第十九話 噛みちぎる

文字数 5,052文字

 瞬間、ばくん、と強い圧迫を受けたように心臓が膨らみ、収縮して、それと連動するようにぱっと目が開いた。
 冷ややかなコンクリートの天井が、僕を見下ろしていた。 
 張り詰めた暗い無音。……無音である。
 ならば今のはまた夢だったのだろうか。夢の中で聞いた音に、現実の肉体が触発されただけか。
 ふっと息を吐きかけた、その時、

 ――じゃきん。

 音がした。
 今のは夢ではない、僕は確実に目覚めている。
 

だ。
 認識に呼吸が凍り付く。
 空間に広がる音の余韻を吸い込んだコンクリートが、重くのし掛かってくるようだった。 
 初めは残響の可能性もあると思っていたが、これは明らかにいつもと様子が違う。
 全身の血の気が引いて意識がブレる。ブレて身体から数センチずれた所に浮き上がり、そのために神経の接続が切れてしまったような感覚だった。
 身体が動かない、指先一本動きやしない。
 もしかしたら僕は人形なのではないかとすら思えた。泥を詰めた袋を人型に整えただけの人形だ。

 ――じゃきん。

 再び音がした。
 音はどこから聞こえたのか、なんて分かっている。本当は自問自答する間でもない。

 耳元から聞こえたのだ。

 左耳のすぐ傍。刃と刃の合間であっけなく潰れゆく

のたてる悲鳴が、耳の奥へ突き立てられる。

 ……いる。そこに居る。

 その時目玉だけはどうにか動かすことが出来ると気付いたが、それも容易ではなくて強い抵抗を感じた。
 動こうとする意志と抵抗する本能が綱引きをしている。或いは逆なのかもしれないが、ともかく僕の中のどちらかが勝って、頭の内側で壊れるほど響く警鐘を引きずりながら、ゆっくりとソレを視る。

 白っぽい肉の塊のようなものが、ベッドの上に落ちていた。

 その中に埋め込まれた銀色の刃の閃きが瞳を射し貫く。
 ソレはじっと動かない。
 僕もやはり動くことは出来ない。
 時間の止まった――いや、正常な時間の流れの外へ引きずり出されてしまったような感覚の中、視線を外すことも出来ず見つめ続けた対象のカタチが、頭の中でゆっくりと像を結んでいく。歪で曖昧だった輪郭が描き出されていく。
 円い大きな頭が、僕の方を向いているのが分かった。
 身体は位置関係の問題でよく見えないが、足がたくさん生えているようだった。
 目も鼻もなく、頭の半分以上は口で、その中には歯の代わりに刃が植わっている。
 悠里に聞いた通りの姿だった。
 ああ。今僕は、悠里の追体験をしているのだと、そう思った。

 “音で目が覚める。
 耳元で音がする。
 そちらを見る。
 化け物がいる。
 化け物に――耳を噛み切られる”
 
 その思考が頭の中で描き出された瞬間に、ミミキリが、まるで僕の思考を具現化するようにぱくりと口を開いた。
 時間が動きだした。
 じゃきん、と音をたてながら、ミミキリの口が閉じる。
 幾つもの足がシーツを乱し這いずって、ずり、ずり、と、僕の方へ近付いてくる。
 その時、障害物を避けるという発想のないらしいミミキリの身体が、脇に置かれていた小さなブザーを身体で踏んづけた。
 手を伸ばすことが出来ない僕には押すことの出来なかったボタンを、ミミキリ自身がはからずも押してくれた格好になって、

 ――葵さん。

 これで彼がすぐに来てくれるはずだ。
 しかしボタンが押されてから数秒が経っても、人の近付いてくるような足音も気配も何もなくて、ただミミキリのたてる衣擦れと刃の音だけが空間を支配していた。 
 葵さんが何処で待機しているのか僕は知らされていない。もしかしたらこちらが思っている以上に距離があるのかもしれない。

 ——いやその前に、彼は本当に、居るんだろうか?
 また、騙されてるんじゃないよな? 見捨てられたんじゃないよな?
 まさか、そんなわけはない。
 あの人はまつろを潰したいんだから、僕をここに捨て置いて帰る理由がない。

 ――でも。

 でもあの人ならもしかして、耳の一つ二つくらいは必要な犠牲と考えていて、噛み千切られた後になって、ゆうゆうと登場してくることだってあり得るんじゃないのか。
 悠里を助けるとは約束してくれたけれど、身代わりたる僕の安全なんぞは保証されていないのだ。

