第七話 嗤う鬼
文字数 5,048文字
空が、青い。
既に日は落ちたようだ。
抑揚のない、暗い青一色を貼り付けた空には、不自然なほど巨大な白い月一つきりが浮かんでいる。
空。……そら?
「え、空?」
僕はついに声に出して呟いた。
目を覚ましたら視界一杯に空が広がっている、なんて、普通あり得ない。
大学入学時強制参加させられた部の飲み会で無理矢理酒を飲まされ、泥酔して道ばたで寝こけてしまった時以来のシチュエーションだ。だが今の僕は無論、しらふである。
慌てて身を起こそうとして、ぐらりと地面が揺れた。
一瞬、まだはっきりしない頭で「地震か?」と身構えたが、すぐにそうではないと気付かされた。
僕が身を置いているのは地面の上では(勿論ベッドの上でも)なかった。
舟の上だった。
木製の小舟の上に、横たわっているのである。
意味が分からない。
先まで自分は、そう、葵さんの屋敷でお茶をしていたはずだった。
――じゃあこれは夢か?
考えながら恐る恐る、辺りを見回してみる。
舟なのだから当然といえば当然、水の中に浮かんでいた。
月明かりに照らされる青白い水がたっぷりと湛えられた、湖のようである。
サッカー場くらいの広さがあって、その周囲は真っ黒な影と化した木々に囲まれていた。森の中だ。ということは、葵さんの屋敷からそれほど離れた場所ではないのだろうか。
肝心の葵さんはしかし、何処に居るのか。
彼がそばに居さえすれば、例え湖の真ん中だろうと水坊主が出てくることはないはずだが、今僕は一人ぼっちだ。
意識した途端全身が強張り、背骨に冷たい痺れが広がっていく。
誰が何の目的で、僕を湖に流したりなどしたのだろう。
犯人が存在するはずだが、そいつは僕を置いて逃げてしまったのか、少なくとも見える位置には誰も居なかった。
全てが謎であるが、それについて考えるのは岸にたどり着いてからにするべきだろう。
この舟には何故かオールがなかった。僕はカナヅチだから泳いで帰ることも不可能だし、完全に手ぶらで、ポケットを探ってもスマートフォンの一台も出てこない。グラスの中の水のように、湖を飲み干してしまうというわけにもいかない。
手をオール代わりにして、水を掻いて少しずつ進むことって、可能だろうか……?
考えてみても分からなかったが、他に選択肢もないし、試してみるしかなさそうだ。
水面を見下ろして、息を呑む。
手を伸ばしたその瞬間に、水中からずるりと黒い指が生えてきて、素早く僕の手を掴んで水底へ引きずり込む。そんなイメージが鮮明に脳裏に浮かんだ。
——いや、そんなことはあり得ない。あり得ないんだ。
自分自身をかき口説くように、繰り返す。
水坊主なんてものは幻覚に過ぎないのだ。幻覚に踊らされて、自分から転落し溺れることはあっても、物理的に引っ張られるなんてことは絶対にない。
打ち勝つんだ。
いつかの葵さんの台詞を頭の中で反芻し、袖をまくり上げた。その時、
―――ぴちゃん……ぴ、ちゃん……。
小さな水音が、耳を打った。
すぐ後ろから聞こえている。
いる。ヤツがすぐそこにいる。
恐ろしくてとても振り返ることなんて出来ない。
——いや違う、振り返ってどうするんだ。
僕が考えるべきことは、
意を決して、水の中に腕を突き入れる。
秋の夜とあって水温は低く、骨に染みる冷たさに、腕が千切れ落ちそうな痛みを感じた。
それでも力を篭めて、全力で水を掻く。
舟が、ぐらぐら、と揺れた。
ぎい、ぎい、老婆の笑い声のような、不気味な軋み音が鳴り響く。
僕の動きに連動しているものと思いたかったが、明らかに不自然な揺れ方で、まるでナニカが舟を両手で掴んで揺さぶっているかのようだった。
僕は腕を水に浸したまま、凍り付く。
それでもまだ音は止まない。どころか、大きくなっていく。
ぎい……ぴちゃん……ぎい、ぎい……ぴ、ちゃん……。
