13 匙の行方

文字数 2,635文字

 確かにここ数年高血圧と言われていた。でも通院しているわけではなかったし、まだ五十五歳と若いし、入院するほどの病気になってしまうとは思っていなかった。
 正月の連日公演が終わった後の休演日、突然武田が体調を崩した。佐飛パラダイスでの打ち合わせ中息苦しいと言い出し、そのまま会社の公用車で大阪の病院に行き、そのまま入院生活が始まった。本人はすぐ退院できると思っていて、笑劇場の座員の見舞いなども断っていた。しかし、心不全の症状は重く回復の兆しはなかった。
 一か月後、病室で心停止を起こし救命処置で一命をとりとめがICUに入った。妻の舞は、医師から厳しい見通しを聞かされた。
 五十五歳。若いと言えば若いが、これまでの不摂生のせいだとわかっていたし、本人にもそれなりの覚悟ができた。少し遅かったが。
 喉の気管に穴をあけて呼吸する機械をつけられて筆談しかできなくなった武田は、小さなホワイトボードに歪んだ字でしか意思を伝える方法はない。ずいぶん時間をかけて「上つじ」と書いた。舞は心が重かったが、上辻に会社を通じて、武田の入院する病院に来てほしいと上辻に連絡した。
 大阪パラダイスに出演していた上辻が、出番の合間の短い時間にやってきた。すぐ病院の一階で舞が迎えた。
「舞姉さん、武田さんどうですか」
「私はあんたを呼びとうなかったんやけど、うちの人が言うから」
 あの一件以来、武田と上辻はほとんど会話も仕事もしていない。一度だけ松原の書いた台本をしたときに、セリフのない役を与えられたことがあった。あの時、上辻は松原の訃報を知らなかったが、いくら二人が断絶していたとしても武田が松原にだけは義理を立てた形だった。それから上辻は大阪パラダイスに出演したり、たまには座長公演もしていた。しかし直接会わないように避けていた。
 笑劇場は、すでに中堅で座長を行える芸人が、上辻以外に二人もいて、興業には差支えがなかった。ほとんどの客が「最近武田見ないなぁ」程度にしか思っていなかった。座員ですら、入院していることを知らないものもいた。
 上辻も、病気だということは知っていたが、大したことはないと思っていなかった。何故呼ばれたのかわかってはいない。あの一件以来、形としては謝ったものの、自分が悪いとは思ってはいない。それで長く仕事を干した武田に対して、思い返すと吐きそうになるほどの激しい感情があった。
「もう長うはあらへんそうです」
 舞がそう言った。なら仕方ない。忙しい中来てしまった自分自身へのいいわけでもあった。
 一般病棟ではなく、ICUにエプロンを付け手を洗ってマスクをつけて入るように教えた。患者たちにつけられた医療機器の電子音が鳴り響いている。ベッドに寝ているのがすぐには武田だとはわからなかった。武田は上辻を見て、わずかに手を挙げた。
 舞が話し始めた。
「台本のことを相談したいゆうてます。」
 武田の前に舞が小さなホワイトボードをかざし、それに歪んだ字で武田が字を書いた。
“台本を書く”
「はい?」
“手はあかんが、頭の中で舞台を”
 台本は頭の中で書く。上辻が佐飛パラダイスに来て最初にした笑劇場の仕事のことを思い出した。あれから上辻はたくさんの台本を入力して、後に書くようになった。なかなかアイデアが出てこないときは、ついつい文字面で台本を書いてしまう。文字から舞台を作っては笑劇場はうまくいかない。舞台が先なのだ。そういう意味ではアドリブは正しい。武田はそういうことを教えてくれていたのだと思っている。頭の中で舞台を動かすという感覚を共有しているから、上辻を呼んだのだった。
 武田は上辻が思っているほど、あの件について引っかかっていない。最初から、和解するもしないも武田の意地の匙加減だった。
 上辻にとっては、ここまで極端な状態だからこそ、武田に向き合える。まして台本を作るという仕事を手伝うことができる。
 武田が、ホワイトボードに時間をかけて歪んだ字を書いた。唇でも表現している。
 患者たちにつけられた医療機器の電子音が鳴り響いていた。

“電子音がシンクロして、リズムに乗って看護師が踊りだす”
 武田がホワイトボードに書き、上辻が復唱し手書きでノートに書いていく。
「ベッドは、ここみたいに三つくらい。奇数で真ん中があった方がいいですね」
 武田がうなづく。
“研修医が抑えようとするがうまくいかない”
「研修医は若くて、看護師の方が偉い感じで止められない」
“患者が起きて看護師をどつき、止めさせる”
 ホワイトボードを持つ舞が、険しい顔をしていたのに、少し表情が緩んだ。
「ベッドに危篤って紙つけておきましょう」
“他のベッドは、今夜がヤマ”
「ほんまにあったら顰蹙ですね、ここで」
“お前、ここに危篤書くだろう”
「ほんまに死んだらええのにと思ってたこともありましたね」
 弟子になりたいと志願し、師匠と慕って可愛がられ、突然突き放されて、自分があんな目に合う程悪いことをしたのか。今でも怒りはある。
“今、生かすも殺すも、お前の匙加減”
「あの時、師匠の匙加減に振り回されました」
“ごめん”
 ホワイトボードを持つ舞が、あやまらんでいいと言いながら泣いている。
「裏切りと思われても、仕方ないことをしたのは俺ですけど」
 笑劇場の信頼を失わさせるようなことをネット上に書いて炎上させた。でも裏切りではない。少なくとも、上辻自身は笑劇場、佐飛パラダイスを愛しているからこそネットに書いたことだった。
“匙加減を間違えた”
「匙がどっか行ってしまってました。今まで取り返せませんでした。拾いに行くべきやったんでしょうね。どっちかが」
 面会時間が終わって、上辻は台本を仕上げるために会社に戻った。
 
演題
 大学病院のICU、集中治療室。ベッドが三つあり、それぞれに意識のない患者が寝ている。傍らに研修医の上辻が立っている。医療機器の電子音が鳴り続けている。たまにエラーのけたたましい電子音も鳴る。ナースの河合佳代が走ってきて、エラーを対処する。
「先生、ぼーっと立ってるだけであきませんやん」
 河合が上辻の頭をカルテでどつく。
「あ、すみません」
「ようけ医学部で勉強してきはったんでしょ」 
 また、河合が上辻をどつく。
「あ、診察しないと」
 上辻が患者の一人に聴診器を当てて診察を始める。
「先生、どうですか?」
「何も聞こえません、もうあかんな、匙投げたわ」
「聴診器が耳にはいってませんやん」
 今度は患者が起き上がり、上辻をどつく。
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