3-3 その席に待ち人はない
文字数 4,991文字
次の日は雨も上がって久々に薄日が差していた。
渋るシェスティンに引っ付いて、いつもは行かない高級店に足を踏み入れると、スヴァットは追い出されないように出来るだけ行儀よく振舞った。
常にシェスティンから離れず、彼女が立ち止まればその足元に背筋を伸ばして座り込む。商品に手を出すなんてもっての外だった。
初めは嫌そうに眉を顰めていた店員達も、その振舞いに徐々に打ち解け、しまいにはベルベットの赤い薔薇の付いたチョーカーを彼の首に巻いて勧めてくる始末だ。
心配していたシェスティンのセンスも特に酷いものではなかったが、やや古臭い物を選びがちなので、その都度流行を取り入れたものに修正させる。あまり目立ちたい訳でもないので形の奇抜さよりは刺繍やレースなどで高級感を出したものにして、品のいい紺色のショールをつけた。
彼女とは店を出たところで別れ、スヴァットは病院に向かう。男の様子を見て、看護師と追いかけっこしながら隙を見てカードを届ける。簡単なお仕事だった。
家に帰ると、テーブルの上に子供が使うようなイラスト付きのアルファベット表が広げてあって、簡単な会話の補足に指し示せとシェスティンに促される。確かにこれなら単語くらい伝えられそうだ。
「夕飯、何食べたい?」
『魚』
『焼く』
などとくだらない会話で練習して、時間はかかるが、ある程度伝わることがわかってお互い満足した。簡単な質問なら、これでスヴァット側からも出来る。
聞きたいことは色々あるが、それはこんな表じゃまどろっこしいことばかりだ。話してくれるとも限らない。シェスティンにしてみればスヴァットの一生など、ほんの束の間の出来事にすぎないのだから。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
約束の日の夜、シェスティンは髪を結い上げ、化粧をし、いつもより大人びた服装で待ち合わせの酒場 に向かった。わざと時間を遅らせて、ひとりで待つことのないようにする。
ドアを開けた時、数人が入口を振り返ったが、シェスティンは待ち合わせ相手を見つけられないようだった。その眉間に小さく皺が寄る。
仕方なさそうにカウンターに足を運び、先にひとりで飲んでいる男から二つ離れた席に腰掛ける。
「おひとりですか?」
「待ち合わせよ。ワインくださる?」
シェスティンが店員に声を掛けられている間に、スヴァットは隣の男の元へと近寄って膝に乗った。
「あら。失礼。スヴァット、だめ、よ?」
上品な貴婦人らしく、スヴァットを嗜める彼女の仕種を、その男は石像のように固まって凝視していた。黒猫が腿をぺしりと叩くと、彼は唾を飲み込み、上ずった声で話し出す。
「あな……貴女の、猫、ですか」
「ええ。ごめんなさい。いつもはイイコなんですけど……」
呆れたようなスヴァットの顔を見て、シェスティンは首を傾げた。目で何やってんだ! って怒ってるけど、それはスヴァットが言いたいセリフだった。
いや、薄々そうじゃないかな、とは思ってたけれど。
男も、品のいい刺繍のあしらわれた茶系の上着にベスト、仕事の時にはしていなかったクラバットもしていて、止めているピンにあしらわれている黒い石は本物の宝石だろう。こういう店でも浮かない上流階級の人間にちゃんと見える。うだつの上がらない行商のイメージなんて欠片もないのだから、シェスティンが気付かないのも無理からぬことなのかもしれない。
男の腹に手をかけて、なーん、と注意を促して、ようやくシェスティンは男の顔をまじまじと見つめた。それでもまだ疑問の表情がとれない辺り、もしかして彼女は人の顔を覚えていないんだろうか。
「……トーレです。お忘れかもしれませんが……シェス……」
自分の名が呼ばれそうになった辺りでシェスティンは慌てて手で制して、驚きと困惑を抱いたまま、店員に奥のテーブル席への移動を申し出ていた。
驚きと困惑は男の方にもありありと出ていて、とりあえず二人は言葉を交わす前に目の前のグラスを空ける。
