5-5 残されたもの
文字数 4,734文字
もしかして、自分がたかがキスを躊躇ったせいで、またアルフとちゃんとした別れの言葉も交わせなかったのだろうかと、シェスティンの顔は曇る。
「まだ、ここにいる」
そっと自分の胸に手を置き、リオが静かにそう告げる。本当に? と彼女の口が動く前に、彼は続けた。
「……って言ったら信じる?」
乗っていた馬に急制動をかけられたような、目の前の食事を取り上げられたような、そんな気分になってシェスティンは彼を恨めしげに睨みつけた。
「もったいぶらないで教えてくれ」
「……やだ。教えない」
「え? は? なんで!」
「彼が残ってるなら、シェスは俺のものになる?」
リオのへらっとした笑い顔に、シェスティンは顔を顰めた。
「なんだそれ」
「潜ってるのが得意な彼がもうしばらく俺と一緒にいるなら、子供を作れば彼があんたの子として生まれ直してくるかもしれない。そういう可能性があるなら、シェスはそうする?」
リオの胸の奥を覗きこむように視線を移して、シェスティンはしばし考え込んだ。
アルフを、自分の子として。次の生を与えられるのは、魅力的なような気もする。
「アルフは――少し休みたいかもしれない。だから、そういうことも聞けるなら……!」
「じゃあ、やっぱり教えない。卑怯かもしれないけど、可能性の欠片でもあるなら今はそれにすがっとく」
おもむろにリオは彼女を抱きしめた。
「シェスティ」
耳元で囁く声は本当にアルフと似ている。頬に当たる彼の柔らかな髪からはスヴァットの匂いがした。
「……卑怯だ」
「うん。嫌われてもいいんだ。彼がまだいると思う方があんたも心強いだろう?」
「教えて」
「教えない。好きな方を信じればいい」
「じゃあ、彼はもう行ったんだ。彼の新たな『時』を生きる為に……」
身体を離すリオは、初めからその答えを知っていた様な顔をしていた。
「そっち」
「問題でも?」
「ねーよ。ご自由に。じゃあ、それはそれでお終い」
「え?」
あまりに軽く切り上げられて、シェスティンはなんだか余計に気になり始めた。
「待っ……なんで……ちゃんと、礼を言いたいだけなのに」
「届いてるさ。大丈夫」
「どうして言い切れるんだ」
「大丈夫だよ。シェス」
柔らかく微笑 うリオはその瞬間だけ年相応に大人びて見え、掴みどころがない。すぐに締まりのないへらりとした笑顔を張り付けると、彼はシェスティンの手を取って歩き出した。
「さあ、戻ろう。思い出したけど、シェスは
シェスティンは面食らう。
「な、何言ってるんだ! ワタシが付き合うと言ったのはスヴァットに、で……!」
「
唖然としながら彼の後に続く彼女の耳に、楽しそうに笑う男の声がアルフの声と重なって聞こえた気がした。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
小さな円の中で、シェスティンは不思議な気分でリオを見ていた。
いつの間にか出現していた、小さなテーブルのようなものに四角いボタンが沢山ついている奇妙なものを、彼はするすると操作している。
とーん、と最後にひとつのボタンを叩きつけると、彼は小走りに円に入り込み、シェスティンの正面から腰に腕を回した。
「……ちょっ」
「狭いんだから、我慢我慢」
彼の軽い調子は本当に仕方ないのか、わざとそうしてるのか判別がつかない。反射的に押し退けようとしたのだが、次の瞬間に円から青白い光が湧き出してきてシェスティンは動きを止める。来た時と同じように、光の奔流は彼女達を瞬く間に元の地下室へと移動させた。
光が収まってもしばらくリオは彼女を離さなかった。シェスティンがしびれを切らして彼を押しやるまで、名残惜しむように動かなかった。
「戻っても、大丈夫だって証明されたろ?」
「そうだな!」
