5-2 ほどけるもの
文字数 5,467文字
中は小さな部屋だった。中央にぽつんと糸車が置かれているだけで他には何もない。
糸車はからからと誰も回していないのにひとりでに回り、何かを紡いでいる。きらりきらりと細い糸のようなものが時折光を反射するので、それが何かを紡いでいるのだと分かるけれども、それはシェスティンの知っているどの繊維とも違う物のようだった。
場違いな糸車の置かれた台にそっと手を添えて、時紡ぎはシェスティンを見ていた。静かに静かに。
『ねぇ、どうするんだっけ?』
とことこと足元に纏わりつく黒猫が首を傾げる様子に、時紡ぎは視線を移し、ゆっくりと瞬いた。
次に開いた瞳には光が戻っていて、閉じられたままだった唇も小さく開いて吐息が漏れる。まるで、久しぶりに呼吸したかのように。
「忘れているなら、もうひとりと交代すればいい。彼は知ってる」
「ダメだ! スヴァットは……もう、時が……」
思わず口に出て、シェスティンはひたりと戻った視線に口を噤む。
そのまま屈み込んだ時紡ぎは、黒猫の腹の傷を見て少しだけ眉を顰めた。
「ああ……彼を人質にとってるのか。ここなら、あちらよりはもう少し余裕があると思うが……」
時紡ぎは黒猫の顎に指を添え、その瞳を覗き込む。
「わかったかな? タイミングを間違えるな」
ゆっくりと立ち上がった時紡ぎはそのままシェスティンに向き合った。
「シェスティ、剣を」
「その名で呼ぶな!」
ぴりぴりとしたシェスティンの一喝に、時紡ぎはきょとんと不思議そうに首を傾げた。それから両手のひらを確かめるように自らを見下ろし、ふふ、と可笑しそうに笑う。
「そう。だめか。では、シェスティン、剣を構えて」
「何をさせる」
「私がやってもいいけど、君の手で決着をつけた方がいいかと思って」
「決着……?」
黒猫がととっとシェスティンの前に出た。
『最後まで付き合うって言ってたしね!』
ワクワクしているような顔の黒猫と静かに見守る時紡ぎに、シェスティンは戸惑う。剣を構えるということは、それを振るうということではないのか。彼をこれ以上傷つけるのは、危ないのではないか。そういう思いがどうしても離れない。
「どうしても構えたくないというのなら、腕は下ろしていてもいい。そのまま水平に持って……剣先は少し上向きがいいかな」
「なんだ……どうすれば、最後の呪いは解けるんだ……本当に、解けるのか?」
言われた通りに剣を持つシェスティンの手が震えた。
「解けるよ。それは多分、彼の方が解ってる。ひとつの体に魂はひとつ。じゃあ、何故彼らは二人に見えるんだろう?」
「それは、呪い、で?」
眉を顰めて、シェスティンは時紡ぎを見た。
「呪いは二人を結びつけるもの。彼の体質を――まあ、それもこちらが少し手を加えたんだけど。ともかく、それを利用した。猫の姿をしているけれど、それは私の『時』を少し分けて造ったもの。染みついた記憶はあれど、魂はない。それを動かしている心臓をその剣で止めてやれば、残った時は私に戻る」
「え?」
『え? ……あ』
シェスティンが黒猫の声に視線を戻したときには、もうそれは空中にいた。澄んだ青い瞳と目が合って、彼女はとっさに剣を引こうとする。
「シェスティ、大丈夫。必要な工程だ」
引こうとした腕を時紡ぎに支えられる。意志を持っていた青い瞳からすぐにそれは消え、黒い瞳がただただ驚きに見開かれるのをシェスティンは身動きもとれずに眺めていた。
覚悟する前に嫌な感触が剣を握る手に伝わってくる。
『ど……して……』
「元々、そういう役割だった。造った『私』は気付いていなかったかもしれないけど」