これ、周囲には新手の見合いだと思われてるんじゃないだろうか。いくつか微笑ましそうな視線が飛んでくる。まぁ、それはそれで都合がいいんだろう。
二杯目のグラスが届く頃、スヴァットはこっちの仕事は終わったとばかりに、テーブルの下でさらに奥の入口を見張りはじめた。
「……失礼した。とりあえず、ワタシのことはシェス、と」
「いや。こちらこそ。猫君がいなければ分からなかった。……無事で、よかった」
スヴァットから顔は見えないが、男の足元がそわそわしていて落ち着かない。口調が戻ったのでシェスティンだと認識できたはずだが、それがまた見た目とのギャップを増長させたに違いない。
「……無事?」
不思議そうなシェスティンに男は続ける。
「竜討伐は終わったが、戦闘に参加した騎士団は全滅だと噂が……君が、それに興味を示していたと聞いたものだから」
「ああ」
思い出したという風に明るく(おそらく笑って)彼女は答えた。
「赤毛の彼女に聞いたのか。彼女、良かっただろ?」
思わず吹き出したスヴァットの近くに、男の手から零れたのか酒の滴がぽたぽたと落ちてきた。男はけほけほと咽せている。
なんだ、この面白劇場……
スヴァットは見張りよりよほど面白そうな空気を察知して、二人を観察しようと、もう一度ソファに登って座り込んだ。
グラスを手から離すことだけは阻止したらしい男に、シェスティンがハンカチを差し出している。男はそれを受け取るのも一瞬躊躇ったが、やがて諦めたような表情になるとそのハンカチで濡れた手や服を拭った。
「宿がなくて困ってたところを泊めてもらったんだ。ワタシもよくしてもらった」
「あ、は? え?」
今度は、はっきり顔を赤くして、男は動揺した。
「変な想像をするな。ワタシは風呂と飯と寝床をもらっただけだ」
「……あぁ」
「その時払った分が多いっていうから、あなたに会ったらその分サービスしてくれって言ってみたんだ。会うもんなんだな」
気まずそうについと目を逸らす男に少し同情する。
その上でこれが、シェスティンが話題を逸らそうと、あるいは男に気がないことを解らせようと計算してのことなら空恐ろしいと思う。天然なのかどうか、スヴァットには解りかねた。
それ以上なんとも言いようがないのか、男は黙り込んで量の減ったグラスに口をつける。シェスティンはどうということもなく話題を変えた。
「その、前にもらった傷薬と、剣を見せてもらえたらと思ってたんだが……その様子じゃ荷物は置いてきたんだよな? 今、どこに?」
丁度その時入ってきた数人の客が、何気なく彼女と男に視線を落とした。シェスティンは軽く居住まいを正す。
「――今は、」
「……リリェフォッシュ? やぁ、かの家の三男坊じゃないか」
数人のうちの一人が、そう声を掛けてきた。金はかかってそうだが、趣味の悪いごてごてとした装飾品で飾り立てた指を男につきつける。
「しばらく見ないと思っていたが、戻ってきたのか?」
「……しばらく滞在するだけですよ。またすぐに出て行きます」
ふぅん、と興味なさそうに相槌を打って、成金男はシェスティンに目を向ける。無遠慮な視線も、軽く微笑みながら彼女は受け入れていた。
「今度はうまくいくといいな」
へらりと笑って、連れと思われる男達とさらに奥へと彼は足を向けた。
とっさにスヴァットはソファから飛び降りて彼らを追う。途中振り返るとシェスティンと目が合った。こちらの顛末も興味あるが、チャンスは逃せない。
店の奥へと続くドアが閉まる直前、スヴァットはするりとその隙間に身を滑り込ませたのだった。
スヴァットが行ってしまうと、シェスティンは苦い顔の男に視線を戻した。彼はそれに気が付くと、短く息を吐いて首に手を当てる。
「……今は、兄の家に世話になってる」
「お兄さん?」
「流石に
酒の勢いで口を滑らせたことを覚えているのか、驚きの混じったシェスティンの声に男は目を閉じた。
「あっ。病院」