近付いている。
もう、息のかかる距離に、ヤツがいるのが分かる。
背中にぴとりと、指が触れた。
冷たく濡れた指の感触が、シャツを通過して皮膚をなぞる。
「……っ!」
反射的に背中がびくりと跳ねて、音にならない悲鳴がパンクしたタイヤの空気みたいに喉から漏れた。
その勢いのまま僕は思わず身を翻した。
尻で後ずさり、舟のへりへ背中をぶつける。
目の前に、化け物の顔があった。
これほどの至近距離で見てしまったのは、初めてのことだ。
真っ白な目玉の中心、針で突かれた孔みたいな小さな黒い瞳が、じいっと僕を見つめている。
鼻と口はない。それに、これは初めて気が付いたのだが、水坊主の中身は
それは、型の中に太いミミズみたいな生き物を敷き詰めて、無理矢理人間に似た形状を形成しているみたいに見えた。
輪郭の内側を真っ黒なミミズたちが這い回り、身をくねらせ、蠢いている。
「おえっ―――」
あまりのおぞましさに、僕は顔を逸らし、水面に身を乗り出して嘔吐した。
気持ち悪い、気持ち悪い、頭がぐらぐらする。
生理的な涙が溢れて、吐瀉物と共に水に吸い込まれていく。
ずしり、と、背中に重みがのしかかってきた。
体勢が崩れ、眼前にどろりとした水が迫ってくる。
異様な重みに内臓を圧迫される感覚は、苦しいというより、何だろう。
少しだけ、気持ちが良いと思えた。
ああ、ぬるりとして、冷たくて、とても重たくて、気持ちがいい。
身体と一緒に意識までも、穏やかな無の底に沈んでいくような感覚だった。
……もう、いいか。別に。
舟が傾いていく。その時。
チカ、と、何か眩しい光が、閉じかけた僕の瞳を射った。
なんだ?
強い刺激に眉を顰め、緩慢に視線を動かす。はっきりとした黄色い光線が、岸辺まで真っ直ぐに伸びているのが見えた。
その終点に人影があった。
——あれは、葵、さん?
僕は目を凝らす。間違いない、葵さんだった。
彼が懐中電灯を片手に、岸辺に立っているのである。
そう認識した瞬間、遠のきかけていた意識が、弾かれたように覚醒した。
何を諦めようとしているんだ、僕は馬鹿か!
その事実にぞっとして、のしかかっている水坊主をはねのけようと全力で藻掻く。
が、そうやって暴れたせいか、ただでさえ傾きかけていた舟のバランスがついに崩壊した。
あ、と思ったときにはもう遅く。小さな舟は転覆し、僕の身体は水中に投げ出されていた。
――死ぬ。
口の中に大量の水が流れ込んでくる。
息が出来ない。
がむしゃらに手足を振り回し、逆さの状態で水に浮かんでいる舟に、どうにかしがみついた。
肺ごと吐き出しそうな咳をしつつ、上半身を板面の上に持ち上げようと試みるも、水坊主がまだ僕の腰あたりに張り付いて邪魔をしてくるため、思うようにいかない。
助けて、助けて。
祈り、水坊主を蹴落とそうと足をばたつかせながら再び岸の方へ目を遣る。
こちらへ向かって真っ直ぐに駆け寄ってくる、葵さんの姿が見えた。
ああ、僕を助けに来ようとしてくれているのだ。
――しかし。
なにかが変だ。少し、いや、明確におかしい。
あの人一体、
理解の追いつかない光景に、騙し絵を見せられているみたいに脳が混乱し、フリーズした。
「うわっ!」
葵さんの方に気を取られていたせいで、隙をつくように水坊主にぐいと肩を掴んで引っ張られ、舟から手が滑り落ちる。
一瞬でまた水中に没しながら、思わず目を閉じた。
「シグマ君!」
声がした。
宙を掻いていた僕の手が、冷たい手に掴まれて引き上げられる。
そこに居たのは葵さんだった。
“水の上を走ってきた”葵さんが、“水の上に跪 いて”、引っぱり上げた僕を腕に抱えたまま、“水の上で立ち上がる”。
つまり僕は、葵さんの支えだけを頼りに空中に浮かんでいるような、訳の分からない体勢になっていた。
なんなんだ、本当に、何が起きてるんだ?