シェスティンの耳元で聞こえるのは、確かに時紡ぎの声で、姿で。けれど、その雰囲気はアルフになろうとした彼とは違う。
剣を伝う血が彼女の手元に届く前に、黒猫の黒い瞳は光を失い、その身体はそのまま剣ごと淡い光を放ち始めた。
緊張に固まっていた柄を握る拳に時紡ぎの掌が重なり、シェスティンの指はひとつ、またひとつと開かれていく。すべての指が離れた時、淡い光はもう眩しいくらいになっていて、シェスティンは時紡ぎに引きずられるように後退した。
「これで……解けた、のか?」
「呪いはね。彼の時が尽きていなければいいんだけど」
目を細めて光を覗き込んでいたシェスティンは、その言葉に振り返って時紡ぎの胸ぐらを掴み上げた。
「どういう意味だ」
「黒猫は言ってなかったか? あの体で彼の『時』が尽きてしまえば、そこまでだ。わずかでも残っていたのなら、無傷の体に戻れるのだから残りの時を生きていけるだろう。シェスティ、君は――」
頬に添えられた時紡ぎの手を振り払い、シェスティンは彼から距離をとる。
「もういい。彼の呪いが解けたなら、彼を連れてここを出る」
「……まだやることは残ってるよ」
「何が?」
突っかかるシェスティンの後ろで眩しかった光が光量を弱めた。思わず振り返った彼女の目の前で光はどんどん収まっていく。中から現れたのは、俯せに倒れている裸身の男だった。長めのアッシュブロンドは乱れていて顔が確認できない。月明かりで見ただけのシェスティンには、それがスヴァットの本当の姿かどうか自信がなかった。
それでもぴくりとも動かない様子にいてもたってもいられなくなり、彼女は駆け寄って背中に耳を当てる。弱々しい鼓動は今にも止まってしまいそうだった。
「馬鹿! スヴァット! ちゃんと、生き返れ!」
握った拳でその背を思いっきり殴りつけてやる。
ごふっと俯せた口から気体を吐き出すと、彼はそのまましばらく咳き込み、体を心待ち丸めた。
「…………しぬ」
「死ぬな!」
ひでぇ、と言ったようにも聞こえたが、微か過ぎて定かではない。
男は顔を横に向け、ゆるゆると自分の手をその前に持っていくと、表にして裏にしてじっくりと眺めはじめた。
ばさりとその裸体に黒いものが掛けられる。いつの間にか近付いた時紡ぎが自らのローブを脱いで男に掛けていた。
「連れ帰るにしてもしばらくは動かせない。死にかけた影響は多分にあるからな」
細身の体をぴたりとした黒い服が覆っている。少年のような姿は多少背が伸びたかと思うもののほとんど変わった様子がなく、瞳を覆い隠すほどの長さの前髪も、あの時と違わぬ長さに思えた。その髪の中から黒い瞳がシェスティンを見つめている。
「シェスティン、このままではいつまでも同じことを繰り返すだけだ。彼と戻っても彼と暮らせるわけでもない」
「……だから、ここに居ろと?」
「そうだな。ここに居れば、少なくとももう誰の時も背負わなくて済む。会うことは叶わないが、気になる人を見守ることもできる」
一瞬、トーレやモーネ、ラヴロの姿がシェスティンの頭を過ぎる。それぞれと約束したことも。
「まだ、やり残したことが……」
それは、彼女にしては消極的な言葉だった。傍にいればいるほど、彼らの時を奪う確率は高くなる。いっときの激情で国の全てを失うことになったのは自分のせいだと、どうせ彼を失うのならあの時大人しく時紡ぎについて行けば、少なくとも国の皆は救えたのに……王女の立場を忘れて、ひとりの男に固執した、これは罰なのだという思いはずっとシェスティンを苛んできた。
それでも、目の前の少年の姿をしたものを彼女は許せない。彼と二人で残りの時間を過ごすなんて、きっと出来ないだろう。
「……聞くな聞くな」