「そう。あそこは兄の病院なんだ。いつもは薬剤の補充と、必要があれば器具を少し貸してもらったり、こっちは適当にやってますよって顔を見せるくらいで退散してるんだが……」
目を開けた男は少し冷静さを取り戻したようだった。
「しばらくいるつもりなら忙しいから手伝え、手伝うなら身形も整えろ、と。君こそ何処にいるんだ? どの宿でも知らないと言われ、半ば諦めてたところだ。猫君を見掛けなかったら、もう街を出ていたかもしれない」
「素敵な家を手に入れてね」
「家!?」
ふふ、と笑うシェスティンに男はそれ以上突っ込めなかった。家族が出来たからでも、彼女が買ったからでも不思議はない。
「……入院中の彼、とは」
また少し動揺の滲んだ彼の言葉に、シェスティンは小さく首を振った。
「たいした関係はない。ワタシを庇って怪我をしたから、目が覚めるまでは、と」
「君を庇って…………薬。薬と、言ったか? もしかして、彼の傷に塗られていた薬って」
「ああ、そうだ。あなたの薬だ。気休めになればと。小さな缶だ。空になってしまった」
男は怒られると思ったことが逆に褒められた時のような複雑な表情をした。それを喜んでいいのかと葛藤しているような。
「そう、か。兄が。兄があの薬の出所を知りたがっていて」
「教えてやればいいじゃないか」
きょとんと、シェスティンは不思議そうな顔をした。
「変なものでも入ってるのか? いい薬だと思ったが。あ。そうだ。頼みたかったことが」
「ちょっと、東の方の薬草を混ぜ込んでて。変なものではないんだが……頼み?」
シェスティンは胸元から血の指痕がついた薬包を取り出した。
「何が入っているのか、知りたい」
男の顔つきが厳しくなる。
「なんの、薬だ?」
「少なくとも、飲んで死ぬ奴はいなかった。眠ってる彼にも飲ませた。説明では身体能力を一時的に上げる薬、と」
「シェス、君はやはり……」
「途中で離脱したんだよ。他の者に顔向けできないだろう?」
さらりと笑う彼女に男は溜息を吐くしかない。誰も、その真偽を知らないのだから。
「……知って、どうする」
「どうも」
シェスティンは肩を竦めた。
「この国の在り方を確かめたいだけさ」
男は薬包を手に取って、その指の痕と彼女の指を見比べた。それからそっとそれをポケットにしまう。
「それは、彼の血だから」
調べても無駄だと言うように、彼女は微笑む。
「できたらでいいんだ。無理にとは言わない」
「わかってる。俺も気になるから、調べるよ。そう言うって知ってる顔だ」
「それは、失礼」
両手を頭の横でひらひらと動かす男に、シェスティンは上品に笑って見せる。男は一瞬見惚れて、それからもう一度溜息を吐いた。
「――今日の君なら、兄の家に尋ねて来てもらっても追い返されたりしなかったかな。剣は今度は短剣じゃないんだろ? 数がないから、懇意の鍛冶屋を紹介しようか」
「助かる。じゃあ、薬もその時に。これに詰め直してもらえるのかな?」
彼女は空になった銀色の小さな缶をまた胸元から取り出して、テーブルの上に差し出す。男はうっかりその胸元を凝視してしまい、シェスティンににやりと笑われて慌てて目を逸らした。
「君は、触れるなと言うくせに、たまに挑発的だな」
誤魔化すように手を伸ばした薬の缶にはまだ彼女の体温が残っていて、男の胸の奥に小さな火を灯しそうになる。
「我慢出来れば『友人』にはなれるかもしれない」
男の指先で弄 ばれていた薬の缶の動きが止まる。
「先程の
「あれは友人なんてものじゃない。例の兄の同級生ってだけで、その兄とも特に仲がいいという訳でもない。何度かうちに来たことがある程度だ」
「ふぅん。羽振りがよさそうだったな」
「何をしてるかはよく知らん。宝石商と懇意にしてる話は聞いたことがある」
「宝石商…………あなたは『人魚の涙』を知ってる?」
突然、ワントーン高くなった彼女の声と可憐に小首を傾げる仕種に面食らいながら、男は頷いた。ちらりと、バーテンダーがシェスティン達に視線をくれる。
「この街の特産品だろ? 小さいのは俺もたまに仕入れる」
「今度、一緒に見に行きたいわ。ね?」