目の前の、相変わらず人間離れした美しさの顔を呆然と見つめる。
と、葵さんの口が大きく、「あ」の形に開かれた。
何か言葉を発するものと思って待っていたら、掴まれたままの右手をぐいと引っ張られて、そして、
噛みつかれた。
「いっ……!」
びり、と電気を流し込まれたような鋭い痛みが走る。
葵さんの歯――牙?が、僕の右手首に刺さっていた。
次の瞬間、ずる、と何か不吉な音と共に、身体の中身を引きずり出され、生命の一部を吸い出されるような感覚に襲われる。
しかし全ては一瞬の間のことで、気が付くと僕の右手は解放されており、ほぼ同時に、しつこく背中にへばりついていた重みと感触がふっと遠ざかった。
見ると、いい加減諦めたのか、僕から離れた水坊主が水底に帰ろうとしている。
これで助かる。と、ほっと息を吐いたのも束の間、
「逃がすかよ」
地獄の底から這い上がってくるような、低い声がした。
耳の奥に潜り込んで神経を鷲掴みにされるような感覚に背筋が震える。
驚いて前へ向き直ると同時に、突き飛ばされた。
葵さんに突き飛ばされ、僕の身体はまたもや宙に投げ出されたのである。
僕は恐怖よりも突き放されたショックで呆然としていたが、為す術もなく沈みかけた身体を掴む、新たな手があった。
後ろにもう一人誰かが居るのだ。僕はその人に背中から抱えられる格好で、水に浮かんでいた。
——誰だ?
背中に密着されているため、振り向いて何者なのか確かめることは出来なかったが、それよりも僕の意識は、目の前の光景の方に釘付けになっていた。
葵さんは、逃げようとしていた水坊主の首根っこを掴んで引き上げ、逆さまの舟の上に叩きつけ、更にはその背中を片足で踏みつけていた。
その葵さんの顔が、みるみる変化していく様を、僕は見ていた。
笑っている。
見たこともない顔で、大きく口を開けて笑っている。
鋭い、牙のような歯が剥き出しで、歪んだ唇の一部は紅を塗ったように赤く染まっていた。背負った月明かりに照らされて、その赤がぎらりと光る。
あ、あの赤はさっき吸われた僕の血だ、と気付いた瞬間、ぞくりと悪寒が走った。
瞳もまた紅く変色している。
その瞳を中心に太い条が放射状に伸び、顔全体に広がっていくのを見た。それは異常に膨らんだ血管のように、内側から皮膚を盛り上げている。
最早どう見ても、人間の顔ではなかった。
決定的なのは額から生えた、ツノ、だった。
骨のように真っ白な鋭いツノ。
額の中の骨が盛り上がって、肉と皮膚を破って飛びだしてきたかのようだ。
目の前に居るのが誰なのか、分からなくなる。
気が変になりそうだった。或いはとうに僕は狂っていて、今見ているもの全てが狂った頭の創り上げた幻想なのかもしれず、いっそそうである方が幸せだとすら思えた。
――手。
得体の知れない何かが、おもむろに片手を持ち上げる。
そこだけは、白く滑らかな人間の手だった。
空中を滑る手。見えない何かを引っ張り出そうとするような動きだと思ったら、本当に空中から何かが出て来た。
重たげに黒光りする、無数の棘を纏った太い棒だ。
あれは、金棒、だろうか。
桃太郎に出てくるような赤や青の鬼が携えているのを、イラストや映像ではよく見かけるけれど、実物を目にするのは初めてだった。
何なのだ、これは、一体。
やっぱり全部夢なんじゃないかと思えるほど、現実感のない光景だった。
男が肩に担いだ鉄の塊を玩具のように軽々と振り上げて、
「消え失せろ」
振り上げられたそれが、水坊主の身体めがけて真っ直ぐに落ちた。
バキバキと激しい破壊音が響きわたる。
水坊主の、ミミズの寄り集まったような身体の輪郭が一瞬で解け、中身が飛散し、激しい水しぶきや木片に混じって消えていく。
男が再び金棒を持ち上げた時、そこに残されていたのは無惨な舟の残骸だけだった。
人外の化け物など最初から存在しなかったみたいに、跡形もない。
――いや、違うな。
僕は思い直す。
「あなたは、いったい、」
水を飲んだせいもあって酷く嗄れた喉から絞り出す声は、我ながら情けない程に掠れ、震えていた。
「私かい?私はね、」
――鬼、だよ。
そう言って男は、嗤 ったのだった。
既に日は落ちたようだ。
抑揚のない、暗い青一色を貼り付けた空には、不自然なほど巨大な白い月一つきりが浮かんでいる。
空。……そら?
