第十二話 地獄の鬼

文字数 3,610文字

「なにか、用?」

 それが、僕の顔を見た葵さんの第一声だった。
 夕刻の院生室。本棚の前に立ち分厚い書物のページを捲っていた葵さんは、入室してきたのが僕であることに気付くと、一瞬だけ目を(みは)って驚いたような顔を見せたが、すぐにすとんと無表情になり先の台詞を吐いたのだった。
 それだけで僕はたじろいで、一歩後ずさった。
 この人はこれまで、こんな目で僕を見たことがあっただろうか、と思い返して、きっとこれまでは対外用に創り上げた表情を顔に貼り付けていただけなのだろうと悟った。
 美形の真顔というものは、本人の意志がどこにあるかに関わらず、相手に冷たい印象を与えるものだ。

「相談があって、きました」

 意を決して僕は告げた。そうだん、と、葵さんは言葉の意味を確かめるように繰り返すと、一度手元の書物をパタンと閉じて、何故かすぐに再び開き直すという謎めいた行動を見せた。

「……座ったら?」

 書物に目を落としたまま言う葵さんに、

「い、いえ、大丈夫です」

 咄嗟に首を横に振った。
 僕は半端な位置に直立不動、葵さんは本を手にして動かない状態のまま、奇妙な沈黙が生まれる。
 このまま踵を返して逃げ出したい気分だったが、当然そうはいかない。
 葵さんが書物から視線だけを上げて、横目に僕を見遣る。言いたいことがあるなら早く言え、と急かされているような気分になりながら、「あ、あの!」と、どうにか口火を切った。

「実は僕には、一人、妹が居るんですが……」

 そのような前置きから入ってみたところ急に、

椎熊悠里(しいぐまゆうり)。九月二十日生まれの十四歳O型中学二年生テニス部所属、好きな科目は体育と美術、嫌いな科目は数学」

 葵さんが手元の本に書かれた文を読み上げるような調子でつらつらと言い放った。
 全て正しい、悠里の個人情報である。
 何故そんな事を知っているのかとぎょっとしたが、よく考えるまでもなく、僕が自分から全部喋ったのだったと気が付いた。
 葵さんの事を信用しきっていた時期に、僕は自分だけでなく家族の個人情報までべらっべらと開示してしまったのだ。
 あらゆる情報と弱味を握られた脅され放題の状況にあることを自覚し、本気で過去の自分を殴りたくなった。

「それで?その妹さんがどうかしたの」

 葵さんが問うてくる。
 躊躇いはあったが、結局また僕は全てを正直に話した。仕方がない、この人に助力を求める以外思いつく方法がないのだから。

「じゃあ君が暫く大学に来なかったのは、それが理由なのかい」

 話を聞き終えた葵さんがまっ先にしてきたのは、そんな質問だった。

「はあ、そうですけど」

「それだけ?」

 ……それだけ?

 どういう意味なのかよく分からなかったが、取りあえず肯定の返事をすると、葵さんは「なんだ、そうか」と独り言のように呟いてから、ずっと手に持ったままだった本を今度こそぱたりと閉じた。

「君、いつまでそこに立ってる気だい?」

 本を棚に戻した葵さんは、ソファに腰を下ろして悠然と足を組みながらそう言った。何故だか急に機嫌が良くなったように見える。
 座ればいいじゃないか、と、向かいのソファを示されたが、やっぱり座る気になれず、僕は立ち尽くしていた。

「私が怖いのかい」

 葵さんは首を傾け、唇の端を歪めて笑みを作る。それが今日初めて見る葵さんの笑顔だった。

 ――怖い?

 そうなのだろうか。この人は僕を襲ってくるわけでは(今のところ)ないし、意思疎通も出来るし、外見も人間と何ら変わりない。だがそれは仮の姿でしかなくて、人外の化け物という点であの水坊主なんかと本質は同じなのだ。……化け物。

「そう、ですね。怖くないと言ったら嘘になります」

 僕の答えに、なるほど、と葵さんは笑った顔のまま肩を竦める。

「うん。私は泣く子も黙る地獄の鬼だからね。現世の人間からすれば地獄の使者なんて、恐怖の対象でしかないだろう」

「ジゴク……?」

 当たり前のように発された言葉に、なんの話だと眉を寄せる。すると、

「うん?私は地獄の鬼——いわゆる獄卒ってやつなんだけど、言ってなかったかな」

「は?聞いてませんよ。ていうかなんですかゴクソツって」

「なんだ、君は獄卒も知らないのか」

 葵さんはわざとらしく驚いたような顔を見せた。

「地獄で亡者を責める鬼のことを獄卒と呼ぶんだ。大体想像はつくだろう?」

「え?まあ、はい」

 民俗学を専攻している訳でもないので詳しくはないが、日本人なら誰でもそうであるように、“地獄で亡者を追いたてる鬼の姿”なら簡単にイメージは出来る。

「ちょ、ちょっと待ってください。そもそも地獄なんて……そんなものが実在するって言うんですか」

「もちろん」

 葵さんはあっさりと言い放った。もちろん?

