3-2 黒猫に自由はない
文字数 5,272文字
スヴァットを懐に入れたまま、薬師は病院の中へと戻っていった。
「トーレさん、あの猫知ってるんですか?」
「いいや。みんな気にしてるから、追い払ってきたんだ」
「え? あら、ホント。いなくなってる」
会話もそこそこに、足早に建物内を進んで行く。
白衣の内側にいるスヴァットには、どこを歩いているのかもさっぱり分からない。大人しくしてろと言われたから息も潜めているが、時々かけられる声に耳を傾けてみれば、どうもこの薬師はよく知られた人物であるらしい。
○○の薬がどうの、××の調合がどうの、という仕事の話に混じって久しぶりだの、嫁はどうしただの、酒の誘いまでかけられていた。
どれも適当にあしらって、ようやくある一室まで辿り着くと、薬師はドアを背に一息ついた。
「ごめん。ありがとう。君、相変わらず賢いな。まだちょっと帰れないから、ここで待っててくれないか? 狭くて申し訳ないが……」
ロッカーを開いてどこからか取り出したタオルを敷くと、薬師はその上にスヴァットを下ろした。
スヴァットは小さく鳴いてその場で丸まる。薬師はほっとしたように表情を崩し、ロッカーを閉めてまたどこかへと行ってしまった。狭いのはどちらかというと落ち着くので全く構わないが、いつまで待たされるのかは少し気になった。
一眠りしていると何人かが入れ代わり立ち代わりやってきて、並んだ他のロッカーを開け閉めする慌ただしい気配がした。それらの気配が無くなってから、スヴァットのいるロッカーがそっと開けられる。
人差し指を口に当てたまま、薬師の男はそこに仕舞われていたフロックコートを手に取った。
また懐に抱え込まれて、男は辺りを窺いながら足早に病院を後にする。このまま宿まで連れて行かれるのだろうと、スヴァットはもう一度目を瞑った。
「あれ、寝ちまったのか?」
ふかりとした場所に置かれて、スヴァットは目を開けた。随分高級そうな布団だな、と欠伸をしながら辺りを見渡してぎょっとする。
安宿の二部屋を繋げたくらいはあろうかという広さに、高級そうな家具の数々。小振りながらも見事な装飾のシャンデリアが下がっていて、暖炉の上には高そうな絵画がかかっていた。
そっと視線を下に移すと、複雑な模様が色とりどりに配置された、これまた高そうなカーペットが見える。歩くだけで叱られやしないだろうか。
なんだか動けなくなって固まっているスヴァットの横に、首元のボタンを外しながら、男がどっかりと座り込んだ。
「落ち着かないか? 俺もだ。君を見かけなければ、断ったんだがな……」
ふぅ、と男は音を立てて息を吐く。
「で、なんであの病院に? あの寝たきりの男と知り合いなのか? 彼女は? 彼女は、生きてるのか?」
猫に本気で詰め寄る男に、たじたじしながらも、スヴァットは役割を思い出した。自分の首元にカシカシと手をかけながら、な、と彼の目を見つめる。こうしてちゃんと向き合うと、男は茶がかった緑色の瞳をしていた。ダークブロンドのその髪とも相まって、黙っていれば落ち着いた雰囲気がある。
少し眉を寄せながらスヴァットの首元に手をやった男は、そこに以前はしていなかった黒い布地をようやく認識した。
「これ……」
んな! とスヴァットが首を差し出す。
「取って、いいのか?」
おずおずと手を出す男にスヴァットは動かないことで答える。
どうにかスヴァットの首からそれを外すと、男は困惑気味にそれとスヴァットを見比べた。察しの悪い男に近付いて、カードの縫い付けられている辺りを手で示してやる。何かが挟み込まれている感触に、男は驚きの表情を浮かべてスヴァットを凝視した。
「彼女は死神じゃなく魔女で、君はその使い魔なのか?」
他人に聞かれれば笑い飛ばされそうなことを大真面目に呟いて、男はハンカチを開き、畳まれたカードを手にする。何故か少し躊躇ってから、ゆっくりと開いて中に目を通した。
それほど長い文章など書かれていないのに、何度も読み返しているのか男は微動だにしない。やがて少し手を震わせ、ほんのりと頬を紅潮させた。
初めて恋文をもらった小娘でもあるまいし、とスヴァットは呆れながら半眼になり、にゃあ、と声を掛ける。男は慌てたように目元を拭い、がばりと立ち上がった。
