第二十話 遠い記憶

文字数 4,072文字

 杏さんが車のハンドルを握っていた。

 向かう先は屋敷である。
 僕は無論「すぐに病院に行きましょう」と主張したのだが、「病院って、人間のかい?」という葵さんの一言で封じられてしまった。
 屋敷に戻って私が応急処置をします、と杏さんが言い、現在葵さんは、杏さんの身につけていたエプロンを右手にぐるぐると巻き付けた状態で助手席に座っている。

「あ、あの、切られた指は、どうなったんですか?」

 病院には行かないとしても、指本体が残ってさえいれば、人外である彼らなりの遣り方で元通りに治すことも出来るのではないかと、そんな期待を抱いての問いかけだった。しかし、

「さあ。アレが口に咥えていたので、葵様が一緒に叩き潰してしまったのではないでしょうか」

 杏さんが平然とそう答えた。
 なんてことをするのだろう。
 切れた指自体が失われているのなら、修復の術などないということになる。

「葵さん、そうなんですか?」

 本人に返答を促してみるが、彼は何故か無言だった。
 不審に思い助手席を覗き込むと、葵さんは赤く染まった布に包まれた右手を膝に乗せ、背もたれにぐったりと身体を預けて固く目を閉じていた。

「葵さん?」

 再び呼びかけるが、全くの無反応である。
 よく見るとその顔には脂汗が浮いて、乱れた髪が頬や額に貼り付いており、半端に開かれた唇はすっかり色を失っていた。

「ちょ、こ、これ、まずいんじゃないですか!」

 僕は慌てて杏さんに訴える。血を流しすぎて意識障害が起きているのではないかと思ったのだ。
 しかし杏さんはこちらを見もせずに、眠っているだけです、ときっぱりと答えた。

「あなた方とは違います。指を切断した程度でどうにかなったりはしません」

「で、でも――」

「昼は大学、夜は見張りでここの所ほとんど眠っていなかったせいもあると思います。怪我の治癒のために体力が消耗され、その体力を回復するために身体が睡眠を必要としているのです。起こさないであげてください」

 ――そう、なのか。

 ついさっき大怪我を負ったばかりで、既に身体が治癒を始めているというのは驚きだが、人間とは“造り”が違うということなのだろうか。 
 安らかとはとても言い難い寝顔だが、耳を澄ませると確かに、すうすうという規則正しい息の音が聞こえてくる。

「鬼でも、眠るんですね」

 今までだって別に眠らないと思っていたわけではないのだが、実際に寝姿を見るのが初めてだからか、奇妙な感慨が涌いてしまった。

「……当たり前でしょう」

 返す杏さんの声に、どことなく呆れの色が滲んだ気がする。気のせいだといいのだが。

「人間みたいですね」

 僕は思わず呟いていた。喉元すぎればなんとやら。或いは目覚めた後消え失せる悪夢みたいなものだろうか。つい先ほど葵さんに対して感じていた強い恐怖なんて脆くも実感を失い、形骸と化していた。

「眠るし、血は赤いし、甘い物に目がないし、何が面白いのか分かんないところでよく一人で笑ってるし」 

 これでは人間と区別なんてつかない。
 鬼だというのならもっとそれらしくあってくれれば、僕だってこんなに混乱させられることはなかった。
 非力な小動物が捕食者に出会ってしまった時のような警鐘を僕の中のどこか、きっと本能に近い部分が鳴らし続けているけれど、理性や感情や思考といったものはまた、各々にそれを否定したり別の音を鳴らしたり全く違う方向へ僕を引っ張っていこうとしたり、入り乱れてぐちゃぐちゃで、何を信じ何に従えばいいのかも分からない状態だった。

「ええ。そもそも葵様は、鬼とはいっても元人間ですから」

 ハンドルを切りながら、杏さんがさらりと告げた。
「えっ!?」驚愕し、ばっと勢い良く運転席に顔を向ける。もう充分に混乱しているのに、この上更に煽るつもりなのか。

「大きな声を出さないで下さい。葵様が起きてしまいます」

 ぴしゃりと窘められてしいまい、「す、すみません」と気弱に謝罪を返しながら、葵さんの方を見遣った。
 瞼は重く落ちたままで、覚醒した様子はない。

「そんなに驚くことですか?」

 杏さんが言った。

「驚きますよ、そりゃ」

「ずっとずっと、昔の話ですよ。アオイ様自身、もう記憶も曖昧のはずです」 

 ――元は人間。
 その情報をどう解釈し、受け止め、呑み込めば良いのか僕には分からなかった。
 人間みたいな鬼、という時点でこちらの思考と感情のキャパシティはいっぱいいっぱいなのに、そこに“人間みたいな鬼のような元人間”なんて新たな情報を追加されてしまうと、いよいよ思考停止に陥りそうだ。

