3-11 男に意気地はない
文字数 5,665文字
パートから詳細を聞いた時、シェスティンはその娘が人魚なのではないかと疑っていた。
口を利かない、逃げ出そうとする。
本人に会って、涙を隠す様子にそれは確信に変わりかけていた。
だが。
スヴァットを見て悲鳴を上げ、流暢に言葉を紡ぐ姿に確信は揺らぐ。
人魚も呪いが見えるのか。
「どう思う?」という彼女の問いに、スヴァットは判らないと首を振るだけ。涙が見えれば、判るかもしれないと。
「バスルームも微かに潮の香が残ってることがあるんだがなぁ」
トイレとはカーテンで仕切られるようになっているだけなので、時々使用するのだが、綺麗に掃除されているようで、どこかにこびりついているのかもしれない。
宙を睨むシェスティンにスヴァットは同意して見せた。
モーネに会えないのは十日程度だがそれがなんとももどかしい。会ったところで自由に会話など出来ないのだが。隠しているなら彼女も積極的に話そうとはしないだろう。
モーネを連れて逃げることも一瞬考えたが、そうすると確実にトーレに迷惑がかる。モーネがどこに行きたいのか、海に帰りたいのかも分かっていない。結局、時間をかけて彼女に教えることが一番堅実と言えた。
文字を覚えさせて筆談が出来るようになれば、あるいは?
今はその可能性に賭けるしかなかった。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
年明けにリリェフォッシュ家に顔を出し、当主と
メシュヴィッツ家に通っている事に遠回しに嫌味も言われたが、早々にトーレが助け船を出してくれて、彼の部屋に案内された。
「下世話な想像されるのは嫌かもしれないが、我慢してくれ。多分、これが一番手っ取り早いというか……」
部屋に入るなり言い訳じみたことを言うトーレを、シェスティンの腕の中のスヴァットが半眼で見上げる。
「大丈夫だ。そもそも、この話を持ち込んだのはワタシだしな。あっちの息子との関係を疑われるよりはいい。めったに顔も合わせないんだ」
ぐるりと部屋の中を見渡しながら、シェスティンは中程まで進んで行く。部屋の窓側中央付近にベッドが仕切りのように置いてあり、暖炉の前には応接室のようなテーブルとソファ。ベッドの傍にごつい執務机があって、奥の方には作り付けの本棚にびっちりと本が並んでいた。スヴァットが来た時に比べて、少し物が増えているかもしれない。
トーレはほっとしたように彼女の後に続く。
彼が暖炉の方に彼女を誘導しようとした時、カタカタと何かが震えた。顔を上げて首を巡らすシェスティンは次の瞬間ぐらりと揺れた床にバランスを崩しそうになった。
とっさに後ろから手を出したトーレに何か感じたのか、彼女は身を捩るようにしてその手を避け彼を振り返り、バランスを崩して後ろに倒れ込む。倒れまいと数歩後退さるその身体をほとんど無意識に彼は追った。
伸ばされた手を振り払い、シェスティンは倒れることの方を選んだ。地は意外に近く、ふわりと柔らかい。勢いがつきすぎたのか、揺れに足をとられたのか、トーレも彼女に覆いかぶさるように倒れてきた。かろうじて触れぬ距離で彼の手がベッドを沈み込ませる。
起き上がろうと体を離しかけた彼は彼女と目が合うと一瞬その動きを止めた。それから小さな揺れの中、片膝もベッドにつき、シェスティンの顔を覗き込むように体重を移動させる。茶がかった緑の瞳はシェスティンを閉じ込めるかのように微動だにしない。彼の向こうに小さく揺れるシャンデリアが見えた。
「トーレ……」
「……まだ揺れてる」
「トーレ。振り払ったりして悪かった」
「解ってる」
「触れないでくれ」
