3-4 愛に期限はない
文字数 5,020文字
次の休日にふたりがまた会う約束をして店を出ても、まだスヴァットは戻って来なかった。
「そういえば、猫君は?」
「どこかに遊びに行ったみたいだな。いいんだ。勝手に帰ってくるから」
「あ、じゃ、じゃあ送っていこう」
「途中まで、な」
ふふと笑うシェスティンに男は意気込んだ肩を下げた。
「危ないじゃないか。今日の見た目は、その、いつもより変な奴に狙われやすい」
「繁華街を抜けてしまえば、そうでもない。それに、暗がりで婦女子をかどわかそうなんて輩は少し減った方がいい」
はたと男は思い出す。彼女が呪われていると語ったことを。
先程まで普通のお嬢さんのように振舞っていたから、すっかり忘れていた。
「……俺は都合のいい男、か」
「そんなことはない。貴重な人材だ。うっかり死なせたくないくらいには」
男の溜息と共に零れた言葉を拾って、シェスティンはけれど眉尻を下げた。
「でも、すまない。ワタシはそういうココロも故郷に置いてきた。そこから動かない。友人以上を望みたいのであれば、もう会わない方がいいかもしれない。次を最後にしよう」
「さっきも思ったが、友人なら、また会えるのか?」
「あなたの薬師としての腕も目利きも確かだ。別に医師にこだわらなくてもいいんじゃないかと思うくらいには。ワタシには必要なくとも、ワタシの周りの誰かを助けられるなら、あなたと繋がっているのは悪くない」
少し考え込む男を置いて、シェスティンは歩き出す。
「どちらでもいい。あなたが迷惑にならない方を選べばいい」
灯りのもれる幾つもの酒場から聞こえる喧騒をBGMに、数歩後ろをついて歩きながら男はずっと黙っていた。
「じゃあ、この辺りで。次は港近くの人魚像で会おう」
「……保留で」
ん? とシェスティンは首を傾げる。
「いつもの君とは友達になれるかもしれない。でも、今夜の君ではちょっと、自信がない。酒も入ってる。だから……保留で」
「わかった。じゃあ、また。おやすみ。気を付けて」
「……なんだか立場が反対だ。気を付けて!」
がりがりと後頭部を掻きながら、男は弱気を振り払うように声に力を込めた。
スヴァットが崖の家に戻ってきたのは、全てが寝静まった夜更けだった。流石に疲れた様子だったので、さっと汚れを拭いてから、冷えた身体を抱いたままシェスティンは布団に入る。
スヴァットは何か話したそうだったが、今から聞くと眠れなくなりそうだった。
しっ、とスヴァットの口に手を当てて黙らせ、起きたら聞くからと冷たい体をさすってやる。黒猫の身体がぽかぽかとしてくる頃にはお互い夢の中にいた。
翌朝、いつもより少し遅く起きたシェスティン達は気合を入れてテーブルの上にアルファベット表を広げていた。
天気はそこそこだったけれど、変わりやすい空の機嫌をあてには出来ない。月が出るようならまた詳しく話そうという雰囲気だった。
メモ用の筆記用具を片手に、シェスティンは口火を切る。
「見つかったのか?」
んなぅ。とスヴァットは首を振った。
「じゃあ、手掛かりは」
どや顔が憎らしい。シェスティンもにやりと笑う。
『宝石』『裏』『取引』
黒猫が指すアルファベットを並べてメモしながら、シェスティンはありがちな話に軽く頷く。
『クリスマス』『パーティ』『メシュヴィッツ』
「メシュヴィッツ?」
シェスティンにはその名に覚えはなかった。
『ソープバブロール』『パトロン』
スヴァットが地図の方の建物を指す。『ソープバブロール』は有名な宝石店のひとつだ。最大手の『ハグリング』に追いつけ追い越せの勢いだとか。街角の何気ない噂話でも語られるくらいの所だ。
「……なるほど」
ぼんやりと『人魚の涙』への手掛かりが見える。
「スヴァット、もし、
『たぶん』
「次の休み、あの薬師に『人魚の涙 』を見に連れて行ってもらうことになってる。『ソープバブロール』にも行くから、見落とすなよ?」
スヴァットはちょっと驚いて、軽く首を傾げた。シェスティンもつられて首を傾げる。躊躇いがちに黒猫の手が動いた。