「へ、返事、書くから!」
ごつい机の上のランプに火を入れて、抽斗から筆記用具を取り出すと上質そうな紙にペンを滑らせる。
スヴァットは男の後を追って机に飛び乗り、その手元を覗き込んだ。ずらずらと並ぶ時候の挨拶に、思わず紙を弾き飛ばす。高そうなつるりとした手触りにはっとして男を見上げれば、きょとんとスヴァットを見下ろしていた。怒っている訳ではなさそうだ。
「……あ……あー。回りくどいのは、いらない? そうだな。そうだ。何だか、動揺してて……」
男は何度か深く呼吸する。
「湖の西の街で、彼女が討伐隊に興味を示してたって聞いて……その前に討伐隊が全滅したって噂が流れてて……まさかとは思ったんだが、こっちに着いてみても彼女が宿をとってる気配は無いし、誰に聞いても、もう騎士団は引き上げて討伐は終わったって言うし……」
ノックと共に使用人らしき声が夕食の時間を告げる。男は立ち上がるわけでもなく部屋で食べる旨を口にして、スヴァットの喉元を撫でた。
「君があの患者の元に通ってると聞いて、ますます不安になってたんだ。彼の猫じゃないかっていう人もいて……違うんだよな?」
な、と肯定しておく。
「君を遣わしてくれたということは、希望すれば会ってくれるのかな。くれるんだよな?」
たぶん、とスヴァットは言ったつもりだったが、猫語じゃ微妙なニュアンスは伝わらない。
「君も驚いた通り、ここに彼女を呼んでも追い返されかねないからな……病院も、彼女が自分で来れない理由があるんだろう?」
男は悩みながら、何度か書いては握り潰し、結局『夜に会いたい。場所と時間を T』とだけ記して細く畳み、シェスティンと同じようにスヴァットに託した。
彼の首にハンカチが結わえつけられると、タイミングよくノックの音がして、男はドアの所で夕飯の乗ったトレーを受け取っていた。
暖炉前のテーブルにそれを置くと、「食べるか?」とスヴァットを誘ってくれたが、帰ればシェスティンが作ってくれている。惜しい気はしたが、リンゴを一切れだけもらって後は断った。
窓から出入りできないかとスヴァットは外を覗いてみる。が、どうやらここは三階らしい。歩けそうなでっぱりがないこともないが、無理はしたくない感じだった。
よくよく見ると、少し向こうにあの病院が見えた。病院近くのお屋敷に滞在を許されるなんて、随分高待遇じゃないか? どれだけ疑問に思っても、スヴァットには質問さえ難しい。そっと男を振り返ると、何を思ったのか近付いてきて笑って抱き上げられた。
「そこからの出入りは難しいんじゃないかな。飯食っちまったら、途中まで送ってやるからちょっと待っててくれ」
そう言ってスヴァットを膝に抱えたまま夕食を続ける。正直、男の膝は嬉しくも何ともないのだが、時々撫でにくる指が妙に的確にツボを突くのでうっかり喉を鳴らしてしまい、何だか屈辱的な気分を味わっていた。
綺麗に食べ終わってから、男は食器をトレーごとドアの外に置き、コートを着ると、その上にマントを羽織ってスヴァットを抱え込んだ。
途中使用人らしき人物に「飲みに行ってくる」と声を掛け、丁寧に送り出される様子にスヴァットは首を傾げる。随分慣れたものだな、と。断ろうと思った滞在先、のはずではなかったか。
片手に傘を持ちながら、男はスヴァットを覗き込む。
「窮屈か? 少し、我慢してくれ。このまま彼女のところに連れて行ってくれても構わないんだが……」
ふるふるとスヴァットが腕の中で首を振ると、男は苦笑する。
「……相変わらず、ガードが固い。いいさ。返事を待つよ。俺はあの病院でしばらく手伝いをしてるから、そっちに来てくれ」
男は酒場 の並ぶ通りに入り、スヴァットをある酒場の横に並んでいる樽のひとつに乗せた。
どの辺りかと見渡せば巡回先の酒場 の近くだった。
「俺はああ言って出てきたから、一杯引っ掛けて帰る。よろしくな」
にゃ! と元気よく答えて雨の中に飛び出す。つけられるかもという思いは杞憂だったようだ。男はしばらくその場でスヴァットを見送っていたが、やがて一件の酒場のドアに手をかけた。