いつの間にかシェスティンの手にナイフが握られている。トーレの首にそれが当てられても、彼は臆する様子もなかった。至近距離で見つめ合う二人の傍にシェスティンの腕の中から飛び出していたスヴァットが戻ってくる。
「……死んでもいいと言ったヤツは?」
「いないと思うか?」
そろりとスヴァットは男にいつでも飛びかかれる位置まで近づく。大分揺れは収まっていた。
「どうなった?」
「望み通り、
「シェス。俺は死なない」
「そう、言って!」
「違う」
揺れが収まると、トーレは迷わずナイフを握っている彼女の腕を取り、自らの身体と共に引き起こした。
「臆病なんだ。死にたくない。猫君の出番はないよ」
すぐに手を離して、トーレはスヴァットに笑って見せた。
スヴァットは目を伏せて面白くなさそうに低く唸っている。
「それ、でも。保証はないんだ。やめてくれ」
「仕方ないじゃないか。身体が勝手に動くんだ。誰かを助けたくて医者を目指して、薬師でもそれができるかもと思い始めてる。振り払われてもいいんだ。手を差し伸べることもやめろと言わないでくれ」
「……トーレ」
「大丈夫。友達以上は望まない。それでも好きな人を守りたいと思うのはおかしいことじゃないだろう? 例え、その人が自分よりずっと強くて、助けなんて必要ないのだとしても。猫君なら、解ってくれるような気がするんだが」
急に話題を振られたスヴァットはトーレの視線を受け取ると、ふいと目を逸らした。
「賛同してくれないのか? それとも、君は好きなだけ彼女に触れられるから、関係ないのかな」
にゃー、と視線を戻して鳴いた声はイエスの響きもノーの響きも伴っていなかった。
「こんな時ばかり普通の猫の振りをするんだな」
苦笑するトーレにシェスティンは少なからず驚いた。
「……友人にナイフを突きつける女も、普通じゃない猫も、もっと嫌がってくれ」
「シェス。嫌われたいなら、突きつけるだけじゃダメだ。あれは俺を守るためのナイフだったろう?」
「………………」
迷いのなくなった彼の瞳には兄に似た聡明さが見える。歯車さえ噛み合っていれば、あの頼りない行商の薬師はどこにも見つからないのかもしれない。
シェスティンは所在無げに手の中で遊ばせていたナイフを仕舞う。たくし上げられるスカートから視線を逸らし、トーレは用意されていたティーポットからお茶を注いだ。
「クリスマスの頃にも揺れたな。さっきのよりは小さかったが。あの時は、どこに?」
「……メシュヴィッツの、別棟に。それで、少し教えてる子と仲良くなれた」
促され、ソファに移動する。ご丁寧にスヴァット用のミルクも用意されているようだ。
「毎日行ってるんだろ?」
「ああ。休息日以外は午後から、毎日」
「……帰り、迎えに行こうか?」
「あなたにも、仕事があるだろう?」
「そうだな……じゃぁ、週に一度。うちの馬車を使えば、両家公認なんだってアピールできるし、妙な噂もなくなるだろう」
「すまない……そこまで考えてなかった」
「俺は、別に。君と婚約してる訳でもないんだし、家として気にする必要はないんだが、向こうがもったいぶって誤解させるような態度をとってるんだ。釘を刺すくらいしてやらないと兄としても面白くないだろうさ」
軽く肩を竦めて笑うトーレに、シェスティンはそっと頭を下げた。
「やめてくれ。俺も君に会える口実ができる。下心がない訳じゃない」
頭を下げたまま、視線だけをトーレに向けると、彼はにやりと笑っていた。場の空気を軽くするために言ったのかもしれないが、油断していると彼に囚われそうな気がする。シェスティンは兄弟だな、と小さく呟いて改めて気を引き締めた。
「では、休息日の前日にお願いしよう。屋敷の者には伝えるが、その前に連絡が必要なら何とかしてくれ」