『恋人』『する』
きょとんと、思いがけない単語にシェスティンが目を見開いた。
「そんなんじゃない。彼が元々上流階級の人間なら、女性を伴って宝石店に行ったっておかしくないだろう? 昨日ちょっと目立つように強請 ったから、普段行かないような人間だったとしても不自然じゃないと思う」
『説明した?』
「友人以上にはなれないとは告げた。どのみち、ワタシの気持ちは動かないんだ」
ぱちぱちと黒猫の瞳が瞬く。
『どういう意味?』
「ワタシには婚約者がいた。まだ、普通に生きていたころ。彼とずっと一緒にいるつもりだったし、大好きだった。彼を失くして、全て失くして、そこでワタシの心は止まってる。きっと死ぬまで動かない」
スヴァットの瞳が左右に揺れてから、気まずそうに下を向く。
「気にしなくていい。ワタシも何度か試したんだ。でも、何年経とうがその気持ちは塗り替えられなくて。ああ、これも動いてないんだなと理解した。いくら心を寄せられても返せないし、命まで奪う。期待させない方がいいのは解ってるつもりだ」
スヴァットは彼女の手元に近寄り、そっと頭を擦り付けた。
「ありがとう。でも、彼にはもう少し手伝ってもらう必要がありそうだから、ちゃんと別の何かを用意するよ。巻き込みたくはないけど、少しは話さないとな」
休憩しようかと、シェスティンは温かい飲み物を淹れに立ち上がった。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
ふたたび約束の日、港近くの人魚の像の前で男は水平線を眺めながら待っていた。
久々に爽やかに晴れて、ウミネコが青い空をバックに忙しなく鳴いている。
彼はかれこれ半時ほどここに居るが、別にシェスティンが遅れている訳ではなかった。どこから聞きつけたのか、彼の兄が探りを入れてきたので煩わしくなって早めに出てきたのだ。始まる前に断られているとも言えない。
人魚像の台座に寄りかかり、嘆息する。ここの人魚は少し上向きで、その目に溜まる雨の滴が目尻から流れ出し、涙の痕のように見えていた。
どのみち、宝石店はおまけだ。薬を渡すのと、鍛冶屋を紹介するのがメインなのだから。
もし、ああもはっきり言われていなければ、自分は彼女をパートナーに選ぶだろうか。魅力的ではあるが、なんだかわからない呪いにかかっていて触れることも許されない。歳だってきっと随分離れている。それだけでも二の足を踏んだんじゃないだろうか。自分を、自分の薬を肯定してくれることは素直に嬉しいのだが。
一方で彼女のミステリアスな部分に強烈に惹かれているのも自覚している。自衛の為だけじゃなく、竜討伐に自ら参加するほど――生き残れるほど腕が立つのか。彼女を庇って傷ついたという男の傷は致命傷でもおかしくなかった。そんな場所からひとりだけ逃げ出せるものだろうか。彼女の持つ鱗の数を考えれば、おかしくもないのか? けれど彼女はハンターではないとも言っていた。好奇心は膨らむばかり。
『友人』と彼女は言った。
興味からでも、愛情からでも、細くでも繋がっていたいのなら、それを受け入れるしかないのだろう。それで納得しなければ。自分は猫になって彼女について行ける訳ではないのだから。
言い聞かせるように男は何度も頷く。
「やあ、待たせたかい? 早いな」
少し駆け足でやってきて、男に声を掛けるシェスティンは、酒場で会った時に比べてナチュラルな化粧に三つ編みを片側に流す見慣れた髪型だった。
服装はいいとこのお嬢様風だったが、見惚れて言葉を失うほどではない。男はほっとする。あの夜がやはり特別だったのだ。
「兄が余計な気を回すのが煩わしくて、勝手に早めに出てきたんだ」
「あぁ、もうお兄さんの耳に? 情報が早いな。それとも、あなたが常に見張られてるのかな」
シェスティンはちょっと可笑しそうに笑う。彼女に抱えられている黒猫が挨拶するように鳴いた。
「そうかもな。家名に傷をつけるような行動はするなといつも言われている。家名なんて名乗らないんだが、この街では顔が知られてるから……」
