【第15話】犬っ子モカと、
文字数 5,403文字
それは少女が起こした愛しい微笑み。少年が残した尊い歓声。
人に、人の心に宿る純粋な想いの形。
それは己が味方に求めるもので無く、生けとし生きるもの、全てに見たいと思うもの。
それが例え敵対する側のものであったとしても……。
隻腕の騎士ジョーカス・オリファーはそんな人々の生き方を、想いを、愛しく思っていたのかもしれない。――】
なんて素敵な生き方なんだろう。そしてこれからどんな旅を、出逢いを行うんだろう。
『なんでしょ? なぅは何を読んでいるんでしょ?』
そう言いたげな眼差しで、私の前に顔が迫る。
しかしその右手に大きなスプーンが2つ握られているところを見ると、真の目的は私と一緒に夕食を食べることだったんだと思う。
階下から昇る匂いに惹かれつつも私は応えた。顔を振り上げモカちゃんの鼻先にハードカバーを突きつける。
それは、【……戦士は独りだった】という一文から始まる隻腕の騎士の幾つもの戦いと出逢いを描いた作品なのだ。
『柊なゆた』『桜壱貫』
今此処には2人の署名しかない。
私の私の為の邪まな勧誘にこの美少女は気付いていまい。
背に軽い圧が掛かる。
背中が熱くなってくる。僅かな振動もそこには在った。
すごく気になる質問だった。好きな作品の好きな場所を語れる、それは幸せなことだと思った。
天井の木目を眺め物語の世界へ想いを馳せる。
モカちゃんが呟く。その言葉を妨げないよう耳を傾ける。
子供達は応援してくだしゃいましゅ。戦争が正しい。そう思う子なんて居るわけありましぇん! 彼らには強さがありましゅ。曲がらない生き方が在りましゅ!
真っ直ぐな眼を持ってましゅ。『お父さん、お母さんを守りたい』そんな健気な想いがありましゅ!
それはきっと、子供はみんな純粋で強い想いを持っているから!
それにボク、そんなに強くはないんでしゅ。だからいっぱい、いっぱいの人に応援して欲しいんでしゅ! 『頑張れ!』そう、みんなに叫んで欲しいんでしゅ!
手を伸ばして、たくさん、たくさん。ボクに向かって応援してもらいたいんでしゅっ!
振り向いてモカちゃんを抱きしめた。この胸に抱き留めた。
――結局、モカちゃんが階下へ降りる事はなかった。私が持ってきたカレーを2人で食べた。部屋の中に立ち込めたカレーの匂いに、
って、目を腫らしたモカちゃんが微笑む。知ってはいけないことだと思ったから私は気がつかなかったことにした。
その夜は2人一緒に私のベッドで眠った。
胸元に湿り気を感じて、モカちゃんを覗き込む。
その寝顔は幸せに満ちていた。頬を伝う涙は笑顔に弾かれていた。
――モカちゃんを抱きしめる。
自分が彼女の『マァマ』では無くてもせめて今は、今だけは自分が代わりでいてあげたかった。
モカちゃんがすぐ隣で眠っている。上下を繰り返す薄い胸板、幸せそうに微笑む寝顔に心から安心した。
今、この瞬間に大事な日課を思い出した。
慌てて口を塞ぎ、慎重にモカちゃんの顔を覗き込む。
私は改めて布団から身を起こす。上着を羽織り、自身の勉強机へ腰を下ろした。2段目の引き出しから1冊のノートを取り出す。
私はページを捲って流し見た。
魑魅魍魎を押しのけてなゆちゃんは夜の街を歩みました。彼女は強い子だから夜のお散歩もへっちゃらへ~です。
真夜中のゴミ捨て場、そこで出逢ったのは1人の犬っ子さん。彼女は青いゴミ箱から顔を出してこんにちは。
『ボクはモカでしゅ。そこの貴女、ボクを拾ってはくだしゃいませんか? ボクは強いでしゅよ!』
少女の言葉になゆちゃんは気前良く頷きました。仲間は1人でも必要なのです。犬っ子さんに手を差し出して華麗に一言。
『きび団子は無いけれど、……ついて来ていいよ、犬っ子モカちゃん!』
1人のお供を引き連れて、なゆちゃん一行は鬼ヶ島ならぬ高校の入学式へ、その大いなる1歩を踏み出したのです。――】
文章の上部には色鉛筆とパステルでコミカルなイラストも描いた。
私はページを一気に読み進め何も描かれていない1枚を広げる。そしてこう書き連ねた。
その一節を読んでいたなゆちゃんを犬っ子さんが誘惑するのです。
『夕食はカレーでしゅよ?』
その香ばしい匂いに負けそうになったなゆちゃん。
しかしなゆちゃんは、その手に掴んだ偉大なる物語で立ち向かったのです! ――】
赤と白、黄色の色鉛筆で『本を広げ抵抗する女の子』を描く。
実に素敵な絵日記ではなかろうか。
これは、私がモカちゃんと出会った時から付けている絵日記だ。いつか夢を叶えられたら使おうと思っている、日記という名を借りたネタ帳なのだ。
……私の夢、それは絵本作家だ。
子供達に希望を、日々の楽しさを、夢を見る喜びを与えたい。そう思って書き続けているものなのだ。
大きく息を吐いて、私はその続きを書こうとした。が、手が止まってしまった。
モカちゃんが戦士として生きてきた想い、育み積み重ねた言葉を、私が安易にネタとして使うことはいけないことだと思った。
眠っているモカちゃんを振り返る。幸せそうに眠るモカちゃんを見て私は決めた。書きかけのページを破り捨てる。そして再び鉛筆を執った。
けどね、
犬っ子さんの正義はきっと現実で、それもまた正しくて強い力なの。
なゆちゃんは犬っ子さんに平伏しその手を取ったのです。1人の正義と1人の正義、それが合わされば、合わせれば、きっと!
『今度の戦いは一人じゃないよね。なゆちゃんも一緒に戦えるよね。……チカラになれるよね!』――】
不意に思いついた! 開いていた日記を畳んで表紙から例の付箋を引き剥がす。付箋の貼ってあった場所にこの日記へ命を吹き込む一文を書き連ねた。
那由多(なゆた)それは十の六十乗である数字の単位だ。犬っ子モカちゃんが続けてきた無限にも思えるような、苦しくも素敵な旅を意味して名付けた。
これから始まる気がした。全てが動き出すような気がする。モカちゃんとの出逢いを、駆け抜けた春の日の物語を、この白い一冊にいつまでも残しておこう! って私は改めて思ったんだ。
差し込む陽射しがどうにもくすぐったい。私はカーテンを閉めてこの日記へ自分の名前を書き込んだ。頬が緩む。
絵本をしまってモカちゃんの枕元へ歩み寄る。その寝顔を見つめた。
……その頬を優しく撫でる。
カーテンを開いた。眩しさから逃れるようにモカちゃんが枕へと顔をうずめる。
幸せな一日が今日も始まる。そしてそれはきっと続く。ずっと続く。私はそう思っている。
私はモカちゃんの目覚めを待った。その長いまつ毛を覗き込む。その髪を撫でながら、今この世界の幸せを有り難く思った。
……とても温かい色で輝いていたんだ。