若干不機嫌に地上への階段を登るシェスティンに、リオは後ろからついて行く。
「……リオも、アルフの記憶を継いだのか?」
見たことも無い物を操作する姿を思い浮かべて、前を向いたまま彼女は訊いた。
「そういう訳じゃない。俺なんて、言っても血は薄いんだろ。必要なとこだけ、一夜漬けで……無理矢理、頭に、詰め込まれた……かん、じ……」
答える声は徐々に遠くなり、切れ切れになっていく。シェスティンが振り返ると、リオの姿はすっかり見えなくなっていた。
彼女がしばらく戻るとカーブを一周したくらいのところでリオがへたり込んでいる。
「……死にかけたんだったな」
軽い調子にすっかり忘れていたが、長い登りはきつかったらしい。
「肩を、貸そうか?」
本当にもう大丈夫なら、そのくらいはしてもいい。
差し出されたシェスティンの手を一瞥して、彼は目を逸らした。
「それは、ちょっと、遠慮したい。休みながら行くから、先に行ってていいぞ」
先程まではべたべた触れてたくせに、何が違うというのか。喜んで飛びついてくると予想していたシェスティンはリオという男をまだまだ掴めないでいた。
彼女はその場にすとんと腰を下ろす。
「先に行ったって、どうせ待つのは一緒じゃないか」
「置いていくチャンスだぞ」
それが、ここに、というよりはこれからの生活も含めて、というように聞こえて、シェスティンは答えに迷う。
「……まあ、巻き込んだ責任もあるし……体力が戻るくらいまでは、面倒見てもいい」
「……やっぱり、用心棒いるな。この調子で誰も彼もにつけこまれちゃ、敵わない」
苦笑して喉の奥で笑うリオをシェスティンは呆れて睨みつけた。
「お前が一番つけこんでるじゃないか」
「そうだな。ライバルが多くて」
よっと立ち上がって、リオは先に階段を登り始めた。
シェスティンは彼の後ろからゆっくりとついて行く。
「毛皮もないしな」
「そ……」
彼女は慌てて言葉を飲み込んだ。ちらりと振り返るリオから視線を逸らす。
言わない方がいい。頬に当たった髪がまるでスヴァットのようだったから、また触れたいなどと。彼のことを良く知らないうちは、多分。
休み休み階段を登り、外の空気を感じるようになると、やがて小さな四角い空が見えた。
外に出て新鮮な空気を吸い込みながら空を見上げる。太陽は高い位置にあり、昼くらいだろうということがわかった。ぽかぽかとした日差しは先程までの出来事が夢だったのではないかと思わせる。
半信半疑ながら、シェスティンは空を見つめて心の中でラヴロを呼んだ。
「――来そうか?」
「わからない。来なかったら、戻って一晩明かしたほうがいいかもしれない」
げ、とリオは顔を顰めて枯草の上にどっかりと腰を下ろす。階段は本当にきつかったようだ。
何気なく辺りを見渡していた彼は、やがて角度を変えてどこか一点を見ているようだった。
「何か?」
「んー? いや、なんか光った、ような」
まだ何か仕掛けでもあるのかと、緊張するシェスティンに比べて、リオはお気楽に這いずって枯草をかき分け始めた。
「……おい」
枯草の奥に腕を突っ込んでいるその姿に、猫が抜けてないんじゃないかと本気で心配になるシェスティンだったが、やがて彼はにんまりと笑って握り拳を抜き出した。
「虫じゃないだろうな?」
「固いぞ」
好奇心に負けて恐る恐る覗き込むシェスティンに、リオはゆっくりとその拳を開いていった。
小さくて、白いもの。
片翼を失った馬の像だった。
シェスティンは小さく息を呑む。
「あんたのか?」
彼女の様子に、リオはその手を差し出しながら聞いた。
「……最後の日に、子供にあげたものだ」
少し辛そうに目を細めるシェスティンに、リオはちょっと考えてから残っていたもう片方の翼も無造作に折ってしまった。
「……お、まっ」