軽くシェスティンを促して、男は歩き出した。
「あまり誤解させるのも悪いな」
「放っておけばいい。俺は慣れっこだ。気にしない」
「……あなたのお兄さんはメシュヴィッツ家と交流はあるか?」
男は怪訝そうにシェスティンに目を向ける。この街の有力者のひとりの名を彼女が何故。
「まあ、ある程度は」
「なら、誤解も解けてあなたにも有益な話があるんだが、聞く気はあるか?」
「は?」
「きっと、お兄さんも納得してくれると思うが。一度、お兄さんと会わせてくれないか。ワタシは両親を亡くしてその遺産を受け取った田舎貴族の娘、ということで」
何をするつもりだと、呆れたように男がシェスティンを見つめる。
「君の言うことは、いつも突拍子がない」
「退屈しないだろう?」
その通りなので、男は答えに詰まる。
「……心臓に悪い」
「うっかり触れたりしなければ、止まるまでは至らないと思うが」
「怖いことを言わないでくれ」
「ふふ。後で何か食べる時に少し説明するから」
『ソープバブロール』の入り口前で、シェスティンは田舎貴族の娘の仮面を速やかに被り、男の開けてくれたドアを楚々として潜ったのだった。
店内は煌びやかな世界だった。一番目立つ場所にこの街の特産品であるところの『人魚の涙 』がショーケースの向こうに並んでいる。加工前の物、指輪やネックレス、ブレスレットに髪飾り。大きさもピンキリで形も様々。もちろん値段も様々だ。
ルビーにサファイア、エメラルドにクリスタル、ダイヤモンド。他のショーケースの中もカラフルに彩られていた。シェスティンはひとつひとつをスヴァットを抱えたまま丁寧に覗いていく。少し後ろから黙って見守っている男に、店員が営業的な微笑みを投げかけていた。
元の真珠のケースまで戻ってくると、男は店員にいくつか指差してケースから出してくれるようお願いする。
シェスティンは一緒になってケースを覗く黒猫を撫でていた。
取り出されるアクセサリーに特に気を向けるでもなく、どちらかというと品定めするようにケースの中を凝視する彼女に、男は苦笑しながら小振りの髪飾りを手に取った。少し屈んでケースに顔を寄せているその編まれた亜麻色の髪の根元にそっと差し込む。
彼女が驚いた顔で男を振り返る様が素に戻っていて、彼は少しだけ満足した。
「お似合いですよ」
店員が鏡をシェスティンに向け、少し半端だったそれをきっちりと差し込む。小さな真珠を幾つか繋いだ物が房となっていて、動くとそれらがぶつかり合い、しゃらしゃらと微かな音がする。
「これを」
「……っい…………」
さらに驚いて、いらないと言いそうになったのを、彼女はなんとか抑え込んだ。そのままはにかんだように顔を伏せたのは、演技だったのかもしれない。
店を出て次の店に向かう間、シェスティンは男を責めるような口調だった。
「買うなら自分で買ったのに」
「おいおい。あの流れで俺が払わないなんて『恥をかかせるな』って兄に怒鳴られる」
「他にも回るのに、全部の店でそうするつもりか?」
「ひとつ着けていれば、それ以上気にいる物が無かったんだろうって勝手に思ってくれるさ。それに、あの店はメシュヴィッツが投資してる。何をしたいのか知らないが、少しでも関わりがあった方がいいんじゃないのか?」
小さくはっとして、シェスティンは黒猫を見下ろした。
「……後で、払う」
「たまには見栄を張らせてくれよ。俺が買えるくらいの物しか選んでないんだから」
苦笑する男に、シェスティンはただ黙り込んだ。次の店が目の前だということもあったのかもしれない。
「あまり深く考えなくても。兄へのいい牽制になる」
シンプルなドアの、複雑な装飾の施された取っ手に手をかけて言う男に、シェスティンは疑わしそうな視線を向けた。
「こちらに興味のない相手に一方的に入れあげてるとなれば、他の女は紹介し難いだろう? あの一件以来、妙に気を使われるのが嫌なんだよ」
「ワタシは気を持たせて貢がせる嫌な女か」