まだ弱々しくはあったが、その声はちゃんとシェスティンの耳にも届いた。俯せで倒れていた男が、のろのろと身体を起こして座り込み、胡坐をかいた下半身に黒のローブを適当に手繰り寄せて被せている。
髪の毛を鬱陶しそうにかきあげると、自分の膝に肘を乗せ、頬杖をついた。
「こいつが、あんたを呪ってるんだろ? んなのと一緒になんて、いられねぇよな」
「呪ったわけじゃない」
「呪いと一緒だろ? ご丁寧に、長くいるほど彼女が欲しくなる。そういう誘導をしておいて、誰にも渡さないなんて歪んでる」
「
「他人事みたいだな」
男はひとつ肩で大きく息を吐いた。しんどそうではあるが、喋っているうちに調子が出てきたのか声だけはしっかりしてきていた。
「
シェスティンは眉を顰める。
「……あなたは……誰なんだ?」
時紡ぎはにっこりと笑った。そうして笑うと綺麗な顔がより幼く見える。
「もう、誰でもない。でも、これが終わったら私もあるべき『時』に戻るよ」
「胡散臭いね」
「だよね」
くすくすと笑う時紡ぎを、黒猫だった男とシェスティンは何とも言えない表情で見ていた。
「で? じゃあ、どうする? このまま戻れば君も、他の誰かも遠からず彼女の『時』になるよ? そうしたいっていうなら別に止めないけど……」
「スヴァットはもう自由だ。ワタシに関わらずにやっていく。そうだろ?」
半分懇願するようなシェスティンに、男は軽く溜息を吐いた。
「リオ」
「……ん?」
「名前。もう、猫じゃない」
「ああ……うん…………何だって?」
「リ・オ。覚えられないような長さじゃないだろ」
困惑したようなシェスティンの顔に、男は半眼になった。
「すまない。思わぬ話になったから……えっと、リオ?」
ひとつふたつ頷いて、男は彼女から目を逸らした。
「もちろん、勝手にやらせてもらうさ。勝手にね」
「――と、彼も言ってる。トーレにもなるべく長い時間は会わないようにする。今までと同じように各地を回っていれば、そうそう不幸も起こらないはずだ。原因が解っていれば対処はできる」
少し俯いたシェスティンの目の端に、屈んで落ちていたアルフの剣を拾い上げる時紡ぎが映り込んだ。ビュッと風を切る音に反射的に腰に手を伸ばす。
時紡ぎはその切っ先を座り込む男にぴたりと向けた。
「やめろ」
シェスティンは口ではそう言いながら、剣を抜くのを躊躇った。
剣を握る彼の立ち姿が、とてもよく似ていたから。
「
「なぁ、それは俺を牽制してんの? それとも、助けようとしてんの?」
男は頬杖をついたまま唇の端を吊り上げて時紡ぎを見上げていた。
「両方、かな。その軽さは時々鼻につくね。遺伝って怖いな」
「遺伝?」
男は眉を顰める。
「隔世遺伝ってあるだろう? 君が今までで一番濃く出て、その上に幸運体質が重なってた。見習いとはいえ、騎士の訓練を受けるまでいけたのは君だけだ。まあ、お喋りもしっかり引き継いでるみたいだけど」
時紡ぎの苦笑に男は目を泳がせた。
「何の、話だ? 誰の、遺伝だって?」
「その瞳、他の家族も?」
「いや……うちには時々出るんだって……何代かにひとり。それが、証拠なんだって爺さんが……代々商人じゃなくて騎士になりたくて、でもそっちの才能はからっきしで、誰もなれたことがなかったって、補欠も補欠で、試験当日流行り病で数人休んでやっと入れたような俺をすごく喜んでくれて……でも、一年もいられなかった。人の多い所は呪いも多くて……なんだ? それも、あんたが関係してんのか?!」
「手を加えたのは呪いを寄せるところだけだよ。他の、血が濃く出てそうな者にも試したけど、上手くいかなかった。だいたいは呪いに負けてしまうんだ。血が途切れないようにあれもこれもは試せないし、結構苦労したんだよ」
