第八話 その鬼の言うことには
文字数 3,597文字
次に目を覚ました時最初に視界に飛び込んできたものは、如月葵の顔だった。
僕は驚きすぎて声も出ないままカエルのように跳ね上がり、ベッドの上へと身を起こす。
――あ、ベッドだ。
とりあえず小舟の上でないことに微かな安堵の息を吐きつつ、ばっと辺りを見回した。
どうやらここは寝室のようだ。他の部屋同様広くてシンプルで片付いていて、小洒落た空間である。
ふふっ。と、小さな笑い声。言うまでもなくその声の主は葵さんだった。
「な、なにを、笑ってるんですかっ」
僕はどんな表情を作ればいいのかも分からず、ベッドの端まで後ずさりながらぎこちなく口を開く。
「いやね、君、急に白目を剝いて失神したんだよ。その顔を思い出したら面白くて」
そうか僕は気を失ったのか……。
ちらり、葵さんの顔を盗み見る。
全くいつも通りの、傷一つない、美しい人間の顔だった。
それでは先ほど僕が見たものは何だったのか。やはり夢?
混乱の極みの中で、縋るように枕を掴んでいた自身の右手が視界に入る。
手首に二つ、穴が開いていた。
赤黒く変色した、まるで吸血鬼にでも噛まれたような跡である。
——やっぱりどう考えても、夢なんかじゃないよな。
葵さんは自分から話を切り出そうとする様子もみせず、ベッドサイドに置いた椅子にかけて、機嫌良さげな表情でこちらを見ている。
僕はそんな彼に視線を合わせ、深呼吸を一つ。「あ、あの!」と、口を開きかけたその時。
ガチャリと音がして、部屋の扉が開かれた。
入り口に盆を持った若い女性が一人立っていて、「失礼します」と頭を下げ中へ入ってくる。
「――は?」
僕はぱっかりと口を開けて、呆然とその女性を見つめた。
襟付きのグレイのロングワンピースに真っ白なエプロンという、クラシカルなメイド服姿。金茶色のおかっぱ頭に、人形のように整った顔。
「あっ、あ、あ……!」
僕は震える指で女性を指しながら、軋む首を回して葵さんの方を振り向く。
「それって何だっけ?カオナシ?」
「なん、なんで、この人が、ここここに!」
目の前に居るのは紛れもなく僕のストーカー……いや、消えたはずの幻覚だった。
それが何故こんな所で、再び登場するのだ。メイド服姿で緑茶を運んでくる幻覚なんぞ聞いたことがない。
「杏 だよ」
葵さんが言った。
「なんですって?あんず?」
「杏。うちの使用人。いつもお菓子を作ってくれているのは彼女だよ」
――使用人、だと?
葵さんの説明はしかし、僕の混乱を益々深めるばかりだった。
「幻覚じゃ、なくて?え、生きてるんですか?」
改めて杏と呼ばれた女性の方を見遣る。
すると彼女はサイドテーブルに盆を置き、僕の座っているベッドの脇に跪いた。
かと思うと、まだ枕を掴んでいた僕の片手をそっと握り持ち上げる。
突然の行動に“まさかこの人まで手首に噛みついてくる訳じゃあるまいな”と怯えていると、あろうことか杏さんとやらは、僕の手を自分の胸元へと運んで、そこに押し当てた。柔らかい肉の感触がダイレクトに伝わってきて、驚きすぎて上げそうになった悲鳴をなんとか呑み込む。
なんだこれ……あ、美人局 !?
痴漢として訴えられ金を巻き上げられるに違いない、と、慌てて胸から手を離そうとする僕に、
「心臓、動いておりますでしょう」
杏さんが言った。
「え?しんぞう?」
「この通り、私は生きております。幽霊でも幻覚でも……因みにストーカーでもありません」
杏さんは跪 いた体勢のまま、真っ直ぐに僕を見上げてくる。
やはり無表情で声にも抑揚が感じられず、人形じみているが、その柔らかな感触も体温も伝わってくる鼓動も、間違いなく生きているもののそれだった。
「わ、分かりました。分かりましたので、そろそろ離していただきたく……」
懸命に訴えると、杏さんは神妙に頷いて、やっと僕の手を解放してくれた。
「杏はね、私の指示で君を尾行していたんだよ」
僕らの遣り取りを横から見てくつくつ笑っていた葵さんが、さらりとそんなことを言った。
「はあ?」なんだって?
