8 昔の彼氏

文字数 3,149文字

 閉店興業から集客をⅤ字回復させた佐飛パラダイスは、スポンサーがついて大阪の大繁華街に大阪パラダイスに劇場を持つようになっていた。
 劇場の脇の路地に通用口があり、社員も芸人もそこから出入りしている。たまに出待ちするファンがいることもあるが、この時間にファンがいることはあまりない。
 上辻が稽古のために劇場にやってきたのは朝の八時。本当は十時でいいのだが、朝まで飲んでいてこのまま家に帰ったら確実にとちる、遅刻すると思ったからとりあえず劇場にやってきた。
 通用口の前に、真面目そうな高校生くらいの男の子が二人立っていた。
「河合(かわい)佳代(かよ)さんにこれを渡してくれませんか」
 少年の一人が関東弁でそう言い、手紙を上辻に渡そうとした。
「君、えらいマニアなファンやな。佳代さんは十時までには来はるで」
 女を捨てたような下品な芸で売っている河合に、純朴そうな少年がファンにいるというのは滑稽で、にやにやしながら言った。
「上辻隆至さんですよね。テレビで見たことあります。僕、河合佳代の息子です」
 後ずさりするほど、驚いた。ずいぶん前のことを思い出した。
「えっと、ダイヤくんか?」
「そうです。知ってくれてたんですね」
「赤ちゃんの時、佐飛で抱っこしたことあるわ」
 上辻がまだ佐飛パラダイスに出演していたころ、河合は最初の結婚をしていた。できちゃった結婚で、確か河合より五歳くらい若い夫だった。当初は、劇場に幸せそうに子どもを連れてきたことがあったが、間もなく離婚した。子どもは河合が引き取るのかと思ったら、父親が育てることになったと聞いていた。
 その後、河合は何度か結婚し離婚した。ぶっ飛んだ河合のキャラクターは人生もぶっ飛んでいた。
 あの子がこの子。佐飛パラダイスに連れてこられた赤ん坊のことを覚えていたし、名前がダイヤという変わった名前だったのも覚えていた。
「ニュースで、お母さんが乳がんになったって言ってたので」
 河合は、去年の暮のテレビの健康番組で乳がん検診をやって、乳がんが見つかったことがあった。幸い初期で年内に手術し二・三日の入院で、仕事に復帰している。ダイヤはそれを心配していた。
「もう治ってはるで。初期やったから」

