7 出会い橋

文字数 2,612文字

 今週の公演が無事終わり、楽屋に挨拶に来てくれた客に愛想をふりまき終わった。いつもならここから若手を連れて飲みに行くのだが、今日の武田は風邪をひいたようで、替えることにした。若手の一人に小遣いを渡して、飲みに行って来いと劇場で見送った。
 招待してきてくれた客には礼状を書いているが、そのリストを事務から受け取り、一人帰路についた。
 佐飛パラダイスは佐飛川の河畔にあり、駐車場から夜でも古佐飛橋がよく見える。橋の中ほどに、人がいて川を覗いているようだった。小さくてよくは見えないが、髪型からもしかすると座員の長谷川(はせがわ)舞(まい)ではないかと思った。
 車に乗って、その人のところに近づいた。やはり長谷川だった。
「どないしてん?」
 車を停めて、助手席の窓を開けて聞いた。
「何でもありません。お疲れ様です」
 長谷川は泣いているようだった。
「乗っていき。送ったるで」
「辞めたいと思てます」
 車が少し動きだしたときに、小さな声でそう言った。武田としては、体調が悪いというのにほぼ純粋な下心で車に乗せたわけだが、辞めるとか言われるとそれは座長として困る。
 長谷川は美人ではあるが陰のある性格で、笑劇場では珍しいキャラクターだ。マドンナをやらせるとドタバタ喜劇の中では、面白いアクセントになっていた。
 でも、武田の好みの女性ではない。まず暗い。弱弱しすぎる。舞台での発声も不十分だ。細すぎる。何より胸がなさすぎる。
「なんかあったんか、座員になんかされたんか?」
 武田が半笑いでそう聞いたら、
「そんなんと違います」
 全く笑いもせず、冷静に長谷川が答えた。
 長谷川の父は七年前に亡くなっていた。半年前に母親が余命宣告され先月亡くなった。三か月前弟に胃がんが見つかり、手術などしたがかなり厳しい状況だ。五年前に長谷川は子宮がんで子宮を取っている。
「がん家系なのはわかっているんです。それでもうちばかりがんになって、もう嫌になってきて」
 長谷川の母親が亡くなったのは知っていたが、弟のことはもちろん、長谷川自身が子宮がんだったこと、子宮を取ったことなどは知らなかった。
「子宮って、引くなあ」
「すんません」
 長谷川は冷静ではなく、カミングアウトしすぎた。
「がん家系って言うんか。そういや俺の父親もがんやったらしい。知らんねんけど。母親も乳がんやし。ハハハ。アークチョイ」
「私、一人ぼっちになるんやなと思ったら」
 武田にしてみたら、そんなことを気にしていても仕方ないと思った。長谷川の深刻な受け止め方や考え方が、心底嫌いだった。
 可愛い顔しているんだから、ニコニコ可愛くしてればいいのに。武田はもう、体調のせいばかりではなくもう下心は十分に萎えてしまっていた。
 車が長谷川の住んでいるマンションの前についたが、ちょうど入り口あたりに救急車やパトカーが来ていた。少し離れたところに車を停めた。
「私、川に飛び込みそうに見えましたか」
 どうせ本当に飛び込みはしないだろうが、そう考えてしまうことがあったのだろうと、さすがの武田の気が付いていた。
「電車とかよりは、迷惑かからんかもんな。アークチョイ」
 大きなくしゃみをして、ぐしゃぐしゃと鼻をかんだ。
 長谷川は武田が、誰よりも不幸な自分を憐れんで、少しくらい慰めてくれると思っていた。仕事上の上司に当たるわけで、本当は死にたくない自分を止めてくれると期待した。そうでもなかった。
 間抜けすぎる。笑劇場みたいに間抜けすぎる。死ぬ勇気もなければ、止めてくれるほど親切でもない。茶番だった。
 車の降りるために長谷川がドアにやっと手をかけ隙間を開けた。
「あれ?」
 マンションの三階と屋上の間の非常階段の脇に若い女性がいるのが見えた。武田に、あれと指して教えた。警官たちが見上げているのは彼女だった。
「今日は流行ってるみたいやな。飛び降り。アークチョイ」
 武田がまたくしゃみした。
「近寄らないでー」
 階段の女性が騒いでいる。
「落ち着きなさい」
 警官が拡声器で怒鳴った。
 しばらく大きな声が聞こえたが、数分で女性は警官に諭され、救急車で運ばれていった。
「あの子も、どうせ自殺するつもりなんかないんやろ。アークチョイ」
 武田が長谷川にあてこするようにそう言った。
「そんなことない、かわいそうに死にたいほど悩んではるんや」
 武田の無神経さに、普段はおとなしい長谷川もかなり大きい声を出して怒り出した。
「助けてほしいだけなんや。甘えや。アークチョイ」
「助けてほしい人は助けたげたらええですやん」
「お前その発声、こんなとこやのうて、舞台でせい。アークチョイ」 
「ぶっさいくなくしゃみすんな」
「くしゃみに不細工なんかあるか。アークチョイ」
「アークチョイってそんなくしゃみありえへんわ」
「しゃーないやろ、風邪やねん。アーアーアークチョイ」
「わざとやわ」
 手が出そうな喧嘩に見えたのだろう。残っていた警官が近づいてきて、
「大きな声でご近所迷惑ですよ。何かありましたか?」
「すみません」
 武田と長谷川が慌てて、揃って謝った。

 稽古初日。
「今週は風邪で長谷川休演です。代演は河合さんです」
 稽古の初めに、社員が伝えた。
「風邪?この冬は流行ってないのにね。代演ありがたいですけど。そういえば、先週座長も風邪ひいたはりましたね」
 河合が普通にそう言ったが、武田がちょっと慌てて答えた。
「せ、せやったかな」

演題
 自殺の名所、飛降橋に次々と自殺志願者が現れる。
 若いカップルは、「仕事がないので。別れさせられるのなら、もうこの世で生きていても仕方ない」
 老人は、「工場の跡継ぎがいない」と嘆いている。
 飛び降りそうになったとき、お互いに横に見つける。お互いの身の上話をし始める。
「じゃあ、うちの工場の後を継いでください」
 老人がそういって、双方が丸く収まる。
 小学生は「勉強が分からない、宿題が終わらない」大学院生「勉強できるけど、就職できない」と嘆いている。
 飛び降りそうになったとき、お互いに気が付き、身の上話をする。
「僕の家庭教師になってください」
 小学生がそういって、丸く収まる。
 不細工な女性が「不細工だ、結婚できない」と悩む。男性が「振られた」と嘆いている。飛び降りそうになって、お互いに気が付き身の上話をして、結婚を前提にお付き合いしましょうということになる。
   
 半年後、長谷川は正式に笑劇場の座員を辞め、武田と入籍した。
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