「ふふ、面白い顔」
葵さんは立ち上がると、盆から自分の湯呑みをとって口をつけながら、
「最初からずっと思っていたんだけど、君って感情が顔に出やすくて面白いよね。見ていて飽きないよ」
なんだかすごく馬鹿にされている気がしたが、今はそれどころではない。
「いや、なんですか尾行って……え?なんで、そんなことを?」
「え、分からないの?」
訝しげに訊ねてくる葵さんに、僕はぶんぶんと首を振る。分からないというか何も考えられない、頭が真っ白だ。
「君、最初に私の研究室を訪ねてきた時、自分から来ておいてちっとも話す気がなさそうだったじゃないか。心を閉ざしている人間から無理矢理話を聞き出すのは得策じゃない。だから杏に尾行させて、情報を得ようと思ったんだよ」
葵さんは当然のことのように告げる。
しかし情報を得るため即尾行なんて、発想が犯罪者じみている。
「あの……じゃああの時定食屋で会ったのも、偶然じゃなくて。杏さんから情報を得て、僕を追ってきてたってことですか?」
「だいせいかい」葵さんは湯呑みを持った手の人差し指をたてて僕を指し、唇の端を吊り上げる。
「ふ、ふざけないで下さいよ。それならなんで、彼女のこと、見えないふりなんてしたんですか」
あの時葵さんは、女なんて居ないとはっきり言った。自分の差し金だからしらばっくれるにしても、見えないふりは無理があるだろう。
「私はね、シグマ君。実は君のことを結構気に入っているんだよ」
「は?」
「だからね、君に心を開いてもらうために色々と回りくどい手を使ったし、それなりに時間もかけた。頑張ったんだよ」
時間をかけて、回りくどい手を使い、心を開かせる?
頭の中で繰り返しながら、僕はこれまでの出来事を振り返っていた。
――あの日が、始まりなのだ。
あの日、最初の催眠療法を受けて以来、ぴたりと女の幻覚が現れなくなった。
それで僕は葵さんの腕を信用し、毎週屋敷に足を運ぶようになり、退行催眠なども受け、ついには自分の身に起きていることを洗いざらいぶちまけるはめになったのである。
しかし実際にあの日の葵さんがやったことといえば、杏さんに尾行を中止させて、それをあたかも治療の結果であるかのように見せかけることだったわけだ。
「君は一般常識から外れたものを見ると、おしなべて幻覚だと思い込もうとする節があるだろう」
自分の目で見たモノすら信じられないなんて、難儀な性格だよね。葵さんはそう言って、僅かに憐れむような目をして僕を見下ろす。
「だから君のそういう性質を利用――失礼、活用することにしたんだ」
言い換えたところで何も緩和されていないのだが。
「一番最初、研究室で僕が見た人影は?」
「もちろん、彼女だ」
葵さんの答えに、杏さんがそっと頷く。
「葵様がお弁当をお忘れにならなれたので、大学までお届けに参りました」
「おべんとう」
「見つかると後々動きづらくなる可能性がありましたため、咄嗟に本棚の裏に隠れたのです」
つまり最初は、本当に偶然だったらしい。この時に僕が「霊など幻覚だ」などと持論を語ってしまったばかりに、葵さんはそれに話を合わせ、利用することを思いついたということになる。
僕が呆然としていると、杏さんがふいにすっと立ち上がった。そして、
「それでは私はこれ――っくしゅん!」
場を辞そうとしたようだが、言い切る前に
盛大なくしゃみが放たれる。意外と可愛らしいくしゃみだったので僕はつい笑いそうになり、口元を抑え、
「風邪ですか」誤魔化すように訊ねる。
「そうかもしれません」杏さんは頷いた。
「夜の湖で成人男性を抱えて水泳していたものですから」
「あ」もしかしなくても、さっき僕を後ろから支えてくれていたのは彼女だったようだ。
「ついでに、びしょ濡れの君の身体を拭いて服を着替えさせてくれたのも彼女だよ」
葵さんが口を挟む。言われてやっと、自分が葵さんのものと思しき白いシャツを身につけていることに気が付いた。
それにしても何故、僕の着替えをわざわざ女性にやらせるのだろう。葵さんがやればいいじゃないか……。
「私は学術書より重い物は持たない主義だからね」
僕の無言の訴えを感じ取ったのか、葵さんが言い訳を口にする。
さっき鉄の棒を片手で振り回してませんでしたか、というセリフが喉まで出掛かったが、追求しているとどんどん話が逸れていきそうな気がしたので心に仕舞っておくことにした。
「杏さんの事は分かりましたよ。でもその他の、今まで僕が見てきたものはどうなるんですか?あれらは、幻覚、なんですよね?」
「シグマくん。君はまだ混乱しているのかい?」
葵さんは微かに、小馬鹿にしたような笑みを唇の端に浮かべる。
「君が子供の頃から見続けてきた怪異達はね。全て、現実に存在しているんだよ」
僕は驚きすぎて声も出ないままカエルのように跳ね上がり、ベッドの上へと身を起こす。
――あ、ベッドだ。
とりあえず小舟の上でないことに微かな安堵の息を吐きつつ、ばっと辺りを見回した。
どうやらここは寝室のようだ。他の部屋同様広くてシンプルで片付いていて、小洒落た空間である。
ふふっ。と、小さな笑い声。言うまでもなくその声の主は葵さんだった。
「な、なにを、笑ってるんですかっ」
僕はどんな表情を作ればいいのかも分からず、ベッドの端まで後ずさりながらぎこちなく口を開く。
「いやね、君、急に白目を剝いて失神したんだよ。その顔を思い出したら面白くて」
そうか僕は気を失ったのか……。
ちらり、葵さんの顔を盗み見る。
全くいつも通りの、傷一つない、美しい人間の顔だった。
それでは先ほど僕が見たものは何だったのか。やはり夢?