そのまま店員に『人魚の涙』というカクテルをねだる若い娘の様子を、店に来ていた男達は苦笑しながら見守っていた。
渋るシェスティンに引っ付いて、いつもは行かない高級店に足を踏み入れると、スヴァットは追い出されないように出来るだけ行儀よく振舞った。
常にシェスティンから離れず、彼女が立ち止まればその足元に背筋を伸ばして座り込む。商品に手を出すなんてもっての外だった。
初めは嫌そうに眉を顰めていた店員達も、その振舞いに徐々に打ち解け、しまいにはベルベットの赤い薔薇の付いたチョーカーを彼の首に巻いて勧めてくる始末だ。
心配していたシェスティンのセンスも特に酷いものではなかったが、やや古臭い物を選びがちなので、その都度流行を取り入れたものに修正させる。あまり目立ちたい訳でもないので形の奇抜さよりは刺繍やレースなどで高級感を出したものにして、品のいい紺色のショールをつけた。
彼女とは店を出たところで別れ、スヴァットは病院に向かう。男の様子を見て、看護師と追いかけっこしながら隙を見てカードを届ける。簡単なお仕事だった。
家に帰ると、テーブルの上に子供が使うようなイラスト付きのアルファベット表が広げてあって、簡単な会話の補足に指し示せとシェスティンに促される。確かにこれなら単語くらい伝えられそうだ。
「夕飯、何食べたい?」
『魚』
『焼く』
などとくだらない会話で練習して、時間はかかるが、ある程度伝わることがわかってお互い満足した。簡単な質問なら、これでスヴァット側からも出来る。
聞きたいことは色々あるが、それはこんな表じゃまどろっこしいことばかりだ。話してくれるとも限らない。シェスティンにしてみればスヴァットの一生など、ほんの束の間の出来事にすぎないのだから。
◇◆◇ ◇◆◇ ◇◆◇
約束の日の夜、シェスティンは髪を結い上げ、化粧をし、いつもより大人びた服装で待ち合わせの
ドアを開けた時、数人が入口を振り返ったが、シェスティンは待ち合わせ相手を見つけられないようだった。その眉間に小さく皺が寄る。
仕方なさそうにカウンターに足を運び、先にひとりで飲んでいる男から二つ離れた席に腰掛ける。
「おひとりですか?」
「待ち合わせよ。ワインくださる?」
シェスティンが店員に声を掛けられている間に、スヴァットは隣の男の元へと近寄って膝に乗った。
「あら。失礼。スヴァット、だめ、よ?」
上品な貴婦人らしく、スヴァットを嗜める彼女の仕種を、その男は石像のように固まって凝視していた。黒猫が腿をぺしりと叩くと、彼は唾を飲み込み、上ずった声で話し出す。
「あな……貴女の、猫、ですか」
「ええ。ごめんなさい。いつもはイイコなんですけど……」
呆れたようなスヴァットの顔を見て、シェスティンは首を傾げた。目で何やってんだ! って怒ってるけど、それはスヴァットが言いたいセリフだった。
いや、薄々そうじゃないかな、とは思ってたけれど。
男も、品のいい刺繍のあしらわれた茶系の上着にベスト、仕事の時にはしていなかったクラバットもしていて、止めているピンにあしらわれている黒い石は本物の宝石だろう。こういう店でも浮かない上流階級の人間にちゃんと見える。うだつの上がらない行商のイメージなんて欠片もないのだから、シェスティンが気付かないのも無理からぬことなのかもしれない。
男の腹に手をかけて、なーん、と注意を促して、ようやくシェスティンは男の顔をまじまじと見つめた。それでもまだ疑問の表情がとれない辺り、もしかして彼女は人の顔を覚えていないんだろうか。
「……トーレです。お忘れかもしれませんが……シェス……」
自分の名が呼ばれそうになった辺りでシェスティンは慌てて手で制して、驚きと困惑を抱いたまま、店員に奥のテーブル席への移動を申し出ていた。
驚きと困惑は男の方にもありありと出ていて、とりあえず二人は言葉を交わす前に目の前のグラスを空ける。
これ、周囲には新手の見合いだと思われてるんじゃないだろうか。いくつか微笑ましそうな視線が飛んでくる。まぁ、それはそれで都合がいいんだろう。
