1 遅刻の訳

文字数 2,073文字

 佐飛(さひ)町は郊外の盆地にあり、東南から北西にかけて緩やかに佐飛川が流れている。千年前のやんごとなき人たちが多くの詩歌に読むほど、風光明媚な風景があった。近代には、川の両岸は田んぼとなり、近年にはあっという間に田んぼが住宅地になった。
 そんな佐飛町のほぼ真ん中に、佐飛パラダイスはある。当初は入浴できるだけの施設だったが、レストランと劇場を併設し、だだっ広い駐車場があり、格安で一日中遊べる場所となり、佐飛名物とまで言われるようになった。
 正月の連日公演が終わって、久々の劇場の休演日の朝、入浴客はほとんどいない。でも座長の武田(たけだ)雅司(まさし)は、ちゃんと八時に来て駐車場の掃除をしていた。
 ブレザーの制服を着た高校生が、自転車置き場に自転車を置いて、パラダイスの建物の周りをうろうろし始めた。武田は掃除をしながら、その少年が通用口あたりで寒そうに何かを待っている様子を見ていた。
 何か変な子だな。武田は追い払うつもりで通用口に戻ってきた。
「こんなとこにおらんといてや、風呂の入り口はあっちやで」
 少年が、武田の顔を見て驚いた顔をしている。
「武田さんですか?」
 一応、演者であるのに、朝から作業服で掃除をしている姿を見られたことが、ちょっと恥ずかしかった。もともと掃除は会社への感謝の気持ちであり、仕事としてやっているのではなかったが。
「弟子にして下さい」
 少年が思いもかけないことを言い出した。今時芸人に弟子入りするものなどいない。養成所や学校に行って、オーディションを受けるのが普通だ。ましてこんな田舎の劇場に弟子入りしたいと言いに来る子など、本気ではないに決まっている。
「学校行ってるんやろ」
「芸人になるんやったら、学校なんていらんと思いますし」
「あほか、学校でケツ割る奴が芸人になんかなれるか」
 そういうと素直に帰って行った。
 ところが、その子が三月になってまたやってきた。昨日高校を卒業したとのことで、殊勝に履歴書も持って、弟子入りをしたいと言った。
「僕、佐飛生まれの佐飛育ちで、ここで働きたいんです」
「芸人なんかやめとき」
「お笑いやりたいんです」
 履歴書には、上辻(かみつじ)隆(たか)至(し)、十八歳、佐飛パラダイスの近所の小学校、中学校を卒業し、電車で二駅ほど離れた商業高校を卒業したことが書かれてあった。
「なんでお笑いやりたいんや」
「佐飛パラダイスに小さいころよく来てました。笑劇場みたいなんを自分でもやりたいんです」

 上辻は父親の顔を知らない。母親と二人暮らしで大阪に住んでいたが、母親は上辻が小学校の時に亡くなった。
「なんかわからへんのですけど、うちの隣のビルの屋上から落ちましてん。僕小学一年生やったからちゃんと聞かされてないんですけど、自殺やったんやと」
 そのあと、佐飛で保育士の仕事をしている祖母と一緒に住むようになった。その頃、祖母とよく佐飛パラダイスに笑劇場を見にきていた。
 高校一年生の時、祖母が脳の病気で倒れ、長く入院していたが障害が残り老人施設に入所することになった。それからは一人で祖母の家に住んでいた。
「おばあちゃんのいる施設って、パラダイスの隣のあれです」
 隣の老人施設は、佐飛パラダイスにとって上客だった。空いている平日の午前中に、入浴介護やレクレーションとして貸し切って使ってくれている。
「ほな、おばあちゃん。今でもたまにパラダイスに来てはるんやな」
「そうです。でももうわからんようになってますけど」
 上辻は笑いながら言った。多分認知症なのだろう。武田はそういう高齢者も来ていることを知っていた。
「おばあちゃんいるから、佐飛は離れたくないんです」
 親のことなどは武田の境遇と似たところもあり、祖母を大事に思っているあたりを聞いてしまっては、もう無下に断れなくなった。
 内川に連絡し、もともと募集していたパラダイスのアルバイトとして雇ってもらうことにした。一応笑劇場の弟子っぽい手伝いもさせることを会社に承知してもらった。
「明日から、しっかり頼むな。八時にはここへ来て、制服着ときや」

「おはようございます」
 翌朝、上辻は八時十分に駆け込んできて、満面の笑顔で大声で挨拶した。
「こら、初日からなんで遅刻やねん?」
「それは、プライバシーなんで言えません」
「あほか」 
 まだまだ社会人としてはどうかと思が、いろいろ苦労はしてきたろう。それでも明るい様子を見て、上辻少年をしっかり育ててやろうと武田は思い始めた。

演題
 ベテラン座員松原が扮するラーメン屋の店主と店員役が客席の前で話し始める。
「武田君、アルバイトの初日から遅刻やな」
「あ、来た来た」
アルバイトの武田が駆け込んできて大声で、
「おはようございます」
と元気に答える。
「なんで遅刻したんや?」
「プライバシーにかかわる問題なので、お答えできません」
 現代っ子が言いそうな間抜けな答えに、中年以上の客はよく笑った。ギャグでも何でもない、実話なのに。
「大丈夫か、このアルバイト。使い物になるんかいな」
 武田の思ったことを松原がセリフとして言った。
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