「ほら、白馬に生まれ変わった。天馬じゃなくたって、幸せにはなれる」
彼女の手をとって、小さな白馬をそこに乗せる。
わかるような、わからないような。でも、その像は確かに片翼であるよりは幸せそうに見えた。
リオはそのまま、もうそれに興味を失ったかのようにまたどっかりと座り込む。
シェスティンはどうするべきかしばらく考えて、結局地下への階段を数段降りたところにそれを置いた。入口はすぐにまた草に覆われて、ひっそりと雨風をしのいでくれることだろう。
数年しか生きられなかった彼も、出来るならまた新しく彼の時間を生きられればいいと彼女は願っていた。
小さなくしゃみが聞こえて、シェスティンは振り返る。日差しは確かに暖かいが、彼は腰布一枚と変わりない姿だ。地下やあの不思議な空間は暑さも寒さも感じなかったけれど、流石にこのままだと風邪でもひきかねない。
自分のローブを脱いで、シェスティンはリオに押し付けた。
「少し、階段を下りたとこの方が暖かいかもしれない」
「あん? いいよ。もう登りたくねぇ。これを脱いだら、あんたこそ寒いだろう」
「ワタシは平気だ」
笑って言うシェスティンに、リオは眉を顰めて見せた。
「もう忘れてる。あんたも、病気になるんだって」
「え? あ……いや、でも、あなたよりは」
「……じゃあ、ここに座れよ」
ローブを肩から掛けたリオに腕を引かれたが、シェスティンは踏みとどまった。彼はにやりと笑う。
「一緒にいた方が暖かいぞ」
「い、いい! 大丈夫だ」
隣ならまだしも、彼が指したのは自分の膝の間だった。他の選択肢が全部潰されたら考えないこともないが、彼女はそこまで切羽詰ってはいない。彼を階段から蹴り落とす選択だってまだできる。
「遠慮すんなって」
へらっと笑う彼に影が落ちた。
二人がほぼ同時に空を見上げると、黒っぽいものが真直ぐに下りてくるのが見える。
「……早いな」
感心してるのか、呆れてるのか、リオの呟きに思わずシェスティンも頷き返していた。地の底だって行くと言ったのは、比喩ではなかったかもしれない。向こうで呼ぶようなことにならなくて良かったと、彼女は少しほっとする。
ラヴロが着地の際に翼で起こす風に飛ばされぬよう、シェスティンは足を開いて踏ん張った。短くなった髪が踊り、毛先が顔を叩く。
『無事か、シェス!』
その、焦りを含んだ声にシェスティンは首を傾げた。
「この通り、だが。ありがとう、来てくれて」
少し乱れた髪を整えてそう言うと、ラヴロはぎょっとしたように目を見開き、ずいとその瞳を寄せた。
『……シェス……その、髪』
「うん。ワタシも解放された。もう、次は戻って来られない。ごめん、ラヴロ。名を返して欲しいなら、ちょっと待ってくれ。まだもう少しやらなきゃならないことが……」
しばし呆然としていたラヴロは、やがて後ろに座り込む男に気が付いた。
『……猫もどき、か。あっちの方が強かったんじゃないか? 呪いは綺麗になってるようだが』
「あれは俺じゃないし。まぁ、不甲斐ないと言われれば、そうだ」
『シェス、こんなのを傍に置くつもりか?』
「え? いや、しばらくはそうなりそうだが……」
ラヴロは不機嫌そうに荒い鼻息を吹き出す。
『シェスが言うならそれも運んでやる。だが、その代わり我の願いも聞け』
「ワタシにできることなら」
『言うたな。忘れるな。とりあえず戻るぞ。ちびが心配してる』
「ちび……? モーネか? その呼び方、怒るだろう……心配と言ったって、昨日の今日じゃないか。一晩居なかったくらいで大袈裟だな」
『そっちこそ何を言ってる? あれから七日は経ってるのだぞ』
へぇ、と間抜けな返事をしてしまってから、シェスティンは追ってその意味を理解した。
「七日?!」