憮然としたシェスティンに男は笑う。
「そう言われると、真逆だな。少しの希望もへし折られて、貢がせてももらえない」
眉を顰めたまま少し頬を上気させて入店した彼女を、店員の明るい声が迎え入れた。
「そういえば、猫君は?」
「どこかに遊びに行ったみたいだな。いいんだ。勝手に帰ってくるから」
「あ、じゃ、じゃあ送っていこう」
「途中まで、な」
ふふと笑うシェスティンに男は意気込んだ肩を下げた。
「危ないじゃないか。今日の見た目は、その、いつもより変な奴に狙われやすい」
「繁華街を抜けてしまえば、そうでもない。それに、暗がりで婦女子をかどわかそうなんて輩は少し減った方がいい」
はたと男は思い出す。彼女が呪われていると語ったことを。
先程まで普通のお嬢さんのように振舞っていたから、すっかり忘れていた。
「……俺は都合のいい男、か」
「そんなことはない。貴重な人材だ。うっかり死なせたくないくらいには」
男の溜息と共に零れた言葉を拾って、シェスティンはけれど眉尻を下げた。
「でも、すまない。ワタシはそういうココロも故郷に置いてきた。そこから動かない。友人以上を望みたいのであれば、もう会わない方がいいかもしれない。次を最後にしよう」
「さっきも思ったが、友人なら、また会えるのか?」
「あなたの薬師としての腕も目利きも確かだ。別に医師にこだわらなくてもいいんじゃないかと思うくらいには。ワタシには必要なくとも、ワタシの周りの誰かを助けられるなら、あなたと繋がっているのは悪くない」
少し考え込む男を置いて、シェスティンは歩き出す。
「どちらでもいい。あなたが迷惑にならない方を選べばいい」
灯りのもれる幾つもの酒場から聞こえる喧騒をBGMに、数歩後ろをついて歩きながら男はずっと黙っていた。
「じゃあ、この辺りで。次は港近くの人魚像で会おう」
「……保留で」
ん? とシェスティンは首を傾げる。
「いつもの君とは友達になれるかもしれない。でも、今夜の君ではちょっと、自信がない。酒も入ってる。だから……保留で」
「わかった。じゃあ、また。おやすみ。気を付けて」
「……なんだか立場が反対だ。気を付けて!」
がりがりと後頭部を掻きながら、男は弱気を振り払うように声に力を込めた。
スヴァットが崖の家に戻ってきたのは、全てが寝静まった夜更けだった。流石に疲れた様子だったので、さっと汚れを拭いてから、冷えた身体を抱いたままシェスティンは布団に入る。
スヴァットは何か話したそうだったが、今から聞くと眠れなくなりそうだった。
しっ、とスヴァットの口に手を当てて黙らせ、起きたら聞くからと冷たい体をさすってやる。黒猫の身体がぽかぽかとしてくる頃にはお互い夢の中にいた。
翌朝、いつもより少し遅く起きたシェスティン達は気合を入れてテーブルの上にアルファベット表を広げていた。
天気はそこそこだったけれど、変わりやすい空の機嫌をあてには出来ない。月が出るようならまた詳しく話そうという雰囲気だった。
メモ用の筆記用具を片手に、シェスティンは口火を切る。
「見つかったのか?」
んなぅ。とスヴァットは首を振った。
「じゃあ、手掛かりは」
どや顔が憎らしい。シェスティンもにやりと笑う。
『宝石』『裏』『取引』
黒猫が指すアルファベットを並べてメモしながら、シェスティンはありがちな話に軽く頷く。
『クリスマス』『パーティ』『メシュヴィッツ』
「メシュヴィッツ?」
シェスティンにはその名に覚えはなかった。
『ソープバブロール』『パトロン』
スヴァットが地図の方の建物を指す。『ソープバブロール』は有名な宝石店のひとつだ。最大手の『ハグリング』に追いつけ追い越せの勢いだとか。街角の何気ない噂話でも語られるくらいの所だ。
「……なるほど」
ぼんやりと『人魚の涙』への手掛かりが見える。
「スヴァット、もし、
本物の
『人魚の涙』が店頭に並べてあったら見分けられるか?」『たぶん』
「次の休み、あの薬師に『