「ああ、そうする。もちろん、その日は飯くらい一緒してくれるんだろう?」
「堅苦しいのばかりじゃなきゃな。猫を被り続けるのは疲れるんだ」
にゃぁん、と可愛らしい声が響いた。
スヴァットは口元のミルクを舐めとり、小首を傾げて色違いの丸い目をシェスティンに向ける。
「わかった。猫を被らせたらお前の右に出るものはいないよ。お疲れ様」
投げやりなシェスティンの言葉に、可愛らしい黒猫はすぐに仏頂面へと表情を変えて鼻息をひとつ吹き出すのだった。
カップにお茶がなくなると、トーレは袖のカフスをとり、上着も脱いで「少しそっちの部屋にこもるから自由にしてて」と隣の部屋に続くドアを潜って行った。
恋人と共にいるのなら失礼極まりない気はするが、逆にシェスティンに気を使ったのかもしれない。その距離感がありがたくもあり、申し訳なくもあった。
自由に、と言われても暇を潰せそうなものは大量の本くらいしかない。本棚に近付いてざっと眺めて見る。予想通りほとんどが医学・薬学関係の本だった。適当に手に取り開いてみると、そこかしこにラインやメモが記してある。昔の物なのか最近の物かは判断がつかないが、真面目に勉強しているのだろう。
それを戻し入れ、読めそうな物を探す。「毒草一覧」というものがイラスト入りで旅する上でも役に立ちそうだったので、それを持って暖炉の前に戻り、スヴァットと一緒に眺めることにした。
もう二冊ほど目を通したところで、ドアが勢いよく開き、トーレが慌てたように戻ってきた。
「すまない! 本当に少しのつもりで……」
白衣を着て薬品の匂いをさせているということは、隣の部屋は調合室のような感じなのかもしれない。
「問題無い。面白い日記を見つけて拝見させてもらってた」
「っえ!?」
執務机の方を慌てたようにトーレが振り返ったので、シェスティンはくすくすと笑い、スヴァットは半眼でにゃうん、と鳴いた。
「冗談だ。日記、つけてるのか?」
「あ……いや、なんだ。やめてくれ。昔は、つけてたんだ」
やっと気づいたように白衣を脱ぎつつ、トーレは小さく息を吐いた。
「すぐ暗くなる。送ってく」
「歩きでもいいか? 病院の近くは通りたくないから、ちょっと遠回りになるんだが……」
「いいぞ。どこか寄るのか?」
「いや。雪も降ってないし、歩きたい気分なんだ」
分かったと、慌ただしく身支度をして、二人と一匹は屋敷を後にする。雲の多い夕暮れ空を見ながら歩く雪道はきゅっきゅっと音を立てるものの、他の音は全て吸い込まれてどこまでも静かだ。
「シェス。そろそろ彼も退院できるはずだ。本当に会わなくていいのか?」
踏み固められて出来た細い道をシェスティンの少し後からトーレはついていく。スヴァットは彼女の腕の中で暖を提供していた。
「前にも言っただろう? ワタシは死んだことになってる。彼の前に出るのはまずい」
「でも、生きてると分かれば――」
「ワタシは彼の亡くなった妹に似ているらしい。まだ気持ちの整理もついてなさそうだった。会わない方がいい」
トーレは続く言葉を一度飲み込み、恐る恐るという風に絞り出す。
「俺の前からもそうやって……」
シェスティンは立ち止まってからゆっくりと振り返った。
「あなたには約束したじゃないか。ワタシは死んだりしない。あなたに店を持たせ、鱗を提供する。だから、あなたは信じて待っていればいい」
「追いかけてはダメか」
「追われると逃げたくなる」
「……難しい」
「普通の女性は追いかけてやるといい」
苦笑して、シェスティンはまた歩き出した。溜息がついてくる。
「数年行方不明になったりするかもしれないが、ちゃんと行くから」
「俺は……酷い男だったんだな」
シェスティンが肩越しにちらりと振り返ると、トーレは足元に視線を落としていた。
