第二十一話 右手の指

文字数 2,636文字

「私も、人とは“造り”が違いますので」

 杏さんはそう主張して、眠っている葵さんを助手席から担ぎ出し、背負って屋敷内へ運び込もうとしていた。
 雨の中、百八十センチをゆうに越える大男を小柄な女性が軽々と担ぐ光景にはぎょっとさせられた。僕なら押し潰される自信がある。

「そういえば杏さん、一つ聞きたかったんですけど」

 屋敷へ走って取ってきた傘を杏さんの方へ差し向けながら、問いかける。

「なんで、ベッドの下になんか居たんですか? いつからあそこに?」

「初日からです。葵様の指示で、何かあった時のためにあそこで待機しておりました」

 杏さんは葵さんを背負って歩きながら、息の一つも切らすことなく淡々と答える。

「なる、ほど?」

 僕が間一髪の所で杏さんに助けられたのは事実だ、彼女には感謝している。
 問題は、こちらにその事実が知らされていなかったという点であった。その事を指摘すると、杏さんは少し考えた後、

「さあ。私は葵様から“こっそり”と言いつけられていたのでそのようにしただけです」

「こっそり……」

「人間はサプライズが好きだから、とは仰られていたので、驚かせよううと思っただけではないでしょうか?」

 ――いや、なんでだよ。

 理解不能だ。杏さんはまあいい。この人はただ葵さんの指示に従っているだけで、今までの話を聞く限り、そこに自身の意志や感情の介入する余地はないのだろう。
 問題は葵さんだ。本気でサプライズというものを誤解しているのか、TPOを丸無視した悪戯のつもりだったのか、悪意なのか、寧ろ何の意味もないのか……考えれば考えるほど何を考えているのか分からないし、考えるだけ無駄かもしれない。
 杏さんの肩にしな垂れかかった葵さんの眉間には、先まではなかった気がする皺が刻まれている。痛みのためか、或いは悪い夢でも見ているのだろうか。

 ――鬼が夢など見るものなのかは知らないけれど。

 もしも悪い夢ならば、早く覚めればいいのにと僕は思っていた。 

 しかし実際に葵さんが目を覚ましたのは、屋敷に運び込まれ、杏さんによる手際の良い応急処置が済み、ベッドに横たえられてから更に半時間も経過した後のことだった。
 痛みを感じていないのか、感じていても表に出さないだけなのか、葵さんは平然とした様子でベッドから起き上がった。少し眠ったからか顔色も大分良くなっている。

「シグマ君? 君、なんでそんなお通夜みたいな顔してるんだい」

 大人しく寝ていればいいものを、「お茶が飲みたい」と応接間へ出た葵さんは、ソファの定位置に腰掛けて、杏さんの淹れてくれた熱い緑茶を啜っていた。 

「お通夜? そんなですか?」

 そこまで酷い顔をしている自覚はなかったので、確かめるように自分の頬を擦りながら問い返す。だが考えてみれば、僕の顔が暗いのなんて別に今に始まったことではない。

「ミミキリは消えたんだよ。もっとこう、万歳三唱でもしてはしゃぐべきだと思うんだけど」

 葵さんは真顔で、万歳を示すジェスチャーのつもりなのか、宙に持ち上げた片手をひらひらと振ってみせる。
 左手は湯呑みを持っているので、振っているのは包帯の巻かれた右手だった。その無頓着な様子に、何かよく分からないがもやもやさせられる。

「それは頭おかしいでしょう」

 冷たく返して、誤魔化すように自分の分の茶を啜った。

「シグマ君、君はよくやったよ。八日間耐え抜いて正面からまつろと対峙した。君のおかげであの子は助かったんだ。素直に喜んでいいんだよ」

 葵さんは湯呑みを置いて正面から僕の顔を見据え、穏やかに、諭すように言葉を紡いだ。患者に対応するカウンセラーのような態度に苛立つ。

「喜べるわけないじゃないですか」

「どうして?」

 葵さんはしらばっくれているわけでもなさそうな、きょとんとした表情で反問してくる。

「ど、どうしてじゃないでしょうっ」

 声を上げた拍子に揺れた身体がテーブルにぶつかり、湯呑みが揺れて意外なほど大きな音が鳴った。

「なに? なんで怒ってるんだい?」

 葵さんは少しばかり動揺しているように見えるが、その珍しさを愉しむ余裕も今の僕にはない。

「怒ってる? ……いや、怒ってないですよ。おかしいじゃないですか、僕がこの状況でなんであなたを怒るんです。おかしいですよそんなの」

 僕はぶつぶつと独り言のようなものを零しながら、ソファの手すりに肘をつき、抱えた頭を掻きむしった。

「大丈夫かい? ええっとほら、疲れてるんじゃないかな」

 かわいそうなものを見るような、同情的な視線を向けられている。
 あの葵さんが、漬け込むでもからかうでも流すでもなく同情するなんて、相当ヤバイと思われている証拠ではなかろうか。

「大丈夫ですからその目を止めてください」

 僕は床を見つめてふーっと深く深く溜め息を吐き、口を開いた。 

「感謝してますよ」

「うん?」

「怒ってません、感謝しています」

 僕は応えて、床から顔を上げ葵さんを見た。

「ありがとうございました」

 そう告げると葵さんは一瞬目を円くしたが、すぐに得心した様子で頷き、微笑んだ。

「悠里を助けてくれたことも、それから、僕を助けてくれたことも」

「うん。まあ、助けるって約束したし、そもそも仕事だしね」

 葵さんは何でもないことのように言う。
 確かにまつろを潰すことはこの人にとって仕事の一環なのだろう。だけど、

「だけどその指は、」

 言いかけて喉が詰まった。上手く言葉が出てこない。葵さんの顔を見ていられずに再び視線を落とす。

「僕を(かば)ったせいじゃ、ないですか」

 固く小さな声をそれでもなんとか吐き出した。生まれた僅かな沈黙を、強かな雨音が埋めていく。

「あー」

 暫く後、葵さんは妙に緊張感のない声を漏らした。軽く眉を寄せて、視線を明後日の方向に彷徨わせている。

「まあ、他でもない大事な助手のためだからね」

 少しの間の後、笑みを作ってそう言った。
 僕は何と言っていいか分からず、テーブルの上に投げ出された、真っ白に包まれた痛々しい右手を見下ろす。

「君が代わりになってくれればいい」

「はい?」

「ほら、信頼を寄せる部下のことを右腕って言ったりするだろう。あんな感じで、これから君は私の右指ってことでどうかな?」

「……指って、微妙すぎませんか」

 素直に頷くのも癪でそんな風に言い返す。
 葵さんはふふっと笑って、持ち上げた自分の右手を無造作に検分しながら、こう言った。

「右手の指を舐めちゃいけないよ。左手じゃ満足にケーキも食べられないんだからね」
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