スヴァットが崖の家まで戻ると、心配していたのか、いつもより勢いよくドアが開いた。ふかふかのタオルで包まれ、抵抗する間もなく暖かいストーブの前に連れ込まれる。すぐ傍で水を注ぐ音がした。彼がタオルの中から抜け出して様子を確かめようと顔を出したところで、桶に張った湯の中に突っ込まれる。
「遅かったじゃないか。こんな天気なんだから、会えないなら会えないでさっさと戻ってくればいいのに」
ハンカチが濡れないようにと、ぐっと背筋を伸ばしてスヴァットは、んな! と抗議した。
シェスティンはすぐに気が付いてハンカチを外すと、中身の手触りの違いに目を瞠 る。それをちょっと得意気に見ながらスヴァットは少し熱めの湯に身を浸した。
「……優秀だろって言いたいのか。認めるけどな。ワタシと違って病気をしない訳じゃないんだろう? あまり無理はするな」
ハンカチを開かぬまま一旦脇に置いて、シェスティンはスヴァットを洗い始める。いくつか彼女から質問が飛んだのだが、石鹸のいい香りと、マッサージされる心地良さと、湯の温かさで、スヴァットから実のある返事は何一つ出なかった。
結局スヴァットの為に用意された夕食を平らげて、一息ついてから仕切り直す。テーブルの上には観光用の地図と、男からのメッセージが広げられていた。
「で。彼の宿は何処だった?」
シェスティンの目線は宿の集まる繁華街近くにいっていたが、スヴァットは少し離れた例の病院の横、というか裏手を指した。もちろんそこには何も描かれていない。シェスティンは怪訝な顔をする。だよな、と思うものの事実は曲げられない。
「宿だぞ?」
たし、とその場を明確にもう一度指し示す。
病院周辺には近寄らないようにしているシェスティンには、その場に何があるのか分からないのだろう。困惑を深めるだけのようだった。
「訪ねていけそうな所か?」
スヴァットはぶんぶんと首を振る。男もダメだと言っていた。
「そうか。では待ち合わせできる場所は……」
これにスヴァットはいち早く反応した。彼の中ではそこしかなかった。繁華街から少し外れた場所を指す。その場にも建物等の名は書かれていなかった。が、こちらはシェスティンには分かるはずだ。以前、一度行っている。
「『海の宝石 』、ね」
す、とシェスティンの瞳が細められた。
時々潮の香りを纏わりつかせた怪しい人物が出入りするその酒場は、一見金持ち御用達の落ち着いたバーだ。それなりの金額の酒と物珍しい肴が置いてある。店の奥に個室があるようで、常連なんかが時々使うのだということだった。
何をどう勘違いしていたのか、そこに行くという時に、娼婦のような派手な格好をしたシェスティンに突っ込みを入れて、猫語とジェスチャーでなんとかいいとこのお嬢様風に仕上げさせた自分をスヴァットは誰かに褒めてほしかった。
そりゃ、絡まれない方がおかしいんだって!
酔っ払いうんぬん以前の問題だった。思い出して苦い顔をしているスヴァットに、シェスティンは全く頓着しない。
「前に行ったときはすぐに見つかって追い出されたんだったな」
露骨に絡まれはしなかったものの、ひとりで飲むシェスティンは早々に若者に声を掛けられ、あしらうのが面倒だとさっさと店を出てしまった。では奥へ、と思ったのも束の間、奥へ行くには扉をひとつ潜らねばならず、そのドアは閉じられたままだった。誰か通らないかと様子を伺っているうちに店の者に見つかって追い出されたという訳だ。
一緒に飲む相手がいれば、シェスティンも変な男に声を掛けられたりしないだろう。しばらく時間が稼げる。
「ワタシは構わないが、彼は大丈夫なのか?」
シェスティンが薬師の懐を心配してるのか、服装を心配してるのかスヴァットには解らなかったが、あの家に滞在してるのならば恐らく問題あるまい。自信たっぷりに頷くスヴァットをシェスティンは少し疑わしそうに見ていた。
ともかく、と彼女は新たなカードに店名を書き込み、考えてから二日後の日付と時間を入れた。
「ワタシも準備したいからな。明日は買物に行こう」
独り言のように呟かれた言葉に、スヴァットは慌てて地図上に視線を走らせた。なんとかいくつかのアルファベットを確認して指し示す。
『いっしょ、に』
最後に洋服店の場所。ちょっとシェスティンのセンスが疑わしかった。当人は意味を理解すると顔を顰める。