「ただ待つということは、酷く辛い」
「そうだな」
「……相変わらず、厳しい」
トーレは自嘲気味に小さく笑う。
「心配するな。ワタシはもっと酷い」
「君が、酷い?」
「同室にしてもらった薬師に薬を盛ったり、親切に付け込んで金持ちのパーティに連れて行けと無茶を言ったり、助けようとしてくれている人物にナイフを突きつけたり」
「……酷いな」
ふふ、と笑いが重なる。
「それでもいい、なんて言う奴がいる。何事もタイミングと縁だ。ワタシは嘘は吐くが約束は守る。あなたにもらった時計に誓う。突然消えたとしても、いつかまた姿を見せよう」
「神に誓うのではないのか?」
「ワタシに神は見えない。私が知っている神に一番近い者は、ワタシに望まぬ呪いではない呪いを残した。そんなものに誓う言葉など無い」
それは彼女が思ったよりも硬く鋭い響きを伴っていて、シェスティンは眉を顰めた。
「すまない。皆が信じているものを否定しようという訳ではないんだ。ただ、ワタシには
腕の中でスヴァットが鳴く。両腕にも力が入っていたらしい。シェスティンは意識して深く息を吐き、力を抜いた。
遠い昔の事なのに、気が付くと隣に並んで彼女をじりじりと炙っている。意識してはいけない。飲み込まれてはだめだ。
「……昨日までは夢。明日からは幻。現在 だけを――」
トーレを振り返る。
「目の前のことだけを」
まずいことを言ったんじゃないかと、心配そうな男の顔が見えてシェスティンはほっとする。自分の立つ場所を確認して、腕の中の黒猫の体温も感じてまた前を向く。
「大丈夫だ。気にしないでくれ。時々、思い出したくないことを思い出してしまう。それだけだ。長い付き合いだ。対処法も分かってる。そういうもんだろう?」
「……そうだな」
上げかけた両腕をそっと下ろして、トーレはできるだけ明るい声を装った。
「シェス、出来ることには力を貸すから、もっと頼っていいんだぞ」
「そうか? ふふ。じゃあ、何か無茶振りを考えておこうかな」
「無茶……いや、俺の出来る範囲にしてくれ」
「なんだ。何でもしてくれるんじゃないのか」
「
「人を人でなしみたいに……」
言いながらくすくすと笑うシェスティンは、もういつもの彼女だった。
彼女を抱きしめようと、おそらく無意識に上げられた腕は彼女がそれを望まないと思い出されたところで止められた。彼の弱さは、彼の強さだ。
別れ際、シェスティンは彼から充分距離をとってから囁いた。
「トーレ、ありがとう」
辺りは静かだ。ぽつりぽつりと灯り始めた明かりの中で、彼のシルエットが小さく頷いたような気がした。
口を利かない、逃げ出そうとする。
本人に会って、涙を隠す様子にそれは確信に変わりかけていた。
だが。
スヴァットを見て悲鳴を上げ、流暢に言葉を紡ぐ姿に確信は揺らぐ。
人魚も呪いが見えるのか。
「どう思う?」という彼女の問いに、スヴァットは判らないと首を振るだけ。涙が見えれば、判るかもしれないと。
「バスルームも微かに潮の香が残ってることがあるんだがなぁ」
トイレとはカーテンで仕切られるようになっているだけなので、時々使用するのだが、綺麗に掃除されているようで、どこかにこびりついているのかもしれない。
宙を睨むシェスティンにスヴァットは同意して見せた。
モーネに会えないのは十日程度だがそれがなんとももどかしい。会ったところで自由に会話など出来ないのだが。隠しているなら彼女も積極的に話そうとはしないだろう。
モーネを連れて逃げることも一瞬考えたが、そうすると確実にトーレに迷惑がかる。モーネがどこに行きたいのか、海に帰りたいのかも分かっていない。結局、時間をかけて彼女に教えることが一番堅実と言えた。
文字を覚えさせて筆談が出来るようになれば、あるいは?