混乱の極みの中で、縋るように枕を掴んでいた自身の右手が視界に入る。
手首に二つ、穴が開いていた。
赤黒く変色した、まるで吸血鬼にでも噛まれたような跡である。
——やっぱりどう考えても、夢なんかじゃないよな。
葵さんは自分から話を切り出そうとする様子もみせず、ベッドサイドに置いた椅子にかけて、機嫌良さげな表情でこちらを見ている。
僕はそんな彼に視線を合わせ、深呼吸を一つ。「あ、あの!」と、口を開きかけたその時。
ガチャリと音がして、部屋の扉が開かれた。
入り口に盆を持った若い女性が一人立っていて、「失礼します」と頭を下げ中へ入ってくる。
「――は?」
僕はぱっかりと口を開けて、呆然とその女性を見つめた。
襟付きのグレイのロングワンピースに真っ白なエプロンという、クラシカルなメイド服姿。金茶色のおかっぱ頭に、人形のように整った顔。
「あっ、あ、あ……!」
僕は震える指で女性を指しながら、軋む首を回して葵さんの方を振り向く。
「それって何だっけ?カオナシ?」
「なん、なんで、この人が、ここここに!」
目の前に居るのは紛れもなく僕のストーカー……いや、消えたはずの幻覚だった。
それが何故こんな所で、再び登場するのだ。メイド服姿で緑茶を運んでくる幻覚なんぞ聞いたことがない。
「
葵さんが言った。
「なんですって?あんず?」
「杏。うちの使用人。いつもお菓子を作ってくれているのは彼女だよ」
――使用人、だと?
葵さんの説明はしかし、僕の混乱を益々深めるばかりだった。
「幻覚じゃ、なくて?え、生きてるんですか?」
改めて杏と呼ばれた女性の方を見遣る。
すると彼女はサイドテーブルに盆を置き、僕の座っているベッドの脇に跪いた。
かと思うと、まだ枕を掴んでいた僕の片手をそっと握り持ち上げる。
突然の行動に“まさかこの人まで手首に噛みついてくる訳じゃあるまいな”と怯えていると、あろうことか杏さんとやらは、僕の手を自分の胸元へと運んで、そこに押し当てた。柔らかい肉の感触がダイレクトに伝わってきて、驚きすぎて上げそうになった悲鳴をなんとか呑み込む。
なんだこれ……あ、
痴漢として訴えられ金を巻き上げられるに違いない、と、慌てて胸から手を離そうとする僕に、
「心臓、動いておりますでしょう」
杏さんが言った。
「え?しんぞう?」
「この通り、私は生きております。幽霊でも幻覚でも……因みにストーカーでもありません」
杏さんは
やはり無表情で声にも抑揚が感じられず、人形じみているが、その柔らかな感触も体温も伝わってくる鼓動も、間違いなく生きているもののそれだった。
「わ、分かりました。分かりましたので、そろそろ離していただきたく……」
懸命に訴えると、杏さんは神妙に頷いて、やっと僕の手を解放してくれた。
「杏はね、私の指示で君を尾行していたんだよ」
僕らの遣り取りを横から見てくつくつ笑っていた葵さんが、さらりとそんなことを言った。
「はあ?」なんだって?