「何のために!」
思わず立ち上がりかけて、男の体はぐらりと傾いだ。時紡ぎは剣を引いてシェスティンを振り返り、その剣を今度は彼女の目の前に突き付ける。
「決まってる。彼女のために」
不意を突かれて、シェスティンはその切っ先を見つめたまま動けなかった。
「シェスティ、死ねないことに頼りすぎだ。それではこの先が心配だ。ちゃんと、思い出して。抜刀、拝礼、構えたら?」
「――よく、見ること。呼吸……視線……筋肉の動き……」
思わず答えて、シェスティンは頭をひとつ振った。ずっとひっかかってる、でも確信しきれない答え。
「……待ってくれ。アルフ――なのか? でも、あの時、彼も言った。『記憶も共有できる』と」
「うん。だから、『誰でもない』」
シェスティンの顔が哀しげに歪む。
「あの時、しがみついてた体から追い出されて、咄嗟に
「……アルフ……アルフ、ごめん。ワタシはアルフを――みんなを……」
「シェスティ、君を守ることも出来なかったのは私だ。それでも君は生きていてくれた。それしか出来なかったのだとしても」
一歩、黒ずくめの少年に近付いてシェスティンはそこで動きを止める。どんなにそれらしいことを言われても、彼の容姿が彼女をそれ以上彼に近づけさせなかった。
静かに笑った時紡ぎは「昔話をしよう」と彼女に突き付けた剣を下ろして言った。
糸車はからからと誰も回していないのにひとりでに回り、何かを紡いでいる。きらりきらりと細い糸のようなものが時折光を反射するので、それが何かを紡いでいるのだと分かるけれども、それはシェスティンの知っているどの繊維とも違う物のようだった。
場違いな糸車の置かれた台にそっと手を添えて、時紡ぎはシェスティンを見ていた。静かに静かに。
『ねぇ、どうするんだっけ?』
とことこと足元に纏わりつく黒猫が首を傾げる様子に、時紡ぎは視線を移し、ゆっくりと瞬いた。
次に開いた瞳には光が戻っていて、閉じられたままだった唇も小さく開いて吐息が漏れる。まるで、久しぶりに呼吸したかのように。
「忘れているなら、もうひとりと交代すればいい。彼は知ってる」
「ダメだ! スヴァットは……もう、時が……」
思わず口に出て、シェスティンはひたりと戻った視線に口を噤む。
そのまま屈み込んだ時紡ぎは、黒猫の腹の傷を見て少しだけ眉を顰めた。
「ああ……彼を人質にとってるのか。ここなら、あちらよりはもう少し余裕があると思うが……」
時紡ぎは黒猫の顎に指を添え、その瞳を覗き込む。
「わかったかな? タイミングを間違えるな」
ゆっくりと立ち上がった時紡ぎはそのままシェスティンに向き合った。
「シェスティ、剣を」
「その名で呼ぶな!」
ぴりぴりとしたシェスティンの一喝に、時紡ぎはきょとんと不思議そうに首を傾げた。それから両手のひらを確かめるように自らを見下ろし、ふふ、と可笑しそうに笑う。
「そう。だめか。では、シェスティン、剣を構えて」
「何をさせる」
「私がやってもいいけど、君の手で決着をつけた方がいいかと思って」
「決着……?」
黒猫がととっとシェスティンの前に出た。
『最後まで付き合うって言ってたしね!』
ワクワクしているような顔の黒猫と静かに見守る時紡ぎに、シェスティンは戸惑う。剣を構えるということは、それを振るうということではないのか。彼をこれ以上傷つけるのは、危ないのではないか。そういう思いがどうしても離れない。
「どうしても構えたくないというのなら、腕は下ろしていてもいい。そのまま水平に持って……剣先は少し上向きがいいかな」
「なんだ……どうすれば、最後の呪いは解けるんだ……本当に、解けるのか?」