二杯目のグラスが届く頃、スヴァットはこっちの仕事は終わったとばかりに、テーブルの下でさらに奥の入口を見張りはじめた。
「……失礼した。とりあえず、ワタシのことはシェス、と」
「いや。こちらこそ。猫君がいなければ分からなかった。……無事で、よかった」
スヴァットから顔は見えないが、男の足元がそわそわしていて落ち着かない。口調が戻ったのでシェスティンだと認識できたはずだが、それがまた見た目とのギャップを増長させたに違いない。
「……無事?」
不思議そうなシェスティンに男は続ける。
「竜討伐は終わったが、戦闘に参加した騎士団は全滅だと噂が……君が、それに興味を示していたと聞いたものだから」
「ああ」
思い出したという風に明るく(おそらく笑って)彼女は答えた。
「赤毛の彼女に聞いたのか。彼女、良かっただろ?」
思わず吹き出したスヴァットの近くに、男の手から零れたのか酒の滴がぽたぽたと落ちてきた。男はけほけほと咽せている。
なんだ、この面白劇場……
スヴァットは見張りよりよほど面白そうな空気を察知して、二人を観察しようと、もう一度ソファに登って座り込んだ。
グラスを手から離すことだけは阻止したらしい男に、シェスティンがハンカチを差し出している。男はそれを受け取るのも一瞬躊躇ったが、やがて諦めたような表情になるとそのハンカチで濡れた手や服を拭った。
「宿がなくて困ってたところを泊めてもらったんだ。ワタシもよくしてもらった」
「あ、は? え?」
今度は、はっきり顔を赤くして、男は動揺した。
「変な想像をするな。ワタシは風呂と飯と寝床をもらっただけだ」
「……あぁ」
「その時払った分が多いっていうから、あなたに会ったらその分サービスしてくれって言ってみたんだ。会うもんなんだな」
気まずそうについと目を逸らす男に少し同情する。
その上でこれが、シェスティンが話題を逸らそうと、あるいは男に気がないことを解らせようと計算してのことなら空恐ろしいと思う。天然なのかどうか、スヴァットには解りかねた。
それ以上なんとも言いようがないのか、男は黙り込んで量の減ったグラスに口をつける。シェスティンはどうということもなく話題を変えた。
「その、前にもらった傷薬と、剣を見せてもらえたらと思ってたんだが……その様子じゃ荷物は置いてきたんだよな? 今、どこに?」
丁度その時入ってきた数人の客が、何気なく彼女と男に視線を落とした。シェスティンは軽く居住まいを正す。
「――今は、」
「……リリェフォッシュ? やぁ、かの家の三男坊じゃないか」
数人のうちの一人が、そう声を掛けてきた。金はかかってそうだが、趣味の悪いごてごてとした装飾品で飾り立てた指を男につきつける。
「しばらく見ないと思っていたが、戻ってきたのか?」
「……しばらく滞在するだけですよ。またすぐに出て行きます」
ふぅん、と興味なさそうに相槌を打って、成金男はシェスティンに目を向ける。無遠慮な視線も、軽く微笑みながら彼女は受け入れていた。
「今度はうまくいくといいな」
へらりと笑って、連れと思われる男達とさらに奥へと彼は足を向けた。
とっさにスヴァットはソファから飛び降りて彼らを追う。途中振り返るとシェスティンと目が合った。こちらの顛末も興味あるが、チャンスは逃せない。
店の奥へと続くドアが閉まる直前、スヴァットはするりとその隙間に身を滑り込ませたのだった。
スヴァットが行ってしまうと、シェスティンは苦い顔の男に視線を戻した。彼はそれに気が付くと、短く息を吐いて首に手を当てる。
「……今は、兄の家に世話になってる」
「お兄さん?」
「流石に
そっち
じゃない。一番上の」酒の勢いで口を滑らせたことを覚えているのか、驚きの混じったシェスティンの声に男は目を閉じた。
「あっ。病院」
「そう。あそこは兄の病院なんだ。いつもは薬剤の補充と、必要があれば器具を少し貸してもらったり、こっちは適当にやってますよって顔を見せるくらいで退散してるんだが……」