今はその可能性に賭けるしかなかった。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
年明けにリリェフォッシュ家に顔を出し、当主と
にこやかに
挨拶を交わす。メシュヴィッツ家に通っている事に遠回しに嫌味も言われたが、早々にトーレが助け船を出してくれて、彼の部屋に案内された。
「下世話な想像されるのは嫌かもしれないが、我慢してくれ。多分、これが一番手っ取り早いというか……」
部屋に入るなり言い訳じみたことを言うトーレを、シェスティンの腕の中のスヴァットが半眼で見上げる。
「大丈夫だ。そもそも、この話を持ち込んだのはワタシだしな。あっちの息子との関係を疑われるよりはいい。めったに顔も合わせないんだ」
ぐるりと部屋の中を見渡しながら、シェスティンは中程まで進んで行く。部屋の窓側中央付近にベッドが仕切りのように置いてあり、暖炉の前には応接室のようなテーブルとソファ。ベッドの傍にごつい執務机があって、奥の方には作り付けの本棚にびっちりと本が並んでいた。スヴァットが来た時に比べて、少し物が増えているかもしれない。
トーレはほっとしたように彼女の後に続く。
彼が暖炉の方に彼女を誘導しようとした時、カタカタと何かが震えた。顔を上げて首を巡らすシェスティンは次の瞬間ぐらりと揺れた床にバランスを崩しそうになった。
とっさに後ろから手を出したトーレに何か感じたのか、彼女は身を捩るようにしてその手を避け彼を振り返り、バランスを崩して後ろに倒れ込む。倒れまいと数歩後退さるその身体をほとんど無意識に彼は追った。
伸ばされた手を振り払い、シェスティンは倒れることの方を選んだ。地は意外に近く、ふわりと柔らかい。勢いがつきすぎたのか、揺れに足をとられたのか、トーレも彼女に覆いかぶさるように倒れてきた。かろうじて触れぬ距離で彼の手がベッドを沈み込ませる。
起き上がろうと体を離しかけた彼は彼女と目が合うと一瞬その動きを止めた。それから小さな揺れの中、片膝もベッドにつき、シェスティンの顔を覗き込むように体重を移動させる。茶がかった緑の瞳はシェスティンを閉じ込めるかのように微動だにしない。彼の向こうに小さく揺れるシャンデリアが見えた。
「トーレ……」
「……まだ揺れてる」
「トーレ。振り払ったりして悪かった」
「解ってる」
「触れないでくれ」
いつの間にかシェスティンの手にナイフが握られている。トーレの首にそれが当てられても、彼は臆する様子もなかった。至近距離で見つめ合う二人の傍にシェスティンの腕の中から飛び出していたスヴァットが戻ってくる。
「……死んでもいいと言ったヤツは?」
「いないと思うか?」
そろりとスヴァットは男にいつでも飛びかかれる位置まで近づく。大分揺れは収まっていた。
「どうなった?」
「望み通り、
みんな
帰らぬ人になった」「シェス。俺は死なない」
「そう、言って!」
「違う」
揺れが収まると、トーレは迷わずナイフを握っている彼女の腕を取り、自らの身体と共に引き起こした。
「臆病なんだ。死にたくない。猫君の出番はないよ」
すぐに手を離して、トーレはスヴァットに笑って見せた。
スヴァットは目を伏せて面白くなさそうに低く唸っている。
「それ、でも。保証はないんだ。やめてくれ」
「仕方ないじゃないか。身体が勝手に動くんだ。誰かを助けたくて医者を目指して、薬師でもそれができるかもと思い始めてる。振り払われてもいいんだ。手を差し伸べることもやめろと言わないでくれ」
「……トーレ」
「大丈夫。友達以上は望まない。それでも好きな人を守りたいと思うのはおかしいことじゃないだろう? 例え、その人が自分よりずっと強くて、助けなんて必要ないのだとしても。猫君なら、解ってくれるような気がするんだが」
急に話題を振られたスヴァットはトーレの視線を受け取ると、ふいと目を逸らした。
「賛同してくれないのか? それとも、君は好きなだけ彼女に触れられるから、関係ないのかな」
にゃー、と視線を戻して鳴いた声はイエスの響きもノーの響きも伴っていなかった。
「こんな時ばかり普通の猫の振りをするんだな」
苦笑するトーレにシェスティンは少なからず驚いた。