「え、空?」
僕はついに声に出して呟いた。
目を覚ましたら視界一杯に空が広がっている、なんて、普通あり得ない。
大学入学時強制参加させられた部の飲み会で無理矢理酒を飲まされ、泥酔して道ばたで寝こけてしまった時以来のシチュエーションだ。だが今の僕は無論、しらふである。
慌てて身を起こそうとして、ぐらりと地面が揺れた。
一瞬、まだはっきりしない頭で「地震か?」と身構えたが、すぐにそうではないと気付かされた。
僕が身を置いているのは地面の上では(勿論ベッドの上でも)なかった。
舟の上だった。
木製の小舟の上に、横たわっているのである。
意味が分からない。
先まで自分は、そう、葵さんの屋敷でお茶をしていたはずだった。
――じゃあこれは夢か?
考えながら恐る恐る、辺りを見回してみる。
舟なのだから当然といえば当然、水の中に浮かんでいた。
月明かりに照らされる青白い水がたっぷりと湛えられた、湖のようである。
サッカー場くらいの広さがあって、その周囲は真っ黒な影と化した木々に囲まれていた。森の中だ。ということは、葵さんの屋敷からそれほど離れた場所ではないのだろうか。
肝心の葵さんはしかし、何処に居るのか。
彼がそばに居さえすれば、例え湖の真ん中だろうと水坊主が出てくることはないはずだが、今僕は一人ぼっちだ。
意識した途端全身が強張り、背骨に冷たい痺れが広がっていく。
誰が何の目的で、僕を湖に流したりなどしたのだろう。
犯人が存在するはずだが、そいつは僕を置いて逃げてしまったのか、少なくとも見える位置には誰も居なかった。
全てが謎であるが、それについて考えるのは岸にたどり着いてからにするべきだろう。
この舟には何故かオールがなかった。僕はカナヅチだから泳いで帰ることも不可能だし、完全に手ぶらで、ポケットを探ってもスマートフォンの一台も出てこない。グラスの中の水のように、湖を飲み干してしまうというわけにもいかない。
手をオール代わりにして、水を掻いて少しずつ進むことって、可能だろうか……?
考えてみても分からなかったが、他に選択肢もないし、試してみるしかなさそうだ。
水面を見下ろして、息を呑む。
手を伸ばしたその瞬間に、水中からずるりと黒い指が生えてきて、素早く僕の手を掴んで水底へ引きずり込む。そんなイメージが鮮明に脳裏に浮かんだ。
——いや、そんなことはあり得ない。あり得ないんだ。
自分自身をかき口説くように、繰り返す。
水坊主なんてものは幻覚に過ぎないのだ。幻覚に踊らされて、自分から転落し溺れることはあっても、物理的に引っ張られるなんてことは絶対にない。
打ち勝つんだ。
いつかの葵さんの台詞を頭の中で反芻し、袖をまくり上げた。その時、
―――ぴちゃん……ぴ、ちゃん……。
小さな水音が、耳を打った。
すぐ後ろから聞こえている。
水から上がってきた何か
が、舟の床に水滴を滴らせているかのような、そんな音だった。いる。ヤツがすぐそこにいる。
恐ろしくてとても振り返ることなんて出来ない。
——いや違う、振り返ってどうするんだ。
僕が考えるべきことは、
前に進むことだけだ
。意を決して、水の中に腕を突き入れる。
秋の夜とあって水温は低く、骨に染みる冷たさに、腕が千切れ落ちそうな痛みを感じた。
それでも力を篭めて、全力で水を掻く。
舟が、ぐらぐら、と揺れた。
ぎい、ぎい、老婆の笑い声のような、不気味な軋み音が鳴り響く。
僕の動きに連動しているものと思いたかったが、明らかに不自然な揺れ方で、まるでナニカが舟を両手で掴んで揺さぶっているかのようだった。
僕は腕を水に浸したまま、凍り付く。
それでもまだ音は止まない。どころか、大きくなっていく。
ぎい……ぴちゃん……ぎい、ぎい……ぴ、ちゃん……。
近付いている。
もう、息のかかる距離に、ヤツがいるのが分かる。