目を開けた男は少し冷静さを取り戻したようだった。
「しばらくいるつもりなら忙しいから手伝え、手伝うなら身形も整えろ、と。君こそ何処にいるんだ? どの宿でも知らないと言われ、半ば諦めてたところだ。猫君を見掛けなかったら、もう街を出ていたかもしれない」
「素敵な家を手に入れてね」
「家!?」
ふふ、と笑うシェスティンに男はそれ以上突っ込めなかった。家族が出来たからでも、彼女が買ったからでも不思議はない。
「……入院中の彼、とは」
また少し動揺の滲んだ彼の言葉に、シェスティンは小さく首を振った。
「たいした関係はない。ワタシを庇って怪我をしたから、目が覚めるまでは、と」
「君を庇って…………薬。薬と、言ったか? もしかして、彼の傷に塗られていた薬って」
「ああ、そうだ。あなたの薬だ。気休めになればと。小さな缶だ。空になってしまった」
男は怒られると思ったことが逆に褒められた時のような複雑な表情をした。それを喜んでいいのかと葛藤しているような。
「そう、か。兄が。兄があの薬の出所を知りたがっていて」
「教えてやればいいじゃないか」
きょとんと、シェスティンは不思議そうな顔をした。
「変なものでも入ってるのか? いい薬だと思ったが。あ。そうだ。頼みたかったことが」
「ちょっと、東の方の薬草を混ぜ込んでて。変なものではないんだが……頼み?」
シェスティンは胸元から血の指痕がついた薬包を取り出した。
「何が入っているのか、知りたい」
男の顔つきが厳しくなる。
「なんの、薬だ?」
「少なくとも、飲んで死ぬ奴はいなかった。眠ってる彼にも飲ませた。説明では身体能力を一時的に上げる薬、と」
「シェス、君はやはり……」
「途中で離脱したんだよ。他の者に顔向けできないだろう?」
さらりと笑う彼女に男は溜息を吐くしかない。誰も、その真偽を知らないのだから。
「……知って、どうする」
「どうも」
シェスティンは肩を竦めた。
「この国の在り方を確かめたいだけさ」
男は薬包を手に取って、その指の痕と彼女の指を見比べた。それからそっとそれをポケットにしまう。
「それは、彼の血だから」
調べても無駄だと言うように、彼女は微笑む。
「できたらでいいんだ。無理にとは言わない」
「わかってる。俺も気になるから、調べるよ。そう言うって知ってる顔だ」
「それは、失礼」
両手を頭の横でひらひらと動かす男に、シェスティンは上品に笑って見せる。男は一瞬見惚れて、それからもう一度溜息を吐いた。
「――今日の君なら、兄の家に尋ねて来てもらっても追い返されたりしなかったかな。剣は今度は短剣じゃないんだろ? 数がないから、懇意の鍛冶屋を紹介しようか」
「助かる。じゃあ、薬もその時に。これに詰め直してもらえるのかな?」
彼女は空になった銀色の小さな缶をまた胸元から取り出して、テーブルの上に差し出す。男はうっかりその胸元を凝視してしまい、シェスティンににやりと笑われて慌てて目を逸らした。
「君は、触れるなと言うくせに、たまに挑発的だな」
誤魔化すように手を伸ばした薬の缶にはまだ彼女の体温が残っていて、男の胸の奥に小さな火を灯しそうになる。
「我慢出来れば『友人』にはなれるかもしれない」
男の指先で
「先程の
ご友人
のように気安くはなれないだろうが」「あれは友人なんてものじゃない。例の兄の同級生ってだけで、その兄とも特に仲がいいという訳でもない。何度かうちに来たことがある程度だ」
「ふぅん。羽振りがよさそうだったな」
「何をしてるかはよく知らん。宝石商と懇意にしてる話は聞いたことがある」
「宝石商…………あなたは『人魚の涙』を知ってる?」
突然、ワントーン高くなった彼女の声と可憐に小首を傾げる仕種に面食らいながら、男は頷いた。ちらりと、バーテンダーがシェスティン達に視線をくれる。
「この街の特産品だろ? 小さいのは俺もたまに仕入れる」
「今度、一緒に見に行きたいわ。ね?」
そのまま店員に『人魚の涙』というカクテルをねだる若い娘の様子を、店に来ていた男達は苦笑しながら見守っていた。