彼女はあわあわしながら、リオを振り返る。彼も目を見開いて小さく首を振っていた。二人とも、全く気付いていなかったのだ。時間の流れが違うというのは、こういうことなのか。シェスティンの心臓は今更ながら早鐘を打つのだった。
「まだ、ここにいる」
そっと自分の胸に手を置き、リオが静かにそう告げる。本当に? と彼女の口が動く前に、彼は続けた。
「……って言ったら信じる?」
乗っていた馬に急制動をかけられたような、目の前の食事を取り上げられたような、そんな気分になってシェスティンは彼を恨めしげに睨みつけた。
「もったいぶらないで教えてくれ」
「……やだ。教えない」
「え? は? なんで!」
「彼が残ってるなら、シェスは俺のものになる?」
リオのへらっとした笑い顔に、シェスティンは顔を顰めた。
「なんだそれ」
「潜ってるのが得意な彼がもうしばらく俺と一緒にいるなら、子供を作れば彼があんたの子として生まれ直してくるかもしれない。そういう可能性があるなら、シェスはそうする?」
リオの胸の奥を覗きこむように視線を移して、シェスティンはしばし考え込んだ。
アルフを、自分の子として。次の生を与えられるのは、魅力的なような気もする。
「アルフは――少し休みたいかもしれない。だから、そういうことも聞けるなら……!」
「じゃあ、やっぱり教えない。卑怯かもしれないけど、可能性の欠片でもあるなら今はそれにすがっとく」
おもむろにリオは彼女を抱きしめた。
「シェスティ」
耳元で囁く声は本当にアルフと似ている。頬に当たる彼の柔らかな髪からはスヴァットの匂いがした。
「……卑怯だ」
「うん。嫌われてもいいんだ。彼がまだいると思う方があんたも心強いだろう?」
「教えて」
「教えない。好きな方を信じればいい」
「じゃあ、彼はもう行ったんだ。彼の新たな『時』を生きる為に……」
身体を離すリオは、初めからその答えを知っていた様な顔をしていた。
「そっち」
「問題でも?」
「ねーよ。ご自由に。じゃあ、それはそれでお終い」
「え?」
あまりに軽く切り上げられて、シェスティンはなんだか余計に気になり始めた。
「待っ……なんで……ちゃんと、礼を言いたいだけなのに」
「届いてるさ。大丈夫」
「どうして言い切れるんだ」
「大丈夫だよ。シェス」
柔らかく
「さあ、戻ろう。思い出したけど、シェスは
最後まで
俺に付き合ってくれるんだった。最後まで、よろしくな」シェスティンは面食らう。
「な、何言ってるんだ! ワタシが付き合うと言ったのはスヴァットに、で……!」
「
俺に
言っただろ? 約束は、守るんだよな?」唖然としながら彼の後に続く彼女の耳に、楽しそうに笑う男の声がアルフの声と重なって聞こえた気がした。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
小さな円の中で、シェスティンは不思議な気分でリオを見ていた。
いつの間にか出現していた、小さなテーブルのようなものに四角いボタンが沢山ついている奇妙なものを、彼はするすると操作している。
とーん、と最後にひとつのボタンを叩きつけると、彼は小走りに円に入り込み、シェスティンの正面から腰に腕を回した。
「……ちょっ」
「狭いんだから、我慢我慢」
彼の軽い調子は本当に仕方ないのか、わざとそうしてるのか判別がつかない。反射的に押し退けようとしたのだが、次の瞬間に円から青白い光が湧き出してきてシェスティンは動きを止める。来た時と同じように、光の奔流は彼女達を瞬く間に元の地下室へと移動させた。
光が収まってもしばらくリオは彼女を離さなかった。シェスティンがしびれを切らして彼を押しやるまで、名残惜しむように動かなかった。
「戻っても、大丈夫だって証明されたろ?」
「そうだな!」
若干不機嫌に地上への階段を登るシェスティンに、リオは後ろからついて行く。
「……リオも、アルフの記憶を継いだのか?」