背中にぴとりと、指が触れた。
冷たく濡れた指の感触が、シャツを通過して皮膚をなぞる。
「……っ!」
反射的に背中がびくりと跳ねて、音にならない悲鳴がパンクしたタイヤの空気みたいに喉から漏れた。
その勢いのまま僕は思わず身を翻した。
尻で後ずさり、舟のへりへ背中をぶつける。
目の前に、化け物の顔があった。
これほどの至近距離で見てしまったのは、初めてのことだ。
真っ白な目玉の中心、針で突かれた孔みたいな小さな黒い瞳が、じいっと僕を見つめている。
鼻と口はない。それに、これは初めて気が付いたのだが、水坊主の中身は
蠢いて
いた。遠くからは、つるっとした影を三次元に膨らませたようなモノに見えていたが、違った。それは、型の中に太いミミズみたいな生き物を敷き詰めて、無理矢理人間に似た形状を形成しているみたいに見えた。
輪郭の内側を真っ黒なミミズたちが這い回り、身をくねらせ、蠢いている。
「おえっ―――」
あまりのおぞましさに、僕は顔を逸らし、水面に身を乗り出して嘔吐した。
気持ち悪い、気持ち悪い、頭がぐらぐらする。
生理的な涙が溢れて、吐瀉物と共に水に吸い込まれていく。
ずしり、と、背中に重みがのしかかってきた。
体勢が崩れ、眼前にどろりとした水が迫ってくる。
異様な重みに内臓を圧迫される感覚は、苦しいというより、何だろう。
少しだけ、気持ちが良いと思えた。
ああ、ぬるりとして、冷たくて、とても重たくて、気持ちがいい。
身体と一緒に意識までも、穏やかな無の底に沈んでいくような感覚だった。
……もう、いいか。別に。
舟が傾いていく。その時。
チカ、と、何か眩しい光が、閉じかけた僕の瞳を射った。
なんだ?
強い刺激に眉を顰め、緩慢に視線を動かす。はっきりとした黄色い光線が、岸辺まで真っ直ぐに伸びているのが見えた。
その終点に人影があった。
——あれは、葵、さん?
僕は目を凝らす。間違いない、葵さんだった。
彼が懐中電灯を片手に、岸辺に立っているのである。
そう認識した瞬間、遠のきかけていた意識が、弾かれたように覚醒した。
何を諦めようとしているんだ、僕は馬鹿か!
持って行かれかけていた
。その事実にぞっとして、のしかかっている水坊主をはねのけようと全力で藻掻く。
が、そうやって暴れたせいか、ただでさえ傾きかけていた舟のバランスがついに崩壊した。
あ、と思ったときにはもう遅く。小さな舟は転覆し、僕の身体は水中に投げ出されていた。
――死ぬ。
口の中に大量の水が流れ込んでくる。
息が出来ない。
がむしゃらに手足を振り回し、逆さの状態で水に浮かんでいる舟に、どうにかしがみついた。
肺ごと吐き出しそうな咳をしつつ、上半身を板面の上に持ち上げようと試みるも、水坊主がまだ僕の腰あたりに張り付いて邪魔をしてくるため、思うようにいかない。
助けて、助けて。
祈り、水坊主を蹴落とそうと足をばたつかせながら再び岸の方へ目を遣る。
こちらへ向かって真っ直ぐに駆け寄ってくる、葵さんの姿が見えた。
ああ、僕を助けに来ようとしてくれているのだ。
――しかし。
なにかが変だ。少し、いや、明確におかしい。
あの人一体、
どこを走っているんだ
?理解の追いつかない光景に、騙し絵を見せられているみたいに脳が混乱し、フリーズした。
「うわっ!」
葵さんの方に気を取られていたせいで、隙をつくように水坊主にぐいと肩を掴んで引っ張られ、舟から手が滑り落ちる。
一瞬でまた水中に没しながら、思わず目を閉じた。
「シグマ君!」
声がした。
宙を掻いていた僕の手が、冷たい手に掴まれて引き上げられる。
そこに居たのは葵さんだった。
“水の上を走ってきた”葵さんが、“水の上に
つまり僕は、葵さんの支えだけを頼りに空中に浮かんでいるような、訳の分からない体勢になっていた。
なんなんだ、本当に、何が起きてるんだ?
