2 パソコン

文字数 1,440文字

 上辻隆至が、佐飛パラダイスで働き始めてひと月くらい経った。掃除以外で初めて与えられた仕事は、これが初めてだった。笑劇場の台本会議の書記、叩き台の台本に書き込んでいくことだった。
「隆至、パソコンできるんやって?」
「普通にできますけど、一応」
 会議室には、武田と作家、座員の三人が叩き台と言われる書類を持って、ホワイトボードの前のテーブルに座っている。武田の隣に上辻が座らされた。
「俺らの言ったことを、お前はパソコンに打ち込んでいってくれ」
 台本用のパソコンには、叩き台の台本が表示され、そこに変更や追加、削除をしていく。これまでは作家の一人が入力していたそうだが、議論をしながら入力することは難しかった。武田に至ってはパソコンの操作が全くできなかった。
「お前、パソコン見んと入力できるのか?すごいな」
「パソコンは見てますよ、キーボードを見ていないだけです」
 武田が上辻のパソコンのキーボードの入力の速さを見て驚いて言った。
作家よりも何倍も入力が早かった。大体の事ではどんくさい上辻だが、商業高校でのキーボードの授業があったため、パソコンの入力は武田が期待した以上に上手だった。作家も驚いていた。
「こんなん、普通ですよ」
「今時の子は、こういうことはどんな子でもできるんかな」
 上辻はこれまで見たことがあった笑劇場が、こうやって作られていたことに驚いていた。台本の入力はすこぶる順調だったが、漢字能力や文章力は劣悪だった。
 館内が禁煙のため、会議中の休憩で作家たちが出て行った。いつもは武田も煙草を吸いに外に出るが、上辻の入力した画面を見るために残っていた。
 厳しい大将のいるうどん屋のストーリー。麺も出汁も大将が全部作り、弟子に教えてくれなくて困っている設定。
  大将「うどん屋『天国亭』の味は、わしの匙加減で決まっているんや」
  弟子「出汁の配合、教えてくださいよ」
 入力しながら、上辻は見たこともない漢字に出会って戸惑った。
「だしってだしじるでいいんですか?」
「せや」
「でるだけでええですやん、効率悪いわ」
「さじってこの難しい漢字のやつ、なんのことですか?」
「匙ゆうたら、スプーンのことや」
「ほな英語で言わんと、スプーンって日本語でゆうたらよろしいやん」
「あほか、匙が日本語や」
 入力は順調だけど、語彙も漢字もダメな上辻の様子を見てため息をついてしまう。でもネタの宝庫かもしれない。武田は笑いながら上辻の様子を見ていた。
「俺は台本を書くとき、文字を探すのが大変でパソコンだと考えられなくなるんや」
 武田は台本を書くとき、手書きで原稿用紙に向かう。その時、頭の中で舞台を描く。大道具を並べ小道具を持たせ役者が話す。そうすると、客の笑い声も聞こえてくる。
「鉛筆で書きながら、舞台を作っていく。原稿用紙を見ているようで見ていない」
「だから、字汚いんですね」
「じゃかーしいわ」
 上辻が、台本を入力しながら、そこは改行や、ト書きはこうかくんやと細々と教えられた。
 だんだん武田が支持する言葉に文字の勢いがついてきて頭の中に文字ではなく、画面の向こうに舞台を想像していた。そこで思いついたギャグのセリフを提案した。
「師匠、ここで『佐飛だけに佐飛かげーん』っていれましょうよ」
 台本にはない、客の笑い声が聞こえた。

演題
 師匠にやっと出汁の作り方を習う弟子。
「師匠、醤油はどれだけ入れるんですか?」
「こんくらいや」
「ちゃんと量ってくださいよ」
「佐飛だけに、佐飛かげーん!」
「匙加減でしょうけど」
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