「ふふ、面白い顔」
葵さんは立ち上がると、盆から自分の湯呑みをとって口をつけながら、
「最初からずっと思っていたんだけど、君って感情が顔に出やすくて面白いよね。見ていて飽きないよ」
なんだかすごく馬鹿にされている気がしたが、今はそれどころではない。
「いや、なんですか尾行って……え?なんで、そんなことを?」
「え、分からないの?」
訝しげに訊ねてくる葵さんに、僕はぶんぶんと首を振る。分からないというか何も考えられない、頭が真っ白だ。
「君、最初に私の研究室を訪ねてきた時、自分から来ておいてちっとも話す気がなさそうだったじゃないか。心を閉ざしている人間から無理矢理話を聞き出すのは得策じゃない。だから杏に尾行させて、情報を得ようと思ったんだよ」
葵さんは当然のことのように告げる。
しかし情報を得るため即尾行なんて、発想が犯罪者じみている。
「あの……じゃああの時定食屋で会ったのも、偶然じゃなくて。杏さんから情報を得て、僕を追ってきてたってことですか?」
「だいせいかい」葵さんは湯呑みを持った手の人差し指をたてて僕を指し、唇の端を吊り上げる。
「ふ、ふざけないで下さいよ。それならなんで、彼女のこと、見えないふりなんてしたんですか」
あの時葵さんは、女なんて居ないとはっきり言った。自分の差し金だからしらばっくれるにしても、見えないふりは無理があるだろう。
「私はね、シグマ君。実は君のことを結構気に入っているんだよ」
「は?」
「だからね、君に心を開いてもらうために色々と回りくどい手を使ったし、それなりに時間もかけた。頑張ったんだよ」
時間をかけて、回りくどい手を使い、心を開かせる?
頭の中で繰り返しながら、僕はこれまでの出来事を振り返っていた。
――あの日が、始まりなのだ。
あの日、最初の催眠療法を受けて以来、ぴたりと女の幻覚が現れなくなった。
それで僕は葵さんの腕を信用し、毎週屋敷に足を運ぶようになり、退行催眠なども受け、ついには自分の身に起きていることを洗いざらいぶちまけるはめになったのである。
しかし実際にあの日の葵さんがやったことといえば、杏さんに尾行を中止させて、それをあたかも治療の結果であるかのように見せかけることだったわけだ。
「君は一般常識から外れたものを見ると、おしなべて幻覚だと思い込もうとする節があるだろう」
自分の目で見たモノすら信じられないなんて、難儀な性格だよね。葵さんはそう言って、僅かに憐れむような目をして僕を見下ろす。
「だから君のそういう性質を利用――失礼、活用することにしたんだ」
言い換えたところで何も緩和されていないのだが。
「一番最初、研究室で僕が見た人影は?」
「もちろん、彼女だ」
葵さんの答えに、杏さんがそっと頷く。
「葵様がお弁当をお忘れにならなれたので、大学までお届けに参りました」
「おべんとう」
「見つかると後々動きづらくなる可能性がありましたため、咄嗟に本棚の裏に隠れたのです」
つまり最初は、本当に偶然だったらしい。この時に僕が「霊など幻覚だ」などと持論を語ってしまったばかりに、葵さんはそれに話を合わせ、利用することを思いついたということになる。
僕が呆然としていると、杏さんがふいにすっと立ち上がった。そして、
「それでは私はこれ――っくしゅん!」
場を辞そうとしたようだが、言い切る前に
盛大なくしゃみが放たれる。意外と可愛らしいくしゃみだったので僕はつい笑いそうになり、口元を抑え、
「風邪ですか」誤魔化すように訊ねる。
「そうかもしれません」杏さんは頷いた。
「夜の湖で成人男性を抱えて水泳していたものですから」
「あ」もしかしなくても、さっき僕を後ろから支えてくれていたのは彼女だったようだ。
「ついでに、びしょ濡れの君の身体を拭いて服を着替えさせてくれたのも彼女だよ」
葵さんが口を挟む。言われてやっと、自分が葵さんのものと思しき白いシャツを身につけていることに気が付いた。
それにしても何故、僕の着替えをわざわざ女性にやらせるのだろう。葵さんがやればいいじゃないか……。
「私は学術書より重い物は持たない主義だからね」
僕の無言の訴えを感じ取ったのか、葵さんが言い訳を口にする。
さっき鉄の棒を片手で振り回してませんでしたか、というセリフが喉まで出掛かったが、追求しているとどんどん話が逸れていきそうな気がしたので心に仕舞っておくことにした。
「杏さんの事は分かりましたよ。でもその他の、今まで僕が見てきたものはどうなるんですか?あれらは、幻覚、なんですよね?」
「シグマくん。君はまだ混乱しているのかい?」
葵さんは微かに、小馬鹿にしたような笑みを唇の端に浮かべる。
「君が子供の頃から見続けてきた怪異達はね。全て、現実に存在しているんだよ」