「大丈夫だぞ。もうわかった。上品にだろ?」
譲らない黒猫としばらく睨み合ってから、彼女は拗ねたように視線を逸らしたのだった。
「トーレさん、あの猫知ってるんですか?」
「いいや。みんな気にしてるから、追い払ってきたんだ」
「え? あら、ホント。いなくなってる」
会話もそこそこに、足早に建物内を進んで行く。
白衣の内側にいるスヴァットには、どこを歩いているのかもさっぱり分からない。大人しくしてろと言われたから息も潜めているが、時々かけられる声に耳を傾けてみれば、どうもこの薬師はよく知られた人物であるらしい。
○○の薬がどうの、××の調合がどうの、という仕事の話に混じって久しぶりだの、嫁はどうしただの、酒の誘いまでかけられていた。
どれも適当にあしらって、ようやくある一室まで辿り着くと、薬師はドアを背に一息ついた。
「ごめん。ありがとう。君、相変わらず賢いな。まだちょっと帰れないから、ここで待っててくれないか? 狭くて申し訳ないが……」
ロッカーを開いてどこからか取り出したタオルを敷くと、薬師はその上にスヴァットを下ろした。
スヴァットは小さく鳴いてその場で丸まる。薬師はほっとしたように表情を崩し、ロッカーを閉めてまたどこかへと行ってしまった。狭いのはどちらかというと落ち着くので全く構わないが、いつまで待たされるのかは少し気になった。
一眠りしていると何人かが入れ代わり立ち代わりやってきて、並んだ他のロッカーを開け閉めする慌ただしい気配がした。それらの気配が無くなってから、スヴァットのいるロッカーがそっと開けられる。
人差し指を口に当てたまま、薬師の男はそこに仕舞われていたフロックコートを手に取った。
また懐に抱え込まれて、男は辺りを窺いながら足早に病院を後にする。このまま宿まで連れて行かれるのだろうと、スヴァットはもう一度目を瞑った。
「あれ、寝ちまったのか?」
ふかりとした場所に置かれて、スヴァットは目を開けた。随分高級そうな布団だな、と欠伸をしながら辺りを見渡してぎょっとする。
安宿の二部屋を繋げたくらいはあろうかという広さに、高級そうな家具の数々。小振りながらも見事な装飾のシャンデリアが下がっていて、暖炉の上には高そうな絵画がかかっていた。
そっと視線を下に移すと、複雑な模様が色とりどりに配置された、これまた高そうなカーペットが見える。歩くだけで叱られやしないだろうか。
なんだか動けなくなって固まっているスヴァットの横に、首元のボタンを外しながら、男がどっかりと座り込んだ。
「落ち着かないか? 俺もだ。君を見かけなければ、断ったんだがな……」
ふぅ、と男は音を立てて息を吐く。
「で、なんであの病院に? あの寝たきりの男と知り合いなのか? 彼女は? 彼女は、生きてるのか?」
猫に本気で詰め寄る男に、たじたじしながらも、スヴァットは役割を思い出した。自分の首元にカシカシと手をかけながら、な、と彼の目を見つめる。こうしてちゃんと向き合うと、男は茶がかった緑色の瞳をしていた。ダークブロンドのその髪とも相まって、黙っていれば落ち着いた雰囲気がある。
少し眉を寄せながらスヴァットの首元に手をやった男は、そこに以前はしていなかった黒い布地をようやく認識した。
「これ……」
んな! とスヴァットが首を差し出す。
「取って、いいのか?」
おずおずと手を出す男にスヴァットは動かないことで答える。
どうにかスヴァットの首からそれを外すと、男は困惑気味にそれとスヴァットを見比べた。察しの悪い男に近付いて、カードの縫い付けられている辺りを手で示してやる。何かが挟み込まれている感触に、男は驚きの表情を浮かべてスヴァットを凝視した。
「彼女は死神じゃなく魔女で、君はその使い魔なのか?」
他人に聞かれれば笑い飛ばされそうなことを大真面目に呟いて、男はハンカチを開き、畳まれたカードを手にする。何故か少し躊躇ってから、ゆっくりと開いて中に目を通した。
それほど長い文章など書かれていないのに、何度も読み返しているのか男は微動だにしない。やがて少し手を震わせ、ほんのりと頬を紅潮させた。