見たことも無い物を操作する姿を思い浮かべて、前を向いたまま彼女は訊いた。
「そういう訳じゃない。俺なんて、言っても血は薄いんだろ。必要なとこだけ、一夜漬けで……無理矢理、頭に、詰め込まれた……かん、じ……」
答える声は徐々に遠くなり、切れ切れになっていく。シェスティンが振り返ると、リオの姿はすっかり見えなくなっていた。
彼女がしばらく戻るとカーブを一周したくらいのところでリオがへたり込んでいる。
「……死にかけたんだったな」
軽い調子にすっかり忘れていたが、長い登りはきつかったらしい。
「肩を、貸そうか?」
本当にもう大丈夫なら、そのくらいはしてもいい。
差し出されたシェスティンの手を一瞥して、彼は目を逸らした。
「それは、ちょっと、遠慮したい。休みながら行くから、先に行ってていいぞ」
先程まではべたべた触れてたくせに、何が違うというのか。喜んで飛びついてくると予想していたシェスティンはリオという男をまだまだ掴めないでいた。
彼女はその場にすとんと腰を下ろす。
「先に行ったって、どうせ待つのは一緒じゃないか」
「置いていくチャンスだぞ」
それが、ここに、というよりはこれからの生活も含めて、というように聞こえて、シェスティンは答えに迷う。
「……まあ、巻き込んだ責任もあるし……体力が戻るくらいまでは、面倒見てもいい」
「……やっぱり、用心棒いるな。この調子で誰も彼もにつけこまれちゃ、敵わない」
苦笑して喉の奥で笑うリオをシェスティンは呆れて睨みつけた。
「お前が一番つけこんでるじゃないか」
「そうだな。ライバルが多くて」
よっと立ち上がって、リオは先に階段を登り始めた。
シェスティンは彼の後ろからゆっくりとついて行く。
「毛皮もないしな」
「そ……」
彼女は慌てて言葉を飲み込んだ。ちらりと振り返るリオから視線を逸らす。
言わない方がいい。頬に当たった髪がまるでスヴァットのようだったから、また触れたいなどと。彼のことを良く知らないうちは、多分。
休み休み階段を登り、外の空気を感じるようになると、やがて小さな四角い空が見えた。
外に出て新鮮な空気を吸い込みながら空を見上げる。太陽は高い位置にあり、昼くらいだろうということがわかった。ぽかぽかとした日差しは先程までの出来事が夢だったのではないかと思わせる。
半信半疑ながら、シェスティンは空を見つめて心の中でラヴロを呼んだ。
「――来そうか?」
「わからない。来なかったら、戻って一晩明かしたほうがいいかもしれない」
げ、とリオは顔を顰めて枯草の上にどっかりと腰を下ろす。階段は本当にきつかったようだ。
何気なく辺りを見渡していた彼は、やがて角度を変えてどこか一点を見ているようだった。
「何か?」
「んー? いや、なんか光った、ような」
まだ何か仕掛けでもあるのかと、緊張するシェスティンに比べて、リオはお気楽に這いずって枯草をかき分け始めた。
「……おい」
枯草の奥に腕を突っ込んでいるその姿に、猫が抜けてないんじゃないかと本気で心配になるシェスティンだったが、やがて彼はにんまりと笑って握り拳を抜き出した。
「虫じゃないだろうな?」
「固いぞ」
好奇心に負けて恐る恐る覗き込むシェスティンに、リオはゆっくりとその拳を開いていった。
小さくて、白いもの。
片翼を失った馬の像だった。
シェスティンは小さく息を呑む。
「あんたのか?」
彼女の様子に、リオはその手を差し出しながら聞いた。
「……最後の日に、子供にあげたものだ」
少し辛そうに目を細めるシェスティンに、リオはちょっと考えてから残っていたもう片方の翼も無造作に折ってしまった。
「……お、まっ」
「ほら、白馬に生まれ変わった。天馬じゃなくたって、幸せにはなれる」
彼女の手をとって、小さな白馬をそこに乗せる。
