【第14話】花園のキミ。
文字数 4,072文字
【2015年、春。柊なゆた】
意識を奪われてしまった。風景から切り離された空を這う淡雪、みたいな。儚さを感じさせる魅力が彼女にはあった。
その人は花壇で育つ花弁を見つめている。その黒髪の女性が微笑む姿に私は眼が奪われてしまった。
入学式の翌日の事。あの特異な戦争を終えた犬っ子『モカ』ちゃんと幼馴染の『いっくん』はクラスの中心的存在になっていた。
2時限目が始まって5分弱、いっくんが先生の解答に彼なりの反論を返した。教科書どおりに答えを書き連ねていた先生が眼を泳がせる。相変わらずな極々普通、日常のひとコマだ。
そんな彼に反論出来るのは今際の酸素を求める教師ではなく、細い腕を強く掲げる彼女、犬耳少女のモカちゃんだけだった。
教室はいっくん派とモカちゃん派に別れ、それぞれエールを送り合っている。
教室はいっくん派とモカちゃん派に別れ、それぞれエールを送り合っている。
2人の掛け合いにクラスのみんなが声援を送る。いっくんとモカちゃんのにらみ合いに手を叩きはやし立てている。
一方で、
もう一方で、
それはもう喧々囂々、2人の火花を煽りに煽っていた。
2人はクラスの中心に立って皆をリードした。それは勉学のみならず他分野、例えば、今日初めて行われた体育の授業でもだ。
2人はクラスの中心に立って皆をリードした。それは勉学のみならず他分野、例えば、今日初めて行われた体育の授業でもだ。
バスケの試合中、モカちゃんがいっくんを前に低く腰を構える。その姿は獲物を淡々と狙う肉食獣! というよりは幼い子犬のようだ。
いっくんがコートを歩む。その足が突如ギアを上げた。敵陣へ素早く切り込む。緩急をつけたその動きに、1人、また1人と抜かされていく。
モカちゃんはいっくんの張り出した肩に身体をすり寄せる。――いっくんが奏でるボールの音ばかりが響いた。
モカちゃんはいっくんの張り出した肩に身体をすり寄せる。――いっくんが奏でるボールの音ばかりが響いた。
いっくんがゴール2メートル程前から空へ舞う。赤のビブスを羽織る集団を率いた彼が高い打点でボールを投じた。
モカちゃんはゴールを前に体をよじり、膝をバネに宙へ舞う。
逸らした背が弧を描く。その体が、高い空を泳ぐ獲物を捕らえた。ありえない高さ、驚くべき跳躍力だった。
しかしそれだけでは終わらない。モカちゃんの着地を待たずしてボールの権利がいっくんに移った。ボールを抱いて降りてくるモカちゃん、その着地を待たずにボールを引っこ抜いたのだ。白線の外から歓声が巻き起こる。
しかしそれだけでは終わらない。モカちゃんの着地を待たずしてボールの権利がいっくんに移った。ボールを抱いて降りてくるモカちゃん、その着地を待たずにボールを引っこ抜いたのだ。白線の外から歓声が巻き起こる。
再びいっくんが宙を舞う。後方に引きながらボールを投じる。球は先ほどより――高い空へと放たれた。
モカちゃんはゴール下へ駆け戻る。空を飛ぶような跳躍だった。
館内に革を打ち付ける音が響く。ボールがゴールへ入る前に叩き落としたのだ。その高さたるやモカちゃんの身長の2倍を優に超える。並では届かない位置のボールを、その小さな手のひらが叩き落したんだ。
モカちゃんが勝利を自身の手で、
モカちゃんが勝利を自身の手で、
もぎ取ってみせたのだ。
跳ねてコートから出ていくボールを誰もが追えない。――そこに笛の音が響いた。
辺りに歓声が沸き起こる。皆の更なる叫び! モカちゃんをチームメイトが高々と抱き上げる。
その脇で赤いビブスの少年たちが荒く息を吐く。いっくんは髪を掻き揚げ汗を拭っていた。そんないっくんを女の子達が励ましている。
――モカちゃん、――いっくん、2人は華を持っていた。
それは、私が決して持ちえないモノだった。モカちゃんを祝いたいのに目蓋が落ちる。言いようも無い寂しさが私の心を満たしていた。
放課後、私は校舎の中庭を独り歩いていた。1人で居たい気分だった。
……そこで出会ったんだ、私の『淡雪』に。
目の前には穏やかな色を付ける花々が在った。瑞々しい匂いがあった。自分を包む、優しい静寂が溢れていた。
思わず息を呑む。むず痒い感覚が身体を駆けた。
思わず息を呑む。むず痒い感覚が身体を駆けた。
風に揺れる長い黒髪。清らかさをかもし出す白磁のような頬肌。胸から腰にかけての豊かな起伏。腰からつま先まで伸びる繊細な脚線。頭から伸び行く漆黒の光沢は、ふわりと、僅かに風をはらんでいた。
その女性が私へ振り向く。穏やかに私を見ていた。
その女性が私へ振り向く。穏やかに私を見ていた。
女性はたおやかに微笑んだ。耳に掛かった髪がさらりと流れる。その姿に私の胸は言いようも無く粟立った。
彼女は花壇を前に腕を広げる。
『アレ』が示すのはモカちゃん、そしていっくんが起こした大激闘の事だろう。おそらく間違いない。身内の話題に思わず頭を抱えた。
振り上げた視線の先で彼女の眼差しとかち合う。
振り上げた視線の先で彼女の眼差しとかち合う。
思わず頬が熱くなる。
誰に何を言われても気にならなかったのに、訳もなく恥ずかしい!