 だめだ間に合わない、間に合うわけがない。

 焦らすようにゆっくり、ゆっくりと近付いてくるミミキリは、もう触れそうなほどの距離に存在している。
 体内で暴れ回る叫びと悲鳴に、内側から圧された手足がびくびくと痙攣を起こす。
 今にも破裂し、身体を破って外へ飛び出していきそうな衝動。気が狂いそうだった。
 反射的に目を閉じるが、目だけ閉じたところで意味なんてなく、他の全ての感覚が鮮明にその存在を捉え、訴え、襲いかかってくる。
 ぱくんと開かれた刃の掻き乱す空気が、一瞬のち訪れる冷たい感触に先んじて耳を舐めた。
 瞬間、ベッドが下から突き上げられるようにぐらんと揺れ、

 ――ザシュ、と、今までと違う音がした。
 
 僕自身の肉が切りとられる音と共に、頬に何かがぶつかってくる衝撃。
 ばくんと自身の目と口が開いて、絶叫を押し込むようにひゅうと吸い込まれた空気が胸に詰まった。

 目の前に飛び散る、赤。

「うわああ、あ、あああああああああぁっ!」

 ともかくこの叫びを体外へ放出させなければ正気を保てそうになかった。
 分かっていた。
 片手で耳を抑え絶叫しながらベッドの上に跳ね起きた時には、ザシュッという肉を貫く音も飛散する血も、自分が源でないことは分かっていた。
 けれど鼓動の高鳴りは一向に収まる気配もない。

「——シグマ様!」

 諫めるように鋭く呼ばれる己の名。
 びくりとしてその発信源を見遣る。
 ベッドに片膝で乗り上げた杏さんと、目が合った。
 ヘーゼルグレーの瞳に僕自身の姿が映っている。

 ――下からだ。

 目の前で展開される光景にやっと認識が追いついていく。
 杏さんは今、ベッドの下から飛びだしてきたのだ。ミミキリが現れた時に備えて、ずっとそこで息を潜めて待機していたということだろうか。
 衝撃的な事実だったが、それについては今追求している余裕はない。
 杏さんの手にはナイフが握られていて、その刃はミミキリの背中を真上から貫いていた。

 まつろも赤い血を流すのか……。

 貫かれた肉から噴きだして、シーツを、僕の身体を、杏さんの真っ白なエプロンを汚す赤を見て、そんな事を思った。 
 が、そんなある種暢気な思考を維持出来ていたのも数瞬のことだ。
 まつろというのはナイフで背中を串刺しにされたくらいで死ぬものではないらしい。
 そもそも死という概念が存在するのかすら怪しく、水坊主は前回葵さんの手で雲散霧消したが、その事象が人間の持つ死の定義に当てはまるものなのかどうかはよく分からない。
 ともかくミミキリは、背中を波打たせ、蠢き、驚いたことに己に突き刺さった刃を無視してズルズルと前へ、つまり僕の方へ前進してきた。
 ナイフは身体を貫通してベッドの本体にまで食い込み、固定されていたため、ミミキリの背は進んだ分だけゆっくりと裂けていく。
 魚のように開かれていく背中から溢れ出した血で白い身体が染まっていくのを見ながら、僕は腰が抜けたような状態になりながらも、後ろ手をついてベッドの上で後ずさった。

「うわっ!」

 しかし大きくもないただのシングルベッドだ。すぐに端に達して、そのままがくんと無様に落下、勢いよくベッドから転げ落ちた。受け身すらとれずに床に頭を打ち付けて、痛みと衝撃に一瞬意識が遠のきかける。

「避けて下さい!」

 気を失っている場合ではない。
 杏さんの声に弾かれるように慌てて上体を起こす。
 左右合計六本の足を蜘蛛のように蠢かせて走るミミキリがばくんと大きく口を開け、僕の顔面めがけて飛びかかってこようとしている、まさにその瞬間に直面した。
 のけぞった背中が、すぐ後ろに迫っていた壁にガシャンと音をたててぶつかる。
 避けろと言われてももうミミキリは鼻先で、上下に開かれた光る刃の狭間から覗く底なしの暗い穴が、僕を呑み込もうと、視界いっぱいに広がっていた。
 僕にはもう、両手で顔を庇いながら、縮こめた身を捩ることしか出来なかった。

「葵様!」

 杏さんの叫び声がした。
 それに応えるようにすぐ後ろから、ベキベキと乱暴な破壊音が聞こえたと思うと、急に背中を預けていた壁が消え去った。
 何が起きているのか分からないまま、支えを失って後ろに倒れかけた身体が、とんと何かにぶつかって静止する。