わかるような、わからないような。でも、その像は確かに片翼であるよりは幸せそうに見えた。
リオはそのまま、もうそれに興味を失ったかのようにまたどっかりと座り込む。
シェスティンはどうするべきかしばらく考えて、結局地下への階段を数段降りたところにそれを置いた。入口はすぐにまた草に覆われて、ひっそりと雨風をしのいでくれることだろう。
数年しか生きられなかった彼も、出来るならまた新しく彼の時間を生きられればいいと彼女は願っていた。
小さなくしゃみが聞こえて、シェスティンは振り返る。日差しは確かに暖かいが、彼は腰布一枚と変わりない姿だ。地下やあの不思議な空間は暑さも寒さも感じなかったけれど、流石にこのままだと風邪でもひきかねない。
自分のローブを脱いで、シェスティンはリオに押し付けた。
「少し、階段を下りたとこの方が暖かいかもしれない」
「あん? いいよ。もう登りたくねぇ。これを脱いだら、あんたこそ寒いだろう」
「ワタシは平気だ」
笑って言うシェスティンに、リオは眉を顰めて見せた。
「もう忘れてる。あんたも、病気になるんだって」
「え? あ……いや、でも、あなたよりは」
「……じゃあ、ここに座れよ」
ローブを肩から掛けたリオに腕を引かれたが、シェスティンは踏みとどまった。彼はにやりと笑う。
「一緒にいた方が暖かいぞ」
「い、いい! 大丈夫だ」
隣ならまだしも、彼が指したのは自分の膝の間だった。他の選択肢が全部潰されたら考えないこともないが、彼女はそこまで切羽詰ってはいない。彼を階段から蹴り落とす選択だってまだできる。
「遠慮すんなって」
へらっと笑う彼に影が落ちた。
二人がほぼ同時に空を見上げると、黒っぽいものが真直ぐに下りてくるのが見える。
「……早いな」
感心してるのか、呆れてるのか、リオの呟きに思わずシェスティンも頷き返していた。地の底だって行くと言ったのは、比喩ではなかったかもしれない。向こうで呼ぶようなことにならなくて良かったと、彼女は少しほっとする。
ラヴロが着地の際に翼で起こす風に飛ばされぬよう、シェスティンは足を開いて踏ん張った。短くなった髪が踊り、毛先が顔を叩く。
『無事か、シェス!』
その、焦りを含んだ声にシェスティンは首を傾げた。
「この通り、だが。ありがとう、来てくれて」
少し乱れた髪を整えてそう言うと、ラヴロはぎょっとしたように目を見開き、ずいとその瞳を寄せた。
『……シェス……その、髪』
「うん。ワタシも解放された。もう、次は戻って来られない。ごめん、ラヴロ。名を返して欲しいなら、ちょっと待ってくれ。まだもう少しやらなきゃならないことが……」
しばし呆然としていたラヴロは、やがて後ろに座り込む男に気が付いた。
『……猫もどき、か。あっちの方が強かったんじゃないか? 呪いは綺麗になってるようだが』
「あれは俺じゃないし。まぁ、不甲斐ないと言われれば、そうだ」
『シェス、こんなのを傍に置くつもりか?』
「え? いや、しばらくはそうなりそうだが……」
ラヴロは不機嫌そうに荒い鼻息を吹き出す。
『シェスが言うならそれも運んでやる。だが、その代わり我の願いも聞け』
「ワタシにできることなら」
『言うたな。忘れるな。とりあえず戻るぞ。ちびが心配してる』
「ちび……? モーネか? その呼び方、怒るだろう……心配と言ったって、昨日の今日じゃないか。一晩居なかったくらいで大袈裟だな」
『そっちこそ何を言ってる? あれから七日は経ってるのだぞ』
へぇ、と間抜けな返事をしてしまってから、シェスティンは追ってその意味を理解した。
「七日?!」
彼女はあわあわしながら、リオを振り返る。彼も目を見開いて小さく首を振っていた。二人とも、全く気付いていなかったのだ。時間の流れが違うというのは、こういうことなのか。シェスティンの心臓は今更ながら早鐘を打つのだった。