彼女は微笑みながらその視線を頭上へ伸ばす。低いなだらかな口調で言葉を紡いだ
誰に何を言われても気にならなかったのに、訳もなく恥ずかしい!
彼女は微笑みながらその視線を頭上へ伸ばす。低いなだらかな口調で言葉を紡いだ
その声は美しい旋律だった。
首を倒し、舌をはみ出す姿は清楚な趣とは幾分マッチしていなくて、そのギャップに私の喉が音を立てた。
彼女の一挙一動に私の心が疼いた。こんなこと今までに無かった。
首を倒し、舌をはみ出す姿は清楚な趣とは幾分マッチしていなくて、そのギャップに私の喉が音を立てた。
彼女の一挙一動に私の心が疼いた。こんなこと今までに無かった。
いつの間にか体の震えは治まっていた。彼女の笑みに心が軽くなった。落ち着かなかった心が氷解していくようだった。
彼女の脇で腰を屈める。少しだけ触れた制服が訳も無く恥ずかしい。爽やかで暖かい匂いを風と共に感じていた。
彼女の脇で腰を屈める。少しだけ触れた制服が訳も無く恥ずかしい。爽やかで暖かい匂いを風と共に感じていた。
シワになるのも構わずに制服の袖をまくる。肌を撫でるような風が心地良い。
――そんなひと時に騒がしい声が割り込んできた。
野球、サッカー、バスケット、テニス、剣道、エトセトラ。様々なユニフォームの群れに追われているモカちゃんの姿だった。制服の裾を乱しながら走ってくる。
野球、サッカー、バスケット、テニス、剣道、エトセトラ。様々なユニフォームの群れに追われているモカちゃんの姿だった。制服の裾を乱しながら走ってくる。
更に後方。乱れ無き制服を颯爽と着こなすいっくんが居る。
向かってくる柔道着の男性、その首元を難なく掴み投げ飛ばす。いっくんを軸に男性の体が半円を描く。
休む間も無く背後から剣道武者が迫る。その武者から投げつけられた竹刀をいっくんがおもむろに掴む。
休む間も無く背後から剣道武者が迫る。その武者から投げつけられた竹刀をいっくんがおもむろに掴む。
いっくんは竹刀を構え一瞬で足を踏み込む。間合いを詰めブレの無い突きを繰り出す。
竹刀を喉元に受けた若武者は、遥か後方へ吹き飛んだ。……その四肢が痙攣、動かなくなった。
竹刀を喉元に受けた若武者は、遥か後方へ吹き飛んだ。……その四肢が痙攣、動かなくなった。
いっくんは失神した青年の面脇に竹刀を添える。
介抱を始めた男子生徒が武者のネームを眺めつつ、ぽつり、呟いていた。
――いつの間にか心は晴れていた。普通じゃなくても、自分とはつり合わなくても、
――いつの間にか心は晴れていた。普通じゃなくても、自分とはつり合わなくても、
大事な仲間だもの。モカちゃんといっくんは掛け替えの無い友達だもの。
校庭へ『あの』声が響いた。
校庭へ『あの』声が響いた。
そして今日も馬鹿みたいな演劇が始まるのだ。一瞬の時を経て訪れる灰色の空間と、そこに飛び交う数多くの声援。賑やかで私の大事な非日常が巻き起こる。子供達が綴る子供達だけの物語が、今日も幕を開けるのだ。
――背後へ風を感じた。
――背後へ風を感じた。
先ほどの女性が灰色の空間でその華奢な腰を上げていた。立ち尽くす私へ背を向ける。その横顔に、どうしてだろう。私は寂しさのようなものを感じた。
そして、去っていく後姿に怖くなった。ここで別れたら彼女が消えてしまうんじゃないか? もう逢えないんじゃないか? 彼女は自分の弱さが見せた一時の幻想だったんじゃないか? って。
一時のみの憧れかもしれない。それでも何も知らずに別れてしまうのは堪らなく寂しかった。
そして、去っていく後姿に怖くなった。ここで別れたら彼女が消えてしまうんじゃないか? もう逢えないんじゃないか? 彼女は自分の弱さが見せた一時の幻想だったんじゃないか? って。
一時のみの憧れかもしれない。それでも何も知らずに別れてしまうのは堪らなく寂しかった。
静寂が訪れたような錯覚を覚えた。振り返る彼女の笑みが瞳に強く残った。
私が出会った『淡雪』は溶けることなく風の先を歩いていった。
背後にはサトウさんの懺悔と幾多の爆発が在る。一時在った灰色の世界はみんなの歓声の中へと消えていった。
背後にはサトウさんの懺悔と幾多の爆発が在る。一時在った灰色の世界はみんなの歓声の中へと消えていった。
現実へと戻っていく世界、そこに降り注ぐ日の光に私は目を細める。雲間から射す春の陽射しはほんのりとした暑さを持っていた。
――私の頬が熱かったのはこの陽射しのせいだろうか?
高鳴る胸を制服の上からそっと抑える。土で汚れた腕を風が撫でた。それが今の私には何よりも心地よかった。
高鳴る胸を制服の上からそっと抑える。土で汚れた腕を風が撫でた。それが今の私には何よりも心地よかった。