スヴァットはちょっと驚いて、軽く首を傾げた。シェスティンもつられて首を傾げる。躊躇いがちに黒猫の手が動いた。
『恋人』『する』
きょとんと、思いがけない単語にシェスティンが目を見開いた。
「そんなんじゃない。彼が元々上流階級の人間なら、女性を伴って宝石店に行ったっておかしくないだろう? 昨日ちょっと目立つように
『説明した?』
「友人以上にはなれないとは告げた。どのみち、ワタシの気持ちは動かないんだ」
ぱちぱちと黒猫の瞳が瞬く。
『どういう意味?』
「ワタシには婚約者がいた。まだ、普通に生きていたころ。彼とずっと一緒にいるつもりだったし、大好きだった。彼を失くして、全て失くして、そこでワタシの心は止まってる。きっと死ぬまで動かない」
スヴァットの瞳が左右に揺れてから、気まずそうに下を向く。
「気にしなくていい。ワタシも何度か試したんだ。でも、何年経とうがその気持ちは塗り替えられなくて。ああ、これも動いてないんだなと理解した。いくら心を寄せられても返せないし、命まで奪う。期待させない方がいいのは解ってるつもりだ」
スヴァットは彼女の手元に近寄り、そっと頭を擦り付けた。
「ありがとう。でも、彼にはもう少し手伝ってもらう必要がありそうだから、ちゃんと別の何かを用意するよ。巻き込みたくはないけど、少しは話さないとな」
休憩しようかと、シェスティンは温かい飲み物を淹れに立ち上がった。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
ふたたび約束の日、港近くの人魚の像の前で男は水平線を眺めながら待っていた。
久々に爽やかに晴れて、ウミネコが青い空をバックに忙しなく鳴いている。
彼はかれこれ半時ほどここに居るが、別にシェスティンが遅れている訳ではなかった。どこから聞きつけたのか、彼の兄が探りを入れてきたので煩わしくなって早めに出てきたのだ。始まる前に断られているとも言えない。
人魚像の台座に寄りかかり、嘆息する。ここの人魚は少し上向きで、その目に溜まる雨の滴が目尻から流れ出し、涙の痕のように見えていた。
どのみち、宝石店はおまけだ。薬を渡すのと、鍛冶屋を紹介するのがメインなのだから。
もし、ああもはっきり言われていなければ、自分は彼女をパートナーに選ぶだろうか。魅力的ではあるが、なんだかわからない呪いにかかっていて触れることも許されない。歳だってきっと随分離れている。それだけでも二の足を踏んだんじゃないだろうか。自分を、自分の薬を肯定してくれることは素直に嬉しいのだが。
一方で彼女のミステリアスな部分に強烈に惹かれているのも自覚している。自衛の為だけじゃなく、竜討伐に自ら参加するほど――生き残れるほど腕が立つのか。彼女を庇って傷ついたという男の傷は致命傷でもおかしくなかった。そんな場所からひとりだけ逃げ出せるものだろうか。彼女の持つ鱗の数を考えれば、おかしくもないのか? けれど彼女はハンターではないとも言っていた。好奇心は膨らむばかり。
『友人』と彼女は言った。
興味からでも、愛情からでも、細くでも繋がっていたいのなら、それを受け入れるしかないのだろう。それで納得しなければ。自分は猫になって彼女について行ける訳ではないのだから。
言い聞かせるように男は何度も頷く。
「やあ、待たせたかい? 早いな」
少し駆け足でやってきて、男に声を掛けるシェスティンは、酒場で会った時に比べてナチュラルな化粧に三つ編みを片側に流す見慣れた髪型だった。
服装はいいとこのお嬢様風だったが、見惚れて言葉を失うほどではない。男はほっとする。あの夜がやはり特別だったのだ。
「兄が余計な気を回すのが煩わしくて、勝手に早めに出てきたんだ」
「あぁ、もうお兄さんの耳に? 情報が早いな。それとも、あなたが常に見張られてるのかな」
シェスティンはちょっと可笑しそうに笑う。彼女に抱えられている黒猫が挨拶するように鳴いた。
「そうかもな。家名に傷をつけるような行動はするなといつも言われている。家名なんて名乗らないんだが、この街では顔が知られてるから……」
