4-1 ぐるりぐるり
文字数 4,503文字
第4章 Once upon a time
最新の蒸気船は、風がなくとも滑るように波間を行く。
黒い煙をたなびかせ、冬場の航海にしては順調に進んでいると言えるだろう。空はどんよりしているが、風はそれほど強く吹いていない。時折高い波を越えては胃の不快感を飲み込んで、スヴァットは船の舳先で暗い水面を見つめていた。
「スヴァット」
シェスティンの呼び声も半ば無視して、彼はその場を動かない。
「水は怖いんじゃなかったのか? 落ちるなよ?」
おざなりな返事をしたつもりで、スヴァットは声が出ないことを思い出した。軽く舌打ちをして、ちらとシェスティンをふり返り、目が合ったのを確認してからまた前を向く。
『人魚の涙』を取り込んでから、違和感が付き纏う。水は怖い。けれど怖くない。
恐れる自分と、平気な何かが同居している。単純に考えれば、人であった自分と、元々の猫が分離しかかってるのではないかと予想がつく。
呪いが解けかかってるのだと喜べばいいのだろうが、良いことばかりでもなかった。
時々、意識のない時に行動しているということに気付くからだ。行動といっても、大抵はシェスティンをじっと見つめているくらいなのだが。
満月の光で限定的に人の姿を取り戻すということに彼女が気付いてから、抱きしめられて眠るようなことはなくなった。布団から追い出されこそしなかったが、背を向けて眠る彼女を夜中にじっと見つめていることがある。
それが、自分の無意識なのか、違う何かなのかが判らず怖い。
崖から落ちてくる彼女を受け止めて、見開く瞳を見ていると、どうしようもない愛しさがこみ上げてきた。
猫の姿では感じられなかった想い。あのまま月に照らされていたら、彼女に口づけを落とし、命も落としていたことだろう。自分の幸運にこれほど感謝したことはない。
多分、彼女も気付いていない。あれは、彼女につきまとう呪いの一部なんじゃないか。誘蛾灯のように男を(あるいは女も)誘い、あわよくばその命を刈り取ろうと手をこまねいている。
無差別にではない。彼女と接する時間が長いほど、じわじわとその効力を発揮するタイプな気がする。
彼女が人との交流を避けてきたのは、あながち間違いではないのだ。
それに気付いたとき、スヴァットはトーレの強さに初めて感嘆した。
彼は、臆病なのではない。いや、初めはそうだったのかもしれない。よく解らない呪いで死ぬのが怖かった。でも、いつからか彼は、死ぬことより彼女がその為に悲しむということの方が嫌になったんじゃないだろうか。彼女を悲しませないために自分を律する。それがどんなに難しいことか……今なら解る。
今のところ、そこまでの想いは自分には無い。無いと思う。彼女の傍にいてやりたいと思う気持ちが、真に自分のものかどうかさえ分からないままでは、この呪いを解くべきではないのかもしれない……
ぐっと奥歯を噛みしめて、スヴァットは水平線のその先を睨みつけた。
船の舳先で船首像よろしく動かないスヴァットを、シェスティンは少し不安そうに見守っていた。
ばたばたと出てきてしまったが、なんとなくスヴァットの様子がおかしいことに彼女も気づいていた。特に船ではやれることも行ける場所も限られている。少し前までのスヴァットならば「暇だから構え」とお猫様よろしく纏わりついてきたに違いないのに、明るいうちはあの舳先が彼の定位置だった。
変調は声が出ないから、というだけじゃない。時々彼女をじっと見るスヴァットは、表情もなくどこか遠かった。
暗くなると、狭い船室のベッドの上でアルファベット表を広げる。色違いのオッドアイを見つつ、元々は両方青い目なんだなって彼女が言うと、猫に半分間借りしてるから、半分なんじゃないかって本人もよく解ってなさそうな答えが返ってきた。猫になる呪いではなくて、猫に閉じ込められる呪いだったのか。その疑問には首を傾げるばかりで答えは帰ってこなかった。
青い双眸を思い出すと、添い寝さえ恥ずかしい気がして背を向けてしまう。スヴァットの微妙な変化はそんなシェスティンの態度にもあるのかもしれない。そう思っても、焼きついた光景は消えはしないのだ。
シェスティンは同じ色の瞳を知っていた。
この世で一番好きな色だった。
違うことは解っている。
解っているから、思い出す。
彼女が同じ時を歩むはずだった、彼女の騎士の事を――
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