「……友人にナイフを突きつける女も、普通じゃない猫も、もっと嫌がってくれ」
「シェス。嫌われたいなら、突きつけるだけじゃダメだ。あれは俺を守るためのナイフだったろう?」
「………………」
迷いのなくなった彼の瞳には兄に似た聡明さが見える。歯車さえ噛み合っていれば、あの頼りない行商の薬師はどこにも見つからないのかもしれない。
シェスティンは所在無げに手の中で遊ばせていたナイフを仕舞う。たくし上げられるスカートから視線を逸らし、トーレは用意されていたティーポットからお茶を注いだ。
「クリスマスの頃にも揺れたな。さっきのよりは小さかったが。あの時は、どこに?」
「……メシュヴィッツの、別棟に。それで、少し教えてる子と仲良くなれた」
促され、ソファに移動する。ご丁寧にスヴァット用のミルクも用意されているようだ。
「毎日行ってるんだろ?」
「ああ。休息日以外は午後から、毎日」
「……帰り、迎えに行こうか?」
「あなたにも、仕事があるだろう?」
「そうだな……じゃぁ、週に一度。うちの馬車を使えば、両家公認なんだってアピールできるし、妙な噂もなくなるだろう」
「すまない……そこまで考えてなかった」
「俺は、別に。君と婚約してる訳でもないんだし、家として気にする必要はないんだが、向こうがもったいぶって誤解させるような態度をとってるんだ。釘を刺すくらいしてやらないと兄としても面白くないだろうさ」
軽く肩を竦めて笑うトーレに、シェスティンはそっと頭を下げた。
「やめてくれ。俺も君に会える口実ができる。下心がない訳じゃない」
頭を下げたまま、視線だけをトーレに向けると、彼はにやりと笑っていた。場の空気を軽くするために言ったのかもしれないが、油断していると彼に囚われそうな気がする。シェスティンは兄弟だな、と小さく呟いて改めて気を引き締めた。
「では、休息日の前日にお願いしよう。屋敷の者には伝えるが、その前に連絡が必要なら何とかしてくれ」
「ああ、そうする。もちろん、その日は飯くらい一緒してくれるんだろう?」
「堅苦しいのばかりじゃなきゃな。猫を被り続けるのは疲れるんだ」
にゃぁん、と可愛らしい声が響いた。
スヴァットは口元のミルクを舐めとり、小首を傾げて色違いの丸い目をシェスティンに向ける。
「わかった。猫を被らせたらお前の右に出るものはいないよ。お疲れ様」
投げやりなシェスティンの言葉に、可愛らしい黒猫はすぐに仏頂面へと表情を変えて鼻息をひとつ吹き出すのだった。
カップにお茶がなくなると、トーレは袖のカフスをとり、上着も脱いで「少しそっちの部屋にこもるから自由にしてて」と隣の部屋に続くドアを潜って行った。
恋人と共にいるのなら失礼極まりない気はするが、逆にシェスティンに気を使ったのかもしれない。その距離感がありがたくもあり、申し訳なくもあった。
自由に、と言われても暇を潰せそうなものは大量の本くらいしかない。本棚に近付いてざっと眺めて見る。予想通りほとんどが医学・薬学関係の本だった。適当に手に取り開いてみると、そこかしこにラインやメモが記してある。昔の物なのか最近の物かは判断がつかないが、真面目に勉強しているのだろう。
それを戻し入れ、読めそうな物を探す。「毒草一覧」というものがイラスト入りで旅する上でも役に立ちそうだったので、それを持って暖炉の前に戻り、スヴァットと一緒に眺めることにした。
もう二冊ほど目を通したところで、ドアが勢いよく開き、トーレが慌てたように戻ってきた。
「すまない! 本当に少しのつもりで……」
白衣を着て薬品の匂いをさせているということは、隣の部屋は調合室のような感じなのかもしれない。
「問題無い。面白い日記を見つけて拝見させてもらってた」
「っえ!?」
執務机の方を慌てたようにトーレが振り返ったので、シェスティンはくすくすと笑い、スヴァットは半眼でにゃうん、と鳴いた。
「冗談だ。日記、つけてるのか?」
「あ……いや、なんだ。やめてくれ。昔は、つけてたんだ」
やっと気づいたように白衣を脱ぎつつ、トーレは小さく息を吐いた。
「すぐ暗くなる。送ってく」
「歩きでもいいか? 病院の近くは通りたくないから、ちょっと遠回りになるんだが……」