軽くシェスティンを促して、男は歩き出した。
「あまり誤解させるのも悪いな」
「放っておけばいい。俺は慣れっこだ。気にしない」
「……あなたのお兄さんはメシュヴィッツ家と交流はあるか?」
男は怪訝そうにシェスティンに目を向ける。この街の有力者のひとりの名を彼女が何故。
「まあ、ある程度は」
「なら、誤解も解けてあなたにも有益な話があるんだが、聞く気はあるか?」
「は?」
「きっと、お兄さんも納得してくれると思うが。一度、お兄さんと会わせてくれないか。ワタシは両親を亡くしてその遺産を受け取った田舎貴族の娘、ということで」
何をするつもりだと、呆れたように男がシェスティンを見つめる。
「君の言うことは、いつも突拍子がない」
「退屈しないだろう?」
その通りなので、男は答えに詰まる。
「……心臓に悪い」
「うっかり触れたりしなければ、止まるまでは至らないと思うが」
「怖いことを言わないでくれ」
「ふふ。後で何か食べる時に少し説明するから」
『ソープバブロール』の入り口前で、シェスティンは田舎貴族の娘の仮面を速やかに被り、男の開けてくれたドアを楚々として潜ったのだった。
店内は煌びやかな世界だった。一番目立つ場所にこの街の特産品であるところの『
ルビーにサファイア、エメラルドにクリスタル、ダイヤモンド。他のショーケースの中もカラフルに彩られていた。シェスティンはひとつひとつをスヴァットを抱えたまま丁寧に覗いていく。少し後ろから黙って見守っている男に、店員が営業的な微笑みを投げかけていた。
元の真珠のケースまで戻ってくると、男は店員にいくつか指差してケースから出してくれるようお願いする。
シェスティンは一緒になってケースを覗く黒猫を撫でていた。
取り出されるアクセサリーに特に気を向けるでもなく、どちらかというと品定めするようにケースの中を凝視する彼女に、男は苦笑しながら小振りの髪飾りを手に取った。少し屈んでケースに顔を寄せているその編まれた亜麻色の髪の根元にそっと差し込む。
彼女が驚いた顔で男を振り返る様が素に戻っていて、彼は少しだけ満足した。
「お似合いですよ」
店員が鏡をシェスティンに向け、少し半端だったそれをきっちりと差し込む。小さな真珠を幾つか繋いだ物が房となっていて、動くとそれらがぶつかり合い、しゃらしゃらと微かな音がする。
「これを」
「……っい…………」
さらに驚いて、いらないと言いそうになったのを、彼女はなんとか抑え込んだ。そのままはにかんだように顔を伏せたのは、演技だったのかもしれない。
店を出て次の店に向かう間、シェスティンは男を責めるような口調だった。
「買うなら自分で買ったのに」
「おいおい。あの流れで俺が払わないなんて『恥をかかせるな』って兄に怒鳴られる」
「他にも回るのに、全部の店でそうするつもりか?」
「ひとつ着けていれば、それ以上気にいる物が無かったんだろうって勝手に思ってくれるさ。それに、あの店はメシュヴィッツが投資してる。何をしたいのか知らないが、少しでも関わりがあった方がいいんじゃないのか?」
小さくはっとして、シェスティンは黒猫を見下ろした。
「……後で、払う」
「たまには見栄を張らせてくれよ。俺が買えるくらいの物しか選んでないんだから」
苦笑する男に、シェスティンはただ黙り込んだ。次の店が目の前だということもあったのかもしれない。
「あまり深く考えなくても。兄へのいい牽制になる」
シンプルなドアの、複雑な装飾の施された取っ手に手をかけて言う男に、シェスティンは疑わしそうな視線を向けた。
「こちらに興味のない相手に一方的に入れあげてるとなれば、他の女は紹介し難いだろう? あの一件以来、妙に気を使われるのが嫌なんだよ」
「ワタシは気を持たせて貢がせる嫌な女か」
憮然としたシェスティンに男は笑う。
「そう言われると、真逆だな。少しの希望もへし折られて、貢がせてももらえない」
眉を顰めたまま少し頬を上気させて入店した彼女を、店員の明るい声が迎え入れた。