第十一話 頼みの綱

文字数 2,714文字

 ものすごく近く――耳元から音が聞こえたことに気づき、その方に反射的に目を向けると、蠢く化け物の姿が見えたのだそうだ。
 そいつは枕元、顔の真横に居て、薄闇の中でなんとか姿を捉えることが出来たらしい。
 大きさは子猫くらい。白っぽい色をしていて、大きな顔には口だけがついている。
 唇はなく歯が剥き出しだが、よく見るとそれは歯ではなくて、刃、だった。
 上下それぞれの歯茎に沿う格好で、ギロチンの刃のようなものが植え付けられており、そいつが口を開閉するのにあわせて、しゃきん、しゃきんと、例の音は鳴っていたと言う。

 そして——金縛りにあって動けない耳元で化け物の口が大きく開き、上下の刃によって噛みつかれた。
 と、いうのが悠里の言い分だった。
 完全に噛み千切られる前に金縛りがとけ、暴れている内に化け物は消え失せたらしい。

「こんな話、どうせ信じないでしょ」

 全てを語り終えた後、悠里は微かに自嘲的な笑みを浮かべて言った。

「いや、」

 僕は咄嗟に否定の言葉を吐いたものの、そこから何と続ければいいのか分からなくなり口ごもる。

「信じる、よ」

 結局口にできたのはそれだけだったが、紛れもない本心だった。
 実際僕には、悠里の言葉を疑う理由などどこにもなかったのだ。
 しかしこちらの事情など知る由もない彼女からしてみれば、このような話を鵜呑みにする僕の態度は、逆に嘘臭く映ったのかもしれない。
 悠里は数秒黙ってこちらを見つめた後、痛みを堪えるように微かに顔を歪めると、再び背を向ける格好でソファに横たわってしまった。
 その後はもう、眠ったのか眠ったふりなのか分からなかったが、じっと動かず、口を開くこともなかった。

 母もまた悠里から、「夜中目を覚ましたらおかしな生き物がいて、そいつに耳を噛まれた」という事情を聞かされていたようだった。
 しかし悠里の耳に残っていたのは刃物で切られた痕跡であり、動物のかみ傷とは異なるというのが医者の見立てであったため、「おかしな生き物云々は寝ぼけていただけに違いない」というのが母の考えだった。
 だが耳を切られかけたのは事実なのだ。
 そこでまっ先に疑われたのは侵入者の存在だったが、悠里の部屋は二階であり、部屋の窓も玄関の扉もきっちりと施錠されていて、何者かが這入り込んだような形跡は一切見つからなかった。
 侵入者がいなかったのなら、次に想定しうるのは、悠里が

という可能性だ。
 はっきり口にこそ出さなかったが、母がこれこそを真相と考えている事は、その態度から察することが出来た。

 そんなわけがない。

 自分で自分の耳を切るなんて、悠里がそんな事をするはずがない。
 第一それなら、使用した刃物は一体どこへ消えたというのだ。自分で切った耳から血を噴き出しながら見つからない場所へ刃物を隠した後で、ベッドへ転がって悲鳴を上げたとでもいうのか。
 あり得ない。
 そもそもそんな自作自演をする意味がどこにあるというのか。
 しかしそれでも尚、母を含む僕以外の人々にとっては「化け物に襲われ耳を切られた」という話の方が、余程荒唐無稽な妄言に聞こえるようだった。
 悠里の話を信じてあげられるのは僕だけなのかもしれない。だけど——信じるだけで何の力にもなれないのなら、結局意味がないな。
 と、そんな事を考えていると、スマートフォンが着信を知らせた。
 ソファの隅で無音で震えているそれを慌てて手にとり、悠里が目を覚ましていないことを確認して、リビングを離れ廊下に出る。
 電話の相手は江波だった。

「おい椎熊。一週間も大学をサボるとはお前、良い度胸じゃねえか」

 江波は挨拶もそこそこに、怒ったような声色を作って、そんな事を言ってきた。
 一体どの立場からものを言っているんだかよく分からない。

「サボってるわけじゃない。……家の事情だよ」

 答えると、なんだそうか、とあっさり納得したようだった。しかし、

「葵先生にも何も言っていないのか?ずいぶん心配してるみたいだったぞ」

 ――葵さん?
 その名前を聞いた途端、苦い物がこみあげてくる。

「心配って、別に、そんなのただの演技だろ」

 僕は反射的にそんな台詞を零してしまい、すぐに後悔したが後の祭りである。

「なんだその言い方。あの人と何かあったのか?」

 江波の疑問はもっともだった。

 「いや、別になにも……」と、僕はしどろもどろに返すことしか出来ない。

「なあ椎熊、事態は深刻なんだぞ」

 江波が急に声のトーンを落として言った。

「へ?」

「葵先生がな……」

 言葉を切り、勿体ぶったような間を作る。

「な、なんだよ?」

「あの葵先生が、甘い物に手をつけないんだよ」

 江波は言った。

「は?なんだって?」

「俺を含め何人かがあらゆる種類の菓子を差し入れに行ってみたんだが、今はそんな気分じゃないとか言って一つも受け取らないんだよ。あり得ないだろ」

「いや、知らねぇよ」

 バカバカしい!
 僕は思わず乱暴な口調になりながら、「葵先生が甘い物を拒否するなんて、インド映画でインド人が踊りださずにじっとしているくらいあり得ないことだぞ」といまいち分かりにくい例えで責めてくる江波をあしらい、通話を終わらせた。
 溜め息を一つ、暗転したディスプレイを見つめる。

 ――葵さん、か。

 あの日以来一度も顔を合わせていないし、無論連絡もとっていない。大学を休むことが決まった時、これで葵さんと会わずにすむと心のどこかでほっとしたことも事実だった。
 しかし水坊主を消滅させ、その脅威を退けたのは間違いなくあの人なのだ。悠里を襲っている物が、もしも水坊主と同じ類いの存在であるとすれば……。

 葵さんなら、悠里を救えるんじゃないか?

 人間の耳を切り落とそうとするような、質の悪い化け物だ。このまま手をこまねいていては、何が起こるか分からない。

「ただいま」

 暫くして、大きなスーパーの袋をさげたスーツ姿の母が帰宅してきた。
 まだ大人しく眠っている悠里を見て、ほっとしたような、或いは疲れたような、どちらともつかない息を吐く。

「ちょっと出かけてくるから、あと頼んでいい?」

 物音をたてないよう気を遣ってそっと食材を冷蔵庫に詰めている母の背中に、僕は声をかける。

「いいけど、今から?何処へ行くの?」

 倦んだような目で僕を見上げる母は、見る度身体が縮んでいるように思われた。
 本人は気付いていないかもしれないが、後頭部の天辺に白い物が混じっているのが、僕の高さからだとよく見える。

「ちょっと、菓子折を買いにデパ―トに……」

「かしおり?」

 母は一瞬怪訝そうな表情を見せたが、すぐに興味を失ったように、そう、とだけ呟いて、冷蔵庫に向き直った。
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