「いいぞ。どこか寄るのか?」
「いや。雪も降ってないし、歩きたい気分なんだ」
分かったと、慌ただしく身支度をして、二人と一匹は屋敷を後にする。雲の多い夕暮れ空を見ながら歩く雪道はきゅっきゅっと音を立てるものの、他の音は全て吸い込まれてどこまでも静かだ。
「シェス。そろそろ彼も退院できるはずだ。本当に会わなくていいのか?」
踏み固められて出来た細い道をシェスティンの少し後からトーレはついていく。スヴァットは彼女の腕の中で暖を提供していた。
「前にも言っただろう? ワタシは死んだことになってる。彼の前に出るのはまずい」
「でも、生きてると分かれば――」
「ワタシは彼の亡くなった妹に似ているらしい。まだ気持ちの整理もついてなさそうだった。会わない方がいい」
トーレは続く言葉を一度飲み込み、恐る恐るという風に絞り出す。
「俺の前からもそうやって……」
シェスティンは立ち止まってからゆっくりと振り返った。
「あなたには約束したじゃないか。ワタシは死んだりしない。あなたに店を持たせ、鱗を提供する。だから、あなたは信じて待っていればいい」
「追いかけてはダメか」
「追われると逃げたくなる」
「……難しい」
「普通の女性は追いかけてやるといい」
苦笑して、シェスティンはまた歩き出した。溜息がついてくる。
「数年行方不明になったりするかもしれないが、ちゃんと行くから」
「俺は……酷い男だったんだな」
シェスティンが肩越しにちらりと振り返ると、トーレは足元に視線を落としていた。
「ただ待つということは、酷く辛い」
「そうだな」
「……相変わらず、厳しい」
トーレは自嘲気味に小さく笑う。
「心配するな。ワタシはもっと酷い」
「君が、酷い?」
「同室にしてもらった薬師に薬を盛ったり、親切に付け込んで金持ちのパーティに連れて行けと無茶を言ったり、助けようとしてくれている人物にナイフを突きつけたり」
「……酷いな」
ふふ、と笑いが重なる。
「それでもいい、なんて言う奴がいる。何事もタイミングと縁だ。ワタシは嘘は吐くが約束は守る。あなたにもらった時計に誓う。突然消えたとしても、いつかまた姿を見せよう」
「神に誓うのではないのか?」
「ワタシに神は見えない。私が知っている神に一番近い者は、ワタシに望まぬ呪いではない呪いを残した。そんなものに誓う言葉など無い」
それは彼女が思ったよりも硬く鋭い響きを伴っていて、シェスティンは眉を顰めた。
「すまない。皆が信じているものを否定しようという訳ではないんだ。ただ、ワタシには
それ
は昨日の事のようで……」腕の中でスヴァットが鳴く。両腕にも力が入っていたらしい。シェスティンは意識して深く息を吐き、力を抜いた。
遠い昔の事なのに、気が付くと隣に並んで彼女をじりじりと炙っている。意識してはいけない。飲み込まれてはだめだ。
「……昨日までは夢。明日からは幻。
トーレを振り返る。
「目の前のことだけを」
まずいことを言ったんじゃないかと、心配そうな男の顔が見えてシェスティンはほっとする。自分の立つ場所を確認して、腕の中の黒猫の体温も感じてまた前を向く。
「大丈夫だ。気にしないでくれ。時々、思い出したくないことを思い出してしまう。それだけだ。長い付き合いだ。対処法も分かってる。そういうもんだろう?」
「……そうだな」
上げかけた両腕をそっと下ろして、トーレはできるだけ明るい声を装った。
「シェス、出来ることには力を貸すから、もっと頼っていいんだぞ」
「そうか? ふふ。じゃあ、何か無茶振りを考えておこうかな」
「無茶……いや、俺の出来る範囲にしてくれ」
「なんだ。何でもしてくれるんじゃないのか」
「
何でも
なんて言ったら何をやらされるか怖いじゃないか」「人を人でなしみたいに……」
言いながらくすくすと笑うシェスティンは、もういつもの彼女だった。
彼女を抱きしめようと、おそらく無意識に上げられた腕は彼女がそれを望まないと思い出されたところで止められた。彼の弱さは、彼の強さだ。
別れ際、シェスティンは彼から充分距離をとってから囁いた。
「トーレ、ありがとう」
辺りは静かだ。ぽつりぽつりと灯り始めた明かりの中で、彼のシルエットが小さく頷いたような気がした。