幻覚を見るんです」

 この話を人にするのは初めてのことだった。今まで家族にすら打ち明けたことはなかったのだ。

 だけどこの人なら、きっと大丈夫だ。

「変な幻覚?」

「ええ、例えば、その……」
 
 決して快いものではない記憶をたぐり寄せながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。

「目の前をすうっと、巨大な毛玉みたいなものが横切っていくのを見たことがあります。学校の窓に僕にしか見えない人型の赤い染みがはりついてたり、人間の赤ん坊みたいな顔をした巨大な芋虫みたいなのに追いかけられたりとか……実家に居た頃、隣の家の壁に人間の顔をしたヤモリがずっとくっついていたこともありました。微動だにしないままただそこに貼り付いていて、隣家の住人が越していくまでそのままだったんですけど」

 そこで言葉を切って、葵さんの反応を窺う。真面目な顔をして話を聞いていた彼は、僕と目が合うと安心を促すようににこりと微笑んだ。ほっと息を吐く。
 やっぱり葵さんだけは、僕を否定せず認めてくれるのだ。母親にさえ疎まれた、こんな僕を。

「うん。君がそういう幻覚を見る原因は、ハイイロにあるんだろうと私も思うよ」

 葵さんは僕の意見に同意を示してくれた。

「君が殺したハイイロの亡骸はね、今も心の深い場所に埋められているんだよ。それが時折、ふとした拍子に掘り返されて、

として君の前に現れる」

 そうか。葵さんの説明は不思議なほどすとんと僕の胸に落ちてきた。彼はいつだって、僕が求めている答えをくれる。

「では僕は、どうしたらいいんでしょう?どうしたら、幻覚は現れなくなるんでしょうか?」

 縋るように、祈るように、或いは神に救いを求める子羊のように。僕は彼の前に(ひざまず)く。

「女の幻覚はもう消えたんだろう?それとも他にまだ、現在進行形で見えてるものがあるのかい?」

 葵さんの問いに、僕はこくこくと激しく首を縦に振った。
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