目の前の、相変わらず人間離れした美しさの顔を呆然と見つめる。
と、葵さんの口が大きく、「あ」の形に開かれた。
何か言葉を発するものと思って待っていたら、掴まれたままの右手をぐいと引っ張られて、そして、
噛みつかれた。
「いっ……!」
びり、と電気を流し込まれたような鋭い痛みが走る。
葵さんの歯――牙?が、僕の右手首に刺さっていた。
次の瞬間、ずる、と何か不吉な音と共に、身体の中身を引きずり出され、生命の一部を吸い出されるような感覚に襲われる。
しかし全ては一瞬の間のことで、気が付くと僕の右手は解放されており、ほぼ同時に、しつこく背中にへばりついていた重みと感触がふっと遠ざかった。
見ると、いい加減諦めたのか、僕から離れた水坊主が水底に帰ろうとしている。
これで助かる。と、ほっと息を吐いたのも束の間、
「逃がすかよ」
地獄の底から這い上がってくるような、低い声がした。
耳の奥に潜り込んで神経を鷲掴みにされるような感覚に背筋が震える。
驚いて前へ向き直ると同時に、突き飛ばされた。
葵さんに突き飛ばされ、僕の身体はまたもや宙に投げ出されたのである。
僕は恐怖よりも突き放されたショックで呆然としていたが、為す術もなく沈みかけた身体を掴む、新たな手があった。
後ろにもう一人誰かが居るのだ。僕はその人に背中から抱えられる格好で、水に浮かんでいた。
——誰だ?
背中に密着されているため、振り向いて何者なのか確かめることは出来なかったが、それよりも僕の意識は、目の前の光景の方に釘付けになっていた。
葵さんは、逃げようとしていた水坊主の首根っこを掴んで引き上げ、逆さまの舟の上に叩きつけ、更にはその背中を片足で踏みつけていた。
その葵さんの顔が、みるみる変化していく様を、僕は見ていた。
笑っている。
見たこともない顔で、大きく口を開けて笑っている。
鋭い、牙のような歯が剥き出しで、歪んだ唇の一部は紅を塗ったように赤く染まっていた。背負った月明かりに照らされて、その赤がぎらりと光る。
あ、あの赤はさっき吸われた僕の血だ、と気付いた瞬間、ぞくりと悪寒が走った。
瞳もまた紅く変色している。
その瞳を中心に太い条が放射状に伸び、顔全体に広がっていくのを見た。それは異常に膨らんだ血管のように、内側から皮膚を盛り上げている。
最早どう見ても、人間の顔ではなかった。
決定的なのは額から生えた、ツノ、だった。
骨のように真っ白な鋭いツノ。
額の中の骨が盛り上がって、肉と皮膚を破って飛びだしてきたかのようだ。
目の前に居るのが誰なのか、分からなくなる。
気が変になりそうだった。或いはとうに僕は狂っていて、今見ているもの全てが狂った頭の創り上げた幻想なのかもしれず、いっそそうである方が幸せだとすら思えた。
――手。
得体の知れない何かが、おもむろに片手を持ち上げる。
そこだけは、白く滑らかな人間の手だった。
空中を滑る手。見えない何かを引っ張り出そうとするような動きだと思ったら、本当に空中から何かが出て来た。
重たげに黒光りする、無数の棘を纏った太い棒だ。
あれは、金棒、だろうか。
桃太郎に出てくるような赤や青の鬼が携えているのを、イラストや映像ではよく見かけるけれど、実物を目にするのは初めてだった。
何なのだ、これは、一体。
やっぱり全部夢なんじゃないかと思えるほど、現実感のない光景だった。
男が肩に担いだ鉄の塊を玩具のように軽々と振り上げて、
「消え失せろ」
振り上げられたそれが、水坊主の身体めがけて真っ直ぐに落ちた。
バキバキと激しい破壊音が響きわたる。
水坊主の、ミミズの寄り集まったような身体の輪郭が一瞬で解け、中身が飛散し、激しい水しぶきや木片に混じって消えていく。
男が再び金棒を持ち上げた時、そこに残されていたのは無惨な舟の残骸だけだった。
人外の化け物など最初から存在しなかったみたいに、跡形もない。
――いや、違うな。
僕は思い直す。
人外の化け物
ならば、まだ目の前に一体存在しているではないか。「あなたは、いったい、」
水を飲んだせいもあって酷く嗄れた喉から絞り出す声は、我ながら情けない程に掠れ、震えていた。
「私かい?私はね、」
――鬼、だよ。
そう言って男は、