船で三日。到着した街はまだ雪が所々に残るものの、春の足音が聞こえはじめていた。
揺れない地面がありがたくて、シェスティン達はそこで一泊していくことにする。ついでに旅支度を本格的にしてしまうことにして、着替えや携帯食を買い足した。
ちょっといい宿でのんびりと湯に浸かった後、シェスティンはスヴァットを呼んだ。桶に湯を汲み、スヴァットを洗いながら彼女は独り言のように話し出す。
「何か、悩んでるのか?」
肩越しにスヴァットが振り返る。
何故、今? そんな顔をしていた。鳴き声も上げられないのに、と。
「話を半ば無理矢理聞けと言うくらいお喋りなヤツが、ここ数日ひとりで黙りこくってる。何かあるんだろうなってくらいは、ワタシにもわかる。妖精の森に行きたくないのか?」
ふるふるとそこはきっぱり振られた首に、シェスティンは少しほっとした。
「声を取り戻すことに問題はないんだな? じゃあ、いい。余計なことは聞かない。次の目標は『妖精の森の四つ葉のクローバー』だ」
頭からお湯をかけられ、ぺったりと毛の貼りついた情けない姿で、スヴァットはシェスティンを見上げた。
何か言いたそうだが、その視線をタオルを被せて遮る。わしわし拭いてしまうと、彼女はさっさとバスルームから出て行こうとした。
一度身体を震わせ、スヴァットは急いでシェスティンの前に回り込む。足元でじっと見上げるスヴァットとシェスティンの視線が絡み合った。けれど、シェスティンはあえてそれを無視してスヴァットを避け、部屋に戻る。
ベッドまでの短い距離で何度同じことを繰り返しただろう。
「クローバーを手に入れるまでは問題無いんだろう?」
ベッドの前で、呆れたようにシェスティンは言った。
彼を避け、ベッドに腰掛ける。スヴァットも膝の上に乗ってきた。
「その後のことはその後に聞く。好きなだけ考えるといい。どの結論でもワタシのすることは変わらない」
乱れた毛並みを優しく撫でつけながら、シェスティンは微笑んだ。
「言っただろう? 最後まで付き合う、と」
一度、視線を外して下を向いたスヴァットは、自分を撫でているシェスティンの手をその小さな手で絡め取るように止め、そのまま頭を押し付けた。
シェスティンが指先を額の辺りに潜り込ませ、ゆっくりと撫でていく。
そうしろと言われたと思ったのに、スヴァットは不服そうに身体を引くと、ふるると首を振った。若干の思案の後、窺うようにシェスティンを見上げると、曖昧に笑った……ような気がした。
膝の上で黒猫の身体が立ち上がる。
鼻の頭をぺろりと舐められてシェスティンが反射的にのけ反ると、黒猫の両手が彼女の両胸にむにりと置かれた。風呂上りの時、彼女の胸にいつも巻かれている布はない。
スヴァットは間髪を入れずその中央へ頭を突っ込んだ。迷いなく先についた手で柔らかいボールを外側から挟み込む。
「――――――っ!!」
シェスティンは声にならない声を上げて、スヴァットに平手を振り下ろしていた。
べちっと床にたたきつけられた黒猫に、小さく「あっ」と声が出たものの、細かく身体を震わせながら立ち上がったスヴァットは、ゆらりと尻尾を揺らしながら泣き笑いの表情をしていた。
カッと顔に血が集まるのが分かる。
そのまま布団を被って、シェスティンはスヴァットに背を向けた。
閉じる瞼の裏に青の双眸がちらつく。
ベットの向こう側に小さなものが乗る。歩くバランスが悪いのは、それほど強く打ち付けられたからか。振り返ろうかと迷っている間に、シェスティンは布団に潜り込んだ黒猫の体温を背中に感じた。
すりすりと何度も頭を押し付けているのだろう。ごめんねと反省しているのが何故か解って、でも、いま許してしまうのは違う気がして、シェスティンはそのまま黙っていた。
――スヴァットは殴られたかったんだ。
喝を入れてほしかった。
そう、思うのは都合が良すぎるだろうか。
無理矢理そんな風に結論付けないと、シェスティンは眠れそうになかった。背中にぴたりと寄り添う温かさは、寝返りも打たせないための嫌がらせなのかも。
温もりが恋しいのは寒いから。春が来れば毛皮はもういらない。
暖かいうちに解けるものなら全てを解いてしまって、離れてしまうのがシェスティンは一番いい気がしていた。
もしもスヴァットが呪いを解くのを諦めると言ったら――
シェスティンは、ほんの少しの間だけ温もりという幸せを手に入れることが出来るのだろうか? 先に待つ、永遠の別れを視野に収めながら、月夜に語らうことを続けるのだろうか?