言われた通りに剣を持つシェスティンの手が震えた。
「解けるよ。それは多分、彼の方が解ってる。ひとつの体に魂はひとつ。じゃあ、何故彼らは二人に見えるんだろう?」
「それは、呪い、で?」
眉を顰めて、シェスティンは時紡ぎを見た。
「呪いは二人を結びつけるもの。彼の体質を――まあ、それもこちらが少し手を加えたんだけど。ともかく、それを利用した。猫の姿をしているけれど、それは私の『時』を少し分けて造ったもの。染みついた記憶はあれど、魂はない。それを動かしている心臓をその剣で止めてやれば、残った時は私に戻る」
「え?」
『え? ……あ』
シェスティンが黒猫の声に視線を戻したときには、もうそれは空中にいた。澄んだ青い瞳と目が合って、彼女はとっさに剣を引こうとする。
「シェスティ、大丈夫。必要な工程だ」
引こうとした腕を時紡ぎに支えられる。意志を持っていた青い瞳からすぐにそれは消え、黒い瞳がただただ驚きに見開かれるのをシェスティンは身動きもとれずに眺めていた。
覚悟する前に嫌な感触が剣を握る手に伝わってくる。
『ど……して……』
「元々、そういう役割だった。造った『私』は気付いていなかったかもしれないけど」
シェスティンの耳元で聞こえるのは、確かに時紡ぎの声で、姿で。けれど、その雰囲気はアルフになろうとした彼とは違う。
剣を伝う血が彼女の手元に届く前に、黒猫の黒い瞳は光を失い、その身体はそのまま剣ごと淡い光を放ち始めた。
緊張に固まっていた柄を握る拳に時紡ぎの掌が重なり、シェスティンの指はひとつ、またひとつと開かれていく。すべての指が離れた時、淡い光はもう眩しいくらいになっていて、シェスティンは時紡ぎに引きずられるように後退した。
「これで……解けた、のか?」
「呪いはね。彼の時が尽きていなければいいんだけど」
目を細めて光を覗き込んでいたシェスティンは、その言葉に振り返って時紡ぎの胸ぐらを掴み上げた。
「どういう意味だ」
「黒猫は言ってなかったか? あの体で彼の『時』が尽きてしまえば、そこまでだ。わずかでも残っていたのなら、無傷の体に戻れるのだから残りの時を生きていけるだろう。シェスティ、君は――」
頬に添えられた時紡ぎの手を振り払い、シェスティンは彼から距離をとる。
「もういい。彼の呪いが解けたなら、彼を連れてここを出る」
「……まだやることは残ってるよ」
「何が?」
突っかかるシェスティンの後ろで眩しかった光が光量を弱めた。思わず振り返った彼女の目の前で光はどんどん収まっていく。中から現れたのは、俯せに倒れている裸身の男だった。長めのアッシュブロンドは乱れていて顔が確認できない。月明かりで見ただけのシェスティンには、それがスヴァットの本当の姿かどうか自信がなかった。
それでもぴくりとも動かない様子にいてもたってもいられなくなり、彼女は駆け寄って背中に耳を当てる。弱々しい鼓動は今にも止まってしまいそうだった。
「馬鹿! スヴァット! ちゃんと、生き返れ!」
握った拳でその背を思いっきり殴りつけてやる。
ごふっと俯せた口から気体を吐き出すと、彼はそのまましばらく咳き込み、体を心待ち丸めた。
「…………しぬ」
「死ぬな!」
ひでぇ、と言ったようにも聞こえたが、微か過ぎて定かではない。
男は顔を横に向け、ゆるゆると自分の手をその前に持っていくと、表にして裏にしてじっくりと眺めはじめた。
ばさりとその裸体に黒いものが掛けられる。いつの間にか近付いた時紡ぎが自らのローブを脱いで男に掛けていた。
「連れ帰るにしてもしばらくは動かせない。死にかけた影響は多分にあるからな」