「時間あんのん?入って行きぃや」
 上辻は、興味本位でただ眠気覚ましに話し相手になるかと思っていた。
 二人は緊張して、楽屋前のロビーのソファーに座らされた。
「コーヒーかコーラか飲むか?」
「はい、できればコーラを」
 上辻が自動販売機で、コーヒーを一つ、コーラを二つ買って、二人にコーラを渡して座った。
 まだ早い時間で、芸人はもちろん社員もほとんどいなかった。いつもら上辻はここで横になって稽古の時間まで仮眠をとっている。酒臭さを消すためにタブレットをガサッと口に入れた。
「僕は、僕を捨てたお母さんを許したわけではないんです。ただもし死んだら二度と会えないのかと思って」
 ダイヤは今は東京で、父と新しい母親と新しく生まれた十歳離れた弟と住んでいる。中学を卒業するので友人五人と卒業旅行で大阪に来ている。一番の親友の田中には、河合が母親であることを打ち明けていたが、他の友達は知らない。
「僕の本名は、カタカナでダイヤですけど、普段は漢字で書いてるんです。お母さんがつけた変な名前で苦労してるんです」
「笑たらあかんけど、笑うわ。弟さん、モンドちゃうやろね」
「違います。裕(ゆう)二(じ)です」
 ダイヤが間髪を入れずに打ち消し、それを田中がちょっと笑ったが、ダイヤの方をちょっと見て押し殺して表情を消した。
「あんな変な人が自分のお母さんだっていうのは嫌なんです。でも会っておかないといけない気がしたんです」
「せやな、俺も母親とは縁がなかったけど、会えるもんなら会いたかったわ」
「そうじゃなくて、なぜ僕を捨てたのか知りたいんです」
 上辻は野次馬根性から話し込んでしまったが、なまじ事情を知っているだけに、ちょっとまずかったと思い始めた。そういうことは知らない方がいいようにも思うし、芝居のように必ずしもハッピーエンドではない。
 河合の現在は、芸人としてはとても優秀で売れている。でも未だに男性に興味津々でフラフラしている。堅実に家庭を築いたり子育てするということとはかけ離れている。ますますダイヤが傷ついてしまうだろう。
 しばらく沈黙して、
「やっぱり、帰ります」
 ダイヤが立ちそうになった。
「ほな、男性楽屋に行こ」
 上辻は、母親に愛されなかった少年が自分と重なりこのまま愛されないことを証明されてしまうのはまずい。ダイヤが赤ちゃんの時の話などして、大事にされていたことを伝えようと思っていた。
 男性楽屋にはもう新米の芸人と進行の子が掃除をし終えていた。
「大したことやないんや、ここで俺らが話してること、人に絶対言わんといてや」
 ちょっとシリアスなことを話す雰囲気を出した。
 上辻は、楽屋の奥の角の自分が普段使う化粧前のあたりに二人を座らせ、三人で丸くなった。
 佐飛パラダイスでやってた頃、河合はありったけの可愛いベビーグッズでダイヤを飾り立てていた。ベビーカーは外国製のものだったし、ブランド物の服を着せていた。
 あまりの親ばかぶりに、武田がからかって、
「芸人にするか?」
と言っても、
「この子は、芸人にはしいひん。この子のお父さん、賢い人やし」
 父親は国立大学を出て公務員だと上辻は聞いていた。
「賢く育てて、ええ大学行かせて、名前通り堅い仕事に就かせて、可愛いお嫁さんもらうねん」
「亭主のために死ねると思わへんけど、この子のためには死ねるかも」
「姉さん、えらい変わらはりましたなぁ」
 当時、とても子煩悩だったことをダイヤに教えてやりたかった。その後そうではなくなったのだが、それは言わないでおこう。
 
 いきなり楽屋のドアのノックの直後、河合の大きな声がした。
「おはようございます、いや武田君いはりましたん?明日、昔の彼氏の誕生日ですねん。ちょっとお祝いにケーキ焼こう思いまして、これ試作品。下手ですけど食べてくれはりませんか」
 慌てて、少年たちに立ちはだかるように上辻が立ち上がった。
「ああ、おおきに」
 河合が、無神経な感じで男性楽屋に首を突っ込んでくる。新人の芸人がケーキの袋を受け取り、入り口の机に置いた。
「昔の彼氏と誕生会するのんか?」
「ちゃいますぅ、今の彼氏と二人きりですっ」
「あほか、お前も今の彼氏も」
 呼び止めようと思っている間もなく、河合が出て行って油圧でゆっくりドアが閉まって、上辻は少年たちを振り返った。
「もっぺん、呼んでこよか」
 上辻がそういったとき、田中が驚いた顔で言った。
「小川君、明日誕生日だよね」
 上辻はちょっと田中とダイヤの顔を見て、意味を考えてから言った。
「昔の彼って、お前のことか」
 ダイヤは、しばらく動かない。
「いえ、でもたくさん彼がいらっしゃるでしょうから、違うと思います」
 ゆっくりとした口調で、自分に期待しないように言い聞かせるように言った。
「ダイヤくん、呼んでくるわ。名乗りぃや」
 上辻自身にも迷いがあったが、ケーキはやっぱりダイヤの誕生日ケーキだと思って、会った方がいい。ダイヤが楽屋を出ようとする上辻の服の裾を持って止めた。
「いいえ、全然元気そうで、また会えそうなんで。手紙返してください。今日は帰ります」
「せやな、このケーキ食べてお帰り」

 演目
 幕が開くと、誕生パーティをしている部屋。大きいけど不格好なケーキと、おばさん友達が数人座っている。真ん中は不細工なおばさんに扮した河合佳代。
 ハッピーバースデーの歌を歌っている。
「おめでとう!」
「何歳になるの」
「十八歳」
「嘘つけ!」
 両隣の二人に頭を突っ込まれてケーキに顔を突っ込む河合。  
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み