彼を思い出す青い瞳を、いつまで冷静に見ていられるのだろう。
――この姿の俺を、もう手放せやしないんだから――
それは、彼がそのままでいたいという意味ではない。
あれはシェスティンに別れを感じさせないために口に出されたに過ぎない。
別れはやってくる。
時は誰の上にも平等に流れている。
スヴァットはシェスティンの背中にぴたりと身を寄せて、その少し早い鼓動を聞いていた。
床に叩きつけられて右半身がずきずきいってるけど、朝には何とかなるだろう。
シェスティンは最後まで付き合う、と言ったけど、あの時彼女は正確には
彼女が黒猫に付き合うのはあくまでも暇潰しのはずだった。それを、今更義務にはしたくなかった。
死なない人間なんて、なんて便利なんだろう。
最初にそう思った自分をスヴァットは恥じた。
彼女を知るほど、彼女の傍にいてやりたい気持ちと、彼女を解放してやりたい気持ちがせめぎ合う。『人魚の涙』を手に入れてしまった今なら、ひとりでも『始まりの剣』を探せるだろう。
彼女が必要なのは猫の自分で、人の姿に戻ってまで傍にいようとすれば、彼女の呪いに巻き込まれるかもしれない。それは彼女も望まない。
かといって呪いを解くことをやめて猫の姿を受け入れるのなら、彼女にそれ以上付きあわせる理由がなかった。
例え彼女が望んだとして、己の寿命が尽きるまでを生温く一緒に生きることが、彼女の幸せとは思えない。
ましてや、分離しかかっている不安定な自分をスヴァットは信用できないのだ。
キツイ一発をもらえば目が覚めるかと思ったけど、世の中そんなに甘くはなかった。
思い通りに怒らせたのに、怒って背を向けるシェスティンをごめんと抱き締めたくなった。小さな体では手の長ささえ全然足りない。
離れぬ身体に許されてるのだと知ると、ますます離れ難くなってる。
彼女が欲しい温もりも、彼女に必要なのも、『俺』じゃないのに――
最新の蒸気船は、風がなくとも滑るように波間を行く。
黒い煙をたなびかせ、冬場の航海にしては順調に進んでいると言えるだろう。空はどんよりしているが、風はそれほど強く吹いていない。時折高い波を越えては胃の不快感を飲み込んで、スヴァットは船の舳先で暗い水面を見つめていた。
「スヴァット」
シェスティンの呼び声も半ば無視して、彼はその場を動かない。
「水は怖いんじゃなかったのか? 落ちるなよ?」
おざなりな返事をしたつもりで、スヴァットは声が出ないことを思い出した。軽く舌打ちをして、ちらとシェスティンをふり返り、目が合ったのを確認してからまた前を向く。
『人魚の涙』を取り込んでから、違和感が付き纏う。水は怖い。けれど怖くない。
恐れる自分と、平気な何かが同居している。単純に考えれば、人であった自分と、元々の猫が分離しかかってるのではないかと予想がつく。
呪いが解けかかってるのだと喜べばいいのだろうが、良いことばかりでもなかった。
時々、意識のない時に行動しているということに気付くからだ。行動といっても、大抵はシェスティンをじっと見つめているくらいなのだが。
満月の光で限定的に人の姿を取り戻すということに彼女が気付いてから、抱きしめられて眠るようなことはなくなった。布団から追い出されこそしなかったが、背を向けて眠る彼女を夜中にじっと見つめていることがある。
それが、自分の無意識なのか、違う何かなのかが判らず怖い。
崖から落ちてくる彼女を受け止めて、見開く瞳を見ていると、どうしようもない愛しさがこみ上げてきた。
猫の姿では感じられなかった想い。あのまま月に照らされていたら、彼女に口づけを落とし、命も落としていたことだろう。自分の幸運にこれほど感謝したことはない。
多分、彼女も気付いていない。あれは、彼女につきまとう呪いの一部なんじゃないか。誘蛾灯のように男を(あるいは女も)誘い、あわよくばその命を刈り取ろうと手をこまねいている。
無差別にではない。彼女と接する時間が長いほど、じわじわとその効力を発揮するタイプな気がする。
彼女が人との交流を避けてきたのは、あながち間違いではないのだ。
それに気付いたとき、スヴァットはトーレの強さに初めて感嘆した。