初めて恋文をもらった小娘でもあるまいし、とスヴァットは呆れながら半眼になり、にゃあ、と声を掛ける。男は慌てたように目元を拭い、がばりと立ち上がった。
「へ、返事、書くから!」
ごつい机の上のランプに火を入れて、抽斗から筆記用具を取り出すと上質そうな紙にペンを滑らせる。
スヴァットは男の後を追って机に飛び乗り、その手元を覗き込んだ。ずらずらと並ぶ時候の挨拶に、思わず紙を弾き飛ばす。高そうなつるりとした手触りにはっとして男を見上げれば、きょとんとスヴァットを見下ろしていた。怒っている訳ではなさそうだ。
「……あ……あー。回りくどいのは、いらない? そうだな。そうだ。何だか、動揺してて……」
男は何度か深く呼吸する。
「湖の西の街で、彼女が討伐隊に興味を示してたって聞いて……その前に討伐隊が全滅したって噂が流れてて……まさかとは思ったんだが、こっちに着いてみても彼女が宿をとってる気配は無いし、誰に聞いても、もう騎士団は引き上げて討伐は終わったって言うし……」
ノックと共に使用人らしき声が夕食の時間を告げる。男は立ち上がるわけでもなく部屋で食べる旨を口にして、スヴァットの喉元を撫でた。
「君があの患者の元に通ってると聞いて、ますます不安になってたんだ。彼の猫じゃないかっていう人もいて……違うんだよな?」
な、と肯定しておく。
「君を遣わしてくれたということは、希望すれば会ってくれるのかな。くれるんだよな?」
たぶん、とスヴァットは言ったつもりだったが、猫語じゃ微妙なニュアンスは伝わらない。
「君も驚いた通り、ここに彼女を呼んでも追い返されかねないからな……病院も、彼女が自分で来れない理由があるんだろう?」
男は悩みながら、何度か書いては握り潰し、結局『夜に会いたい。場所と時間を T』とだけ記して細く畳み、シェスティンと同じようにスヴァットに託した。
彼の首にハンカチが結わえつけられると、タイミングよくノックの音がして、男はドアの所で夕飯の乗ったトレーを受け取っていた。
暖炉前のテーブルにそれを置くと、「食べるか?」とスヴァットを誘ってくれたが、帰ればシェスティンが作ってくれている。惜しい気はしたが、リンゴを一切れだけもらって後は断った。
窓から出入りできないかとスヴァットは外を覗いてみる。が、どうやらここは三階らしい。歩けそうなでっぱりがないこともないが、無理はしたくない感じだった。
よくよく見ると、少し向こうにあの病院が見えた。病院近くのお屋敷に滞在を許されるなんて、随分高待遇じゃないか? どれだけ疑問に思っても、スヴァットには質問さえ難しい。そっと男を振り返ると、何を思ったのか近付いてきて笑って抱き上げられた。
「そこからの出入りは難しいんじゃないかな。飯食っちまったら、途中まで送ってやるからちょっと待っててくれ」
そう言ってスヴァットを膝に抱えたまま夕食を続ける。正直、男の膝は嬉しくも何ともないのだが、時々撫でにくる指が妙に的確にツボを突くのでうっかり喉を鳴らしてしまい、何だか屈辱的な気分を味わっていた。
綺麗に食べ終わってから、男は食器をトレーごとドアの外に置き、コートを着ると、その上にマントを羽織ってスヴァットを抱え込んだ。
途中使用人らしき人物に「飲みに行ってくる」と声を掛け、丁寧に送り出される様子にスヴァットは首を傾げる。随分慣れたものだな、と。断ろうと思った滞在先、のはずではなかったか。
片手に傘を持ちながら、男はスヴァットを覗き込む。
「窮屈か? 少し、我慢してくれ。このまま彼女のところに連れて行ってくれても構わないんだが……」
ふるふるとスヴァットが腕の中で首を振ると、男は苦笑する。
「……相変わらず、ガードが固い。いいさ。返事を待つよ。俺はあの病院でしばらく手伝いをしてるから、そっちに来てくれ」
男は
どの辺りかと見渡せば巡回先の
「俺はああ言って出てきたから、一杯引っ掛けて帰る。よろしくな」
にゃ! と元気よく答えて雨の中に飛び出す。つけられるかもという思いは杞憂だったようだ。男はしばらくその場でスヴァットを見送っていたが、やがて一件の酒場のドアに手をかけた。