細身の体をぴたりとした黒い服が覆っている。少年のような姿は多少背が伸びたかと思うもののほとんど変わった様子がなく、瞳を覆い隠すほどの長さの前髪も、あの時と違わぬ長さに思えた。その髪の中から黒い瞳がシェスティンを見つめている。
「シェスティン、このままではいつまでも同じことを繰り返すだけだ。彼と戻っても彼と暮らせるわけでもない」
「……だから、ここに居ろと?」
「そうだな。ここに居れば、少なくとももう誰の時も背負わなくて済む。会うことは叶わないが、気になる人を見守ることもできる」
一瞬、トーレやモーネ、ラヴロの姿がシェスティンの頭を過ぎる。それぞれと約束したことも。
「まだ、やり残したことが……」
それは、彼女にしては消極的な言葉だった。傍にいればいるほど、彼らの時を奪う確率は高くなる。いっときの激情で国の全てを失うことになったのは自分のせいだと、どうせ彼を失うのならあの時大人しく時紡ぎについて行けば、少なくとも国の皆は救えたのに……王女の立場を忘れて、ひとりの男に固執した、これは罰なのだという思いはずっとシェスティンを苛んできた。
それでも、目の前の少年の姿をしたものを彼女は許せない。彼と二人で残りの時間を過ごすなんて、きっと出来ないだろう。
「……聞くな聞くな」
まだ弱々しくはあったが、その声はちゃんとシェスティンの耳にも届いた。俯せで倒れていた男が、のろのろと身体を起こして座り込み、胡坐をかいた下半身に黒のローブを適当に手繰り寄せて被せている。
髪の毛を鬱陶しそうにかきあげると、自分の膝に肘を乗せ、頬杖をついた。
「こいつが、あんたを呪ってるんだろ? んなのと一緒になんて、いられねぇよな」
「呪ったわけじゃない」
「呪いと一緒だろ? ご丁寧に、長くいるほど彼女が欲しくなる。そういう誘導をしておいて、誰にも渡さないなんて歪んでる」
「
彼
は彼女を死なせたくなかった。たぶん、永遠に。確かに、最後は嫉妬も入っていたに違いないけど、彼女が人と関わっていくのなら、彼女が悪者に襲われる確率より誰かに見初められる確率の方がずっと高い。そんな奴等なら、彼女のために『時』を献上できることは本望だろうって、思ったのかもしれない。彼女から離れる選択のできる余地を残してるのだから」「他人事みたいだな」
男はひとつ肩で大きく息を吐いた。しんどそうではあるが、喋っているうちに調子が出てきたのか声だけはしっかりしてきていた。
「
それ
は最後に付け加えられた。私には推測しか出来ない」シェスティンは眉を顰める。
「……あなたは……誰なんだ?」
時紡ぎはにっこりと笑った。そうして笑うと綺麗な顔がより幼く見える。
「もう、誰でもない。でも、これが終わったら私もあるべき『時』に戻るよ」
「胡散臭いね」
「だよね」
くすくすと笑う時紡ぎを、黒猫だった男とシェスティンは何とも言えない表情で見ていた。
「で? じゃあ、どうする? このまま戻れば君も、他の誰かも遠からず彼女の『時』になるよ? そうしたいっていうなら別に止めないけど……」
「スヴァットはもう自由だ。ワタシに関わらずにやっていく。そうだろ?」
半分懇願するようなシェスティンに、男は軽く溜息を吐いた。
「リオ」
「……ん?」
「名前。もう、猫じゃない」
「ああ……うん…………何だって?」
「リ・オ。覚えられないような長さじゃないだろ」
困惑したようなシェスティンの顔に、男は半眼になった。
「すまない。思わぬ話になったから……えっと、リオ?」
ひとつふたつ頷いて、男は彼女から目を逸らした。
「もちろん、勝手にやらせてもらうさ。勝手にね」