「人間が鬼になるなんてことが、あるんですか」

 問うと、杏さんは小さく頷いた。

「ありますよ。死後地獄に堕ち、その後鬼となる人間は、少数ですが存在します」

「葵さんが、その内の一人ってことですか」

「そうですね」

 杏さんは何の感慨もなさそうに短く応えた。それで会話は終わるのかと思ったが、意外にも一拍の間の後で、杏さんは話を続けた。

「葵様が人として生きていたのは、現世の時間で換算するなら、今から六・七百年も前のことになります」

 六・七百年前というと、鎌倉から室町時代の辺りだろうか。途方もない、それは最早過去というより歴史である。

「ご存じかと思いますが、昔の日本には、人間を神への生け贄とする“人身御供”という風習が当たり前に存在していました。葵様が生まれ育ったのは貧しい村で、河川が洪水を起こすと度々、適当な村人が水神への生け贄として捧げられていたのです」

 杏さんはそこで一度言葉を切った。赤信号で車が停止する。降り出した雨の音が、車内をゆっくりと包み込んでいた。

「葵様は当時十にも満たない子供でしたが、大規模な洪水が起こった際、身寄りがないという理由から“適当”な人材と判断され、荒れ狂う河川に投げ込まれて命を落としました」

 杏さんの語り口はいつも通り淡々としていた。命を落とした、という言葉も他人事じみており、どんな感情も伝わってはこない。

「えっと。どうして、勝手に生け贄にされて死んだ子供が、地獄いきになんてなるんですか」 

 叩きつける雨音が激しくなり、雨の匂いが車内に染みこんでくる。葵さんが目を覚ます様子はない。

「ああ、それは、」

 信号が青へと変わり、杏さんは車を発進させながら、

「自分を川に投げ込もうとした村の人間を一人、道連れにしたからです」

 と、言った。

「だから人殺しとして地獄へ堕ちました」

「道連れって……事故で?」

「いいえ、明確に

です。葵様はそういう方ですので」

 ……どういう方だよ。

「ちょうどこんな雨の日でした」

 杏さんは僅かに目線を上げて、黒い空を見上げた。僕もつられるうように窓へ目を向け、ガラスの上で連なりあい、滝のように流れ落ちていく雨を眺める。

「いえ、やっぱり全然違いますね」

 杏さんはふいにそう呟いて、興味を失ったようにすっと視線を前に戻した。

「もっと、全てを呑み込み無に帰してしまうような、凄まじい豪雨でした」

「そう、ですか」

 先ほど杏さんは、葵さん自身記憶が曖昧だと言っていたが、自分の死んだ時のことなんて、何百年経とうと忘れられるものとは思えない。
 自身の脳裏に、まるでその光景を目にしたことがあるかのように、濁流に呑み込まれて消えていく子供の姿がちらつくのが不思議だった。僕はその錯覚を払うように頭を振って口を開く。

「あの、ところで杏さんは、なんでそんなことまで知ってるんですか?」

 以前からずっと気になっていた、杏さんは何者なのかという疑問に通ずる問いだった。

「お守りだからです」

「え? なんですって?」

 あっさりと返ってきた短い答えの意味がまるで掴めず、僕は問い返す。
 聞き間違えただろうか。

「私は、葵様のお守りなのです」 

「……おまもり?」

 聞き間違いではなかったようだが、やっぱり理解は出来なかった。おまもりってなんだ?

「葵様のお母様は、葵様が人身御供にされる一月ほど前に、病で亡くなられました。そのお母様が亡くなられる直前に、自分の代わりにこの子を守ってくれるようにと、最期の願いをこめて人型のお守りを作ったのです。結局、お母様が亡くなられたことで身寄りのなくなってしまった葵様は生け贄に選ばれることとなり、お守りは何の役目も果たしませんでしたが」

 杏さんはそう言って、隣の葵さんを一瞬横目に見遣ったが、すぐに前に向き直った。

「けれど葵様はそのお守りを最期まで――いえ、地獄に堕ちてすらも手放しませんでしたので、やがてそのお守りには魂が宿りました。それが、私です」

 言葉が出なかった。目の前の、人間の女性にしか見えない存在が、魂の宿ったお守り……?

「この肉体は、現世で活動するための借り物に過ぎません」

 杏さんは言った。

「私は、葵様をお護りするという目的のためだけに生まれ、存在しているのです。けれど私には、足りないものがたくさんありますから」

「足りないもの?」

「魂が宿ったといっても、私は鬼でも人間でも、他のどんな生き物でもありません。私には、葵様の言葉を理解することは出来ても、実感は出来ない。どんなに長く傍にいても、感情の共有は出来ない」

 言葉が途切れ、車がゆっくりと停止した。いつの間にか屋敷へ到着していることに僕は気が付く。
 ふいに杏さんが、身体を捻ってこちらを向いた。

「シグマ様」

 ガラスのように澄んだ瞳が正面から僕を見据えている。
 やっぱり人形じみた顔立ちだ。人間ではあり得ないくらいに透明で、怜悧で、真っ直ぐだった。

「どうか、葵様を、宜しくお願いします」

 杏さんはそう告げると、僕に向かって深く頭を下げた。
 肩口で切り揃えられた、艶めいた金茶の髪が揺れる。杏さんはそのまますぐには頭を上げようとしなかった。
 宜しくなんて言われても、困ってしまう。
 あなたは僕にどうしろというのか、僕なんかに何を期待しているのか。
 ぐるぐると頭の中を廻る言葉は、しかし一つとして声にはならなかった。
 あの日のことを、思い出す。

 自分の放った“化け物”という言葉や、その時の、彼の表情を。
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