スヴァットが崖の家まで戻ると、心配していたのか、いつもより勢いよくドアが開いた。ふかふかのタオルで包まれ、抵抗する間もなく暖かいストーブの前に連れ込まれる。すぐ傍で水を注ぐ音がした。彼がタオルの中から抜け出して様子を確かめようと顔を出したところで、桶に張った湯の中に突っ込まれる。
「遅かったじゃないか。こんな天気なんだから、会えないなら会えないでさっさと戻ってくればいいのに」
ハンカチが濡れないようにと、ぐっと背筋を伸ばしてスヴァットは、んな! と抗議した。
シェスティンはすぐに気が付いてハンカチを外すと、中身の手触りの違いに目を
「……優秀だろって言いたいのか。認めるけどな。ワタシと違って病気をしない訳じゃないんだろう? あまり無理はするな」
ハンカチを開かぬまま一旦脇に置いて、シェスティンはスヴァットを洗い始める。いくつか彼女から質問が飛んだのだが、石鹸のいい香りと、マッサージされる心地良さと、湯の温かさで、スヴァットから実のある返事は何一つ出なかった。
結局スヴァットの為に用意された夕食を平らげて、一息ついてから仕切り直す。テーブルの上には観光用の地図と、男からのメッセージが広げられていた。
「で。彼の宿は何処だった?」
シェスティンの目線は宿の集まる繁華街近くにいっていたが、スヴァットは少し離れた例の病院の横、というか裏手を指した。もちろんそこには何も描かれていない。シェスティンは怪訝な顔をする。だよな、と思うものの事実は曲げられない。
「宿だぞ?」
たし、とその場を明確にもう一度指し示す。
病院周辺には近寄らないようにしているシェスティンには、その場に何があるのか分からないのだろう。困惑を深めるだけのようだった。
「訪ねていけそうな所か?」
スヴァットはぶんぶんと首を振る。男もダメだと言っていた。
「そうか。では待ち合わせできる場所は……」
これにスヴァットはいち早く反応した。彼の中ではそこしかなかった。繁華街から少し外れた場所を指す。その場にも建物等の名は書かれていなかった。が、こちらはシェスティンには分かるはずだ。以前、一度行っている。
「『
す、とシェスティンの瞳が細められた。
時々潮の香りを纏わりつかせた怪しい人物が出入りするその酒場は、一見金持ち御用達の落ち着いたバーだ。それなりの金額の酒と物珍しい肴が置いてある。店の奥に個室があるようで、常連なんかが時々使うのだということだった。
何をどう勘違いしていたのか、そこに行くという時に、娼婦のような派手な格好をしたシェスティンに突っ込みを入れて、猫語とジェスチャーでなんとかいいとこのお嬢様風に仕上げさせた自分をスヴァットは誰かに褒めてほしかった。
そりゃ、絡まれない方がおかしいんだって!
酔っ払いうんぬん以前の問題だった。思い出して苦い顔をしているスヴァットに、シェスティンは全く頓着しない。
「前に行ったときはすぐに見つかって追い出されたんだったな」
露骨に絡まれはしなかったものの、ひとりで飲むシェスティンは早々に若者に声を掛けられ、あしらうのが面倒だとさっさと店を出てしまった。では奥へ、と思ったのも束の間、奥へ行くには扉をひとつ潜らねばならず、そのドアは閉じられたままだった。誰か通らないかと様子を伺っているうちに店の者に見つかって追い出されたという訳だ。
一緒に飲む相手がいれば、シェスティンも変な男に声を掛けられたりしないだろう。しばらく時間が稼げる。
「ワタシは構わないが、彼は大丈夫なのか?」
シェスティンが薬師の懐を心配してるのか、服装を心配してるのかスヴァットには解らなかったが、あの家に滞在してるのならば恐らく問題あるまい。自信たっぷりに頷くスヴァットをシェスティンは少し疑わしそうに見ていた。
ともかく、と彼女は新たなカードに店名を書き込み、考えてから二日後の日付と時間を入れた。
「ワタシも準備したいからな。明日は買物に行こう」
独り言のように呟かれた言葉に、スヴァットは慌てて地図上に視線を走らせた。なんとかいくつかのアルファベットを確認して指し示す。
『いっしょ、に』
最後に洋服店の場所。ちょっとシェスティンのセンスが疑わしかった。当人は意味を理解すると顔を顰める。
「大丈夫だぞ。もうわかった。上品にだろ?」
譲らない黒猫としばらく睨み合ってから、彼女は拗ねたように視線を逸らしたのだった。