5 台本通り

文字数 1,842文字

 武田が事故にあった後の次の週末の公演は、加藤が急遽呼ばれ、緊急に稽古をして、とりあえず行った。
 加藤は器用な芸人だ。もともと武田とコンビを組んで漫才やコントをして、当時コンテストの上位の常連だった。ただしかし、素行があまりよくなかった。酒飲みで、金遣いが荒く、以外にケチで、借金で何度か問題を起こして、コンビ解散につながった。
 芸人としては素晴らしい。脚本を忠実に演ることは苦手だが、アドリブや間で笑わせることがうまかった。武田のしっかり作った脚本を、加藤はサラリと無視して進んでいく。稽古の度に、公演の度にセリフが変わり、ボケも突っ込みも変わる。
 上辻にとってとても勉強になる反面、今までやってきた武田のやり方との違いに戸惑っていた。
「カミちゃん、芸はノリと間やで。きっちりやったらあかん。武田に仕込まれ過ぎやで」
 爆発的に受ける公演もあれば、滑りすぎて救いようのない公演もあった。
「金返せ」
と怒鳴る客さえいたが、
「返金しませーん」
加藤は、全く悪びれなかった。

 何度目かの週末の公演。加藤の暴走のせいであまりにもひどくすべって、客があきれて帰った公演の日、松原が加藤と上辻を飲みに誘った。
 佐飛パラダイスの周りは住宅地で田舎で、ほとんど酒を飲めるようなところがない。個人の飲みに使うことのない、逮夜をするような仕出し屋の二階のだだっ広い座敷で、三人で飲みはじめた。
 最初は、芸能ゴシップなどを話しながら飲み始めた。三人がそれなりに酔い始めたころ、松原が話し出した。
「加藤君、あれはあかんで」
 加藤は真面目に聞いていない。上辻は、緊張して二人を見ている。
「台本は台本で、ちゃんとやろう。ましてや武田のいないこの時期に、みんな不安やねん。稽古したことをちゃんとやろや」
「そんなもん、笑いと違いまっせ。ノリと間で笑い取りましょや」「それはそやけど、台本は守ってやるべきや」
 二人の話はずっと平行線だった。でも、二人とも喧嘩したらまずいことを知っているので、堂々巡りの話ばかりしていた。上辻は、オロオロとその様子を見ていた。
 平行線の会話が何回か繰り返されて、とうとう松原が立ち上がってしまった。加藤も立ち上がり、向かい合って
「本はちゃんとやれ」
「ノリを大切にしなあかん」
酔っぱらいながら、同じ言葉を繰り返している。松原と加藤では、身長も体力もかなり差がある。取っ組み合いなったら、松原はひとたまりもないだろう。二人は二メートルくらい離れて向き合って、円の対称線上で向かい合い横にぐるぐる回りだした。加藤はその場でスキップするような動きをはじめ、それを真似て松原もそうする。それがあまり上手ではなく、ドタドタとしていると、「へたくそー」と加藤が怒鳴る。「ほっとけ」と松原が返し、だんだん上手になってくる。早く回りだす。
「バターになるわ!」
加藤が怒鳴り、二人は転んだ。
「わはははは」
二人で大笑いして、また飲み始めた。
 上辻は、横で何が起こったのかわからない様子で、きょとんとみていた。
「かみちゃん、これがお笑いのノリやで」
と加藤が言うと、
「上辻、ちゃうぞ。これをちゃんと台本に起こさんと演技にはならんのや」
「まだゆうとんか」
松原が反論すると、今度は笑いながら加藤がまた突っ込んだ。
 翌日の稽古には、喧嘩が始まってぐるぐる回ってスキップして、転ぶの件が、しっかり台本に書き込まれていた。朝一の上辻の仕事は、それをパソコンで入力し印刷することだった。
「松原さんと加藤さん、どっちが正しかったのだろうか」
 上辻にはよくわからなかった。

演題
 松原が若いメークをして青年になり、加藤はやくざに扮した。二人は、マドンナ役の中村(なかむら)一子(いちこ)を取り合う。
「僕が一子ちゃんとつきあうー」
「おれが一子ちゃんの彼氏やー」
「勝負や」「望むところや」
加藤が、上手に立ち下手に向く。松原は下手に立って加藤と向き合う。台本には、加藤が三時、松原は九時に立ち向かい合い、戦いの構えをするとある。
「ヤー」「ヤー」
ジリジリと時計回りに動き出す。だんだん早くなりスキップで踊るように回りだす。加藤が、
「一子ちゃんは俺のもんや」
今度は、反時計回りになり、
「一子ちゃんは僕の彼女だ」
「どっちもタイプちゃうねんけどな」
 通りがかった太って不細工ででも金持ちの大久保博之扮するお坊ちゃまに一子がついていってしまう。
 一子がいないことに気が付いて、実際に年配である松原が疲れて倒れてしまう。加藤も、足がもつれて倒れてしまう。
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