「私は地獄から来たんだよ。そう言っただろう」

「え、じゃあ今まで葵さんはその地獄で、死んだ人を釜ゆでにしたり子供の積んだ石を蹴散らしたりしてたって、こと、ですか?」

「まあ、そういう感じのが仕事なんだ。ところでなんで後ずさっていくんだい?」

「人間を虐待するのが仕事とか普通に嫌です」

「シグマ君。君のその発言は、仕事で死刑執行を行う刑務官を人殺しと(そし)っているようなものだよ」

 そう返されて僕は口を噤んだ。葵さんの言ったことの意味にいついてつい考え込んでいると、「ともかく」と話を戻される。

「私はちょっとした研修のために、一時的に現世に滞在しているんだよ」

「…………研修?」

「獄卒というのはいわば下っ端の現場仕事でね。仕事内容に特に不満はなかったんだけれど、私はなまじ優秀なものだから……ほらアレだ、警察のキャリア組みたいなものだよ。たたき上げの刑事はずっと現場で活躍するけど、キャリア組は現場を離れて組織の上へ行くだろう。あんな感じ」

「はあ? 葵さんは、そのキャリア組だってことですか。えっと、今僕は自慢話を聞かされてるんです?」

 自慢話だとしても全然ピンと来ないし、そもそも地獄が実在するという前提部分から、こちらは半信半疑なのだ。

「違う。出世なんてものに私は興味がない、正直面倒だ」

 真顔で否定された。どこか忌々しげですらある。

「地獄というのは罪を犯した人間の服役所なんだ。その適切な運用管理を行うような立場につくとなると、対象となる「人間」という存在を理解しコントロールできるだけの知識や技術なども必要になってくる。そのために必要なのが、現世研修」

 ……現世研修。

「現世研修は良いものだ。私はこの研修を愉しみたいし、かなうことなら――一日でも長くこの世に留まっていたいと思うよ」

 葵さんは目を伏せ、慈しむようにソファの手すりを指先でなぞりながら言った。
 長い睫毛の落とす影が憂いを帯びて見え、どきりとさせられる。
 彼には何か、あるのだろうか。この世に対する強い想いみたいなものが。

「だってこの世は」葵さんがゆっくりと口を開く。そして、

「圧倒的に、食べ物が美味しい」

「あ゛?」

 反射的に自分でも驚くレベルの低い声が出てしまった。

「なんなんだいその顔は。食は生命維持のための根源的欲求であって、生きる上で最も重要なものの内の一つだよ」

 真剣に主張してくる葵さんに言い返すのもバカバカしくなって、ああそうですか、と僕はおざなりに相槌を打つ。しかし、

「地獄って、どういう食事するんですか?普段何食べてたんです?」

 ふいに気に掛かってしまい興味本位で訊ねると、葵さんははたと動きを止め、数秒の間の後で、

「主に……死骸とか虫とか、かな」

「えっ!?」

「ふふ、冗談だよ」

 葵さんはすぐに前言を撤回したが、目が笑っていない気がする。
 追求するのが恐ろしくて、僕は引き攣った笑みを浮かべながら、話を戻すため質問を投げた。

「じゃ、じゃあ葵さんは、人間について勉強するためにこの世界に来て、この大学に在籍してるってことですか」

「その通り」

「なんでわざわざ大学に?」

「研修期間が十年くらいあるからね。こっちで何をするかはある程度個人の裁量で決められるんだ」

「十年?」

 長すぎる。僕が驚いていると、

「人間の感覚では長いかもしれないけど、私達からすればあっという間だからね」

 やはり鬼となると、人とは時間の流れが違うのだろうか。
 葵さんだって見た目は二十代そこそこに見えるけれど、実際は数百年生きていたりするのかもしれない。

「大学というのは中々自由でいい所だ、私は勉強が嫌いじゃないしね。“生物体の意識や行動を研究する学問”である心理学は、まさに人を学ぶという目的にうってつけだから、上を納得させるのにも丁度良かった。その上カウンセラーとなれば、人間心理の誘導掌握操縦などの実地訓練にもなるし、ついでにまつろわぬモノと遭遇出来る確率も上がる」

 本当にここを気に入っているのか、つらつらと愉しそうに語る葵さんだったが、最後に出て来た言葉が聞き逃せなくて、僕は慌てて口を挟んだ。

「いや待ってください。マツロワヌモノってなんなんですか?」
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