 いつの間にか閉じていた目を、開いた。

 まっ先に視界に飛び込んできたのは、僕の肩越しに突き出された片手だった。

 空中でミミキリの顔を掴んでいる右手。

 振り向いて確かめる間でもない、葵さんが居るのだ。
 壁の穴を塞いでいたトタンをぶち破って、今僕の真後ろに立っている。
 はっ、と短く荒い息を吐き、助かったと気を緩めた刹那。
 葵さんの手はミミキリの顔の下半分だけを掴んでいる状態であり、宙に浮いた小さな身体の動きは完全に抑え込まれているが、口の方は別だった。
 彼の大きな手と馬鹿力を持ってしても封じきることは出来ておらず、眼前で、ミミキリの口はネジを回したようにぎりぎりと開かれていく。

 目一杯に開かれ、そして閉じていく。

 葵さんの手にゆっくりと、深く、刃が食い込んでいく。

 彼は直ぐさまもう一方の手でミミキリの身体を掴み引き剥がそうとしていたが、ミミキリは一度捉えた獲物を逃がさないサメのようにしつこく、人差し指と中指の二本に、食い込ませた刃でぶら下がっていた。

「ぐぅっ」

 頭上から降る低い呻き声。
 葵さんは一刻も早く苦痛から逃れようとするように、千切る勢いでミミキリの胴体を引っ張った。
 それはあまりにも乱暴で、噛まれた時の対処としては正しくなかった、致命的に間違っていた。だって、

「葵さん!」 

 悲鳴の代わりに名前を叫ぶ。
 彼の手を離れたミミキリが、凄まじい力で投げつけられて宙を舞った。

 上下の刃の間に、しっかりと細い肉の塊を銜え込んだまま――。

 人差し指と中指の第二関節から先が失われた葵さんの片手が、オレンジの明かりに照らされてくっきりと浮かび上がり、そのカタチが眼の奥に灼きつく。
 指の切断面から覗く生々しい肉は、溢れ出す血に溺れてすぐに見えなくなった。
 血の臭いが鼻腔に絡みつく。それでも葵さんは先の呻き以外一切、悲鳴の一つも上げることはなかった。
 ミミキリの身体は、数メートル先の床に叩きつけられて潰れている。

「シグマ寄越せ!」

 何を、と問うより前に、右腕を引き上げられ手首に噛みつかれた。
 二度目になるが、この瞬間の鋭い痛みと、ぞっと肌が粟立つ感覚には慣れない。慣れたくもない。

「まつろの分際で、俺の指を噛み千切るとはいい度胸だ」

 古く錆び付いた滑車を無理矢理に動かしているかのような、軋んだ、重く低い声が、ザリザリと耳の奥を削った。
 葵さんが僕の身体を押しのけて中へと足を踏み入れる。
 僕に見えていたのは、通り過ぎざまの横顔と背中だけだった。 
 闇の中に炯々(けいけい)と光る眼と、嗤う口元。
 ぼたり、ぼたりと、指から滴る血が赤黒い足跡を刻んでいく。

 彼の纏う空気が変わっていくのを肌で感じていた。その禍々しさに怖気が走り、嘔吐感に近いものが腹の奥からこみあげてくるのを、強く奥歯を噛みしめて耐える。
 僕がぎりぎりこの場に留まっていられるのは、彼の殺気の対象が自分でないからであって、もしほんの僅かでもその矛先がこちらへ向けられていたら、無様に取り乱し、全てをなげうって転がるように逃げだしていただろう。

 しかしそこからはあっという間で、呆気ないものだった。

 気が付くと葵さんはまた金棒を手にしていた。
 右手は指を失っているため左手に構えており、利き手でないせいか少しだけ扱い辛そうに見えたが、それでも支障はないようだ。
 ミミキリは逃げだそうとして店の出入り口、シャッターの方へ向かってべたべたと這い走っていたが、それは見るからに無駄な悪あがきでしかなかった。

「どこへ逃げたって同じだろう。お前に居場所なんかありはしない」

 葵さんは悠然とした足取りで、一瞬にして距離を詰める。
 ランプの光の輪から外れた彼の姿は闇に溶けたが、振るわれた金棒の鈍い光は軌跡となって、コンクリートの地面に吸い込まれていった。

「消えろ」

 囁くような抑えた声が、それでも耳の奥に響いた気がしたけれど。
 続く破壊音が、その余韻をあっという間に浚っていった。
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