彼は、臆病なのではない。いや、初めはそうだったのかもしれない。よく解らない呪いで死ぬのが怖かった。でも、いつからか彼は、死ぬことより彼女がその為に悲しむということの方が嫌になったんじゃないだろうか。彼女を悲しませないために自分を律する。それがどんなに難しいことか……今なら解る。
今のところ、そこまでの想いは自分には無い。無いと思う。彼女の傍にいてやりたいと思う気持ちが、真に自分のものかどうかさえ分からないままでは、この呪いを解くべきではないのかもしれない……
ぐっと奥歯を噛みしめて、スヴァットは水平線のその先を睨みつけた。
船の舳先で船首像よろしく動かないスヴァットを、シェスティンは少し不安そうに見守っていた。
ばたばたと出てきてしまったが、なんとなくスヴァットの様子がおかしいことに彼女も気づいていた。特に船ではやれることも行ける場所も限られている。少し前までのスヴァットならば「暇だから構え」とお猫様よろしく纏わりついてきたに違いないのに、明るいうちはあの舳先が彼の定位置だった。
変調は声が出ないから、というだけじゃない。時々彼女をじっと見るスヴァットは、表情もなくどこか遠かった。
暗くなると、狭い船室のベッドの上でアルファベット表を広げる。色違いのオッドアイを見つつ、元々は両方青い目なんだなって彼女が言うと、猫に半分間借りしてるから、半分なんじゃないかって本人もよく解ってなさそうな答えが返ってきた。猫になる呪いではなくて、猫に閉じ込められる呪いだったのか。その疑問には首を傾げるばかりで答えは帰ってこなかった。
青い双眸を思い出すと、添い寝さえ恥ずかしい気がして背を向けてしまう。スヴァットの微妙な変化はそんなシェスティンの態度にもあるのかもしれない。そう思っても、焼きついた光景は消えはしないのだ。
シェスティンは同じ色の瞳を知っていた。
この世で一番好きな色だった。
違うことは解っている。
解っているから、思い出す。
彼女が同じ時を歩むはずだった、彼女の騎士の事を――
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
船で三日。到着した街はまだ雪が所々に残るものの、春の足音が聞こえはじめていた。
揺れない地面がありがたくて、シェスティン達はそこで一泊していくことにする。ついでに旅支度を本格的にしてしまうことにして、着替えや携帯食を買い足した。
ちょっといい宿でのんびりと湯に浸かった後、シェスティンはスヴァットを呼んだ。桶に湯を汲み、スヴァットを洗いながら彼女は独り言のように話し出す。
「何か、悩んでるのか?」
肩越しにスヴァットが振り返る。
何故、今? そんな顔をしていた。鳴き声も上げられないのに、と。
「話を半ば無理矢理聞けと言うくらいお喋りなヤツが、ここ数日ひとりで黙りこくってる。何かあるんだろうなってくらいは、ワタシにもわかる。妖精の森に行きたくないのか?」
ふるふるとそこはきっぱり振られた首に、シェスティンは少しほっとした。
「声を取り戻すことに問題はないんだな? じゃあ、いい。余計なことは聞かない。次の目標は『妖精の森の四つ葉のクローバー』だ」
頭からお湯をかけられ、ぺったりと毛の貼りついた情けない姿で、スヴァットはシェスティンを見上げた。
何か言いたそうだが、その視線をタオルを被せて遮る。わしわし拭いてしまうと、彼女はさっさとバスルームから出て行こうとした。
一度身体を震わせ、スヴァットは急いでシェスティンの前に回り込む。足元でじっと見上げるスヴァットとシェスティンの視線が絡み合った。けれど、シェスティンはあえてそれを無視してスヴァットを避け、部屋に戻る。
ベッドまでの短い距離で何度同じことを繰り返しただろう。
「クローバーを手に入れるまでは問題無いんだろう?」
ベッドの前で、呆れたようにシェスティンは言った。
彼を避け、ベッドに腰掛ける。スヴァットも膝の上に乗ってきた。
「その後のことはその後に聞く。好きなだけ考えるといい。どの結論でもワタシのすることは変わらない」
乱れた毛並みを優しく撫でつけながら、シェスティンは微笑んだ。
「言っただろう? 最後まで付き合う、と」
一度、視線を外して下を向いたスヴァットは、自分を撫でているシェスティンの手をその小さな手で絡め取るように止め、そのまま頭を押し付けた。