「――と、彼も言ってる。トーレにもなるべく長い時間は会わないようにする。今までと同じように各地を回っていれば、そうそう不幸も起こらないはずだ。原因が解っていれば対処はできる」
少し俯いたシェスティンの目の端に、屈んで落ちていたアルフの剣を拾い上げる時紡ぎが映り込んだ。ビュッと風を切る音に反射的に腰に手を伸ばす。
時紡ぎはその切っ先を座り込む男にぴたりと向けた。
「やめろ」
シェスティンは口ではそう言いながら、剣を抜くのを躊躇った。
剣を握る彼の立ち姿が、とてもよく似ていたから。
「
勝手に
どうするんだい? 私も
彼女をただ悲しませるのは許せない。彼女に救ってもらった命を無駄にするんじゃない」「なぁ、それは俺を牽制してんの? それとも、助けようとしてんの?」
男は頬杖をついたまま唇の端を吊り上げて時紡ぎを見上げていた。
「両方、かな。その軽さは時々鼻につくね。遺伝って怖いな」
「遺伝?」
男は眉を顰める。
「隔世遺伝ってあるだろう? 君が今までで一番濃く出て、その上に幸運体質が重なってた。見習いとはいえ、騎士の訓練を受けるまでいけたのは君だけだ。まあ、お喋りもしっかり引き継いでるみたいだけど」
時紡ぎの苦笑に男は目を泳がせた。
「何の、話だ? 誰の、遺伝だって?」
「その瞳、他の家族も?」
「いや……うちには時々出るんだって……何代かにひとり。それが、証拠なんだって爺さんが……代々商人じゃなくて騎士になりたくて、でもそっちの才能はからっきしで、誰もなれたことがなかったって、補欠も補欠で、試験当日流行り病で数人休んでやっと入れたような俺をすごく喜んでくれて……でも、一年もいられなかった。人の多い所は呪いも多くて……なんだ? それも、あんたが関係してんのか?!」
「手を加えたのは呪いを寄せるところだけだよ。他の、血が濃く出てそうな者にも試したけど、上手くいかなかった。だいたいは呪いに負けてしまうんだ。血が途切れないようにあれもこれもは試せないし、結構苦労したんだよ」
「何のために!」
思わず立ち上がりかけて、男の体はぐらりと傾いだ。時紡ぎは剣を引いてシェスティンを振り返り、その剣を今度は彼女の目の前に突き付ける。
「決まってる。彼女のために」
不意を突かれて、シェスティンはその切っ先を見つめたまま動けなかった。
「シェスティ、死ねないことに頼りすぎだ。それではこの先が心配だ。ちゃんと、思い出して。抜刀、拝礼、構えたら?」
「――よく、見ること。呼吸……視線……筋肉の動き……」
思わず答えて、シェスティンは頭をひとつ振った。ずっとひっかかってる、でも確信しきれない答え。
「……待ってくれ。アルフ――なのか? でも、あの時、彼も言った。『記憶も共有できる』と」
「うん。だから、『誰でもない』」
シェスティンの顔が哀しげに歪む。
「あの時、しがみついてた体から追い出されて、咄嗟に
空いた体
に入り込んだんだ。すぐにここに転送されて、呆然となった。何もかも解らない事だらけだったから。薄ぼんやりとやらなきゃならないことがあると解っていて、どうすればいいのか分からない。途方に暮れていたら、無意識の時には体が勝手に動くことに気が付いた。だから私は深く深く沈むことにしたんだ」「……アルフ……アルフ、ごめん。ワタシはアルフを――みんなを……」
「シェスティ、君を守ることも出来なかったのは私だ。それでも君は生きていてくれた。それしか出来なかったのだとしても」
一歩、黒ずくめの少年に近付いてシェスティンはそこで動きを止める。どんなにそれらしいことを言われても、彼の容姿が彼女をそれ以上彼に近づけさせなかった。
静かに笑った時紡ぎは「昔話をしよう」と彼女に突き付けた剣を下ろして言った。