シェスティンが指先を額の辺りに潜り込ませ、ゆっくりと撫でていく。
そうしろと言われたと思ったのに、スヴァットは不服そうに身体を引くと、ふるると首を振った。若干の思案の後、窺うようにシェスティンを見上げると、曖昧に笑った……ような気がした。
膝の上で黒猫の身体が立ち上がる。
鼻の頭をぺろりと舐められてシェスティンが反射的にのけ反ると、黒猫の両手が彼女の両胸にむにりと置かれた。風呂上りの時、彼女の胸にいつも巻かれている布はない。
スヴァットは間髪を入れずその中央へ頭を突っ込んだ。迷いなく先についた手で柔らかいボールを外側から挟み込む。
「――――――っ!!」
シェスティンは声にならない声を上げて、スヴァットに平手を振り下ろしていた。
べちっと床にたたきつけられた黒猫に、小さく「あっ」と声が出たものの、細かく身体を震わせながら立ち上がったスヴァットは、ゆらりと尻尾を揺らしながら泣き笑いの表情をしていた。
カッと顔に血が集まるのが分かる。
そのまま布団を被って、シェスティンはスヴァットに背を向けた。
閉じる瞼の裏に青の双眸がちらつく。
ベットの向こう側に小さなものが乗る。歩くバランスが悪いのは、それほど強く打ち付けられたからか。振り返ろうかと迷っている間に、シェスティンは布団に潜り込んだ黒猫の体温を背中に感じた。
すりすりと何度も頭を押し付けているのだろう。ごめんねと反省しているのが何故か解って、でも、いま許してしまうのは違う気がして、シェスティンはそのまま黙っていた。
――スヴァットは殴られたかったんだ。
喝を入れてほしかった。
そう、思うのは都合が良すぎるだろうか。
無理矢理そんな風に結論付けないと、シェスティンは眠れそうになかった。背中にぴたりと寄り添う温かさは、寝返りも打たせないための嫌がらせなのかも。
温もりが恋しいのは寒いから。春が来れば毛皮はもういらない。
暖かいうちに解けるものなら全てを解いてしまって、離れてしまうのがシェスティンは一番いい気がしていた。
もしもスヴァットが呪いを解くのを諦めると言ったら――
シェスティンは、ほんの少しの間だけ温もりという幸せを手に入れることが出来るのだろうか? 先に待つ、永遠の別れを視野に収めながら、月夜に語らうことを続けるのだろうか?
彼を思い出す青い瞳を、いつまで冷静に見ていられるのだろう。
――この姿の俺を、もう手放せやしないんだから――
それは、彼がそのままでいたいという意味ではない。
あれはシェスティンに別れを感じさせないために口に出されたに過ぎない。
別れはやってくる。
時は誰の上にも平等に流れている。
シェスティン以外
の全てには――スヴァットはシェスティンの背中にぴたりと身を寄せて、その少し早い鼓動を聞いていた。
床に叩きつけられて右半身がずきずきいってるけど、朝には何とかなるだろう。
シェスティンは最後まで付き合う、と言ったけど、あの時彼女は正確には
付き合える
と言ったのだ。彼女が黒猫に付き合うのはあくまでも暇潰しのはずだった。それを、今更義務にはしたくなかった。
死なない人間なんて、なんて便利なんだろう。
最初にそう思った自分をスヴァットは恥じた。
彼女を知るほど、彼女の傍にいてやりたい気持ちと、彼女を解放してやりたい気持ちがせめぎ合う。『人魚の涙』を手に入れてしまった今なら、ひとりでも『始まりの剣』を探せるだろう。
彼女が必要なのは猫の自分で、人の姿に戻ってまで傍にいようとすれば、彼女の呪いに巻き込まれるかもしれない。それは彼女も望まない。
かといって呪いを解くことをやめて猫の姿を受け入れるのなら、彼女にそれ以上付きあわせる理由がなかった。
例え彼女が望んだとして、己の寿命が尽きるまでを生温く一緒に生きることが、彼女の幸せとは思えない。
ましてや、分離しかかっている不安定な自分をスヴァットは信用できないのだ。
キツイ一発をもらえば目が覚めるかと思ったけど、世の中そんなに甘くはなかった。
思い通りに怒らせたのに、怒って背を向けるシェスティンをごめんと抱き締めたくなった。小さな体では手の長ささえ全然足りない。
離れぬ身体に許されてるのだと知ると、ますます離れ難くなってる。
彼女が欲しい温もりも、彼女に必要なのも、『俺』じゃないのに――