第四十九話 三好長慶挙兵(2)

文字数 4,518文字

 三好長慶挙兵の報を受けて急ぎ帰洛したのだが、どうしてこなた?
 義藤さまに逢うこともできずに今出川御所の常御殿(つねのごてん)に出頭させられ、三好長慶挙兵に対する急ぎの評議を開くとは名ばかりで、どうやら俺に対する詮議の場の被告人席に立たされてしまったようだ。

「弁明を聞こうか?」

「弁明とはいったい何のことでありましょうや?」

「策を弄して公方様にいらぬ入れ知恵を行い、右京兆殿(晴元)と幕府の間に亀裂を生じさせようとしたことへの弁明である」

「伊勢守様、申し訳ありませぬが私は洛中をしばし離れ御料所の代官の務めを果たしておりますれば、何故(なにゆえ)このような場でこのような詰問をされるのか分かりかねておりまする」

「黙れこわっぱ! お主が三好長慶の回し者であることは既に露見しておるわ!」

 いつも五月蝿いヤツだがコイツは誰だったか? 
 ああ、たしか御供衆(おともしゅう)上野(うえの)民部大輔(みんぶだゆう)信孝(のぶたか)とかいうヤツで大御所の側近であったな。

「貴殿は公方様に対して右京兆様と手切れをすることをそそのかしたようであるが、身に覚えがないとでも言うつもりであるのかな?」

 政所執事(まんどころしつじ)殿には俺が義藤さまに細川晴元と手切れを勧めたことはバレているということか。
 史実では政所執事の伊勢貞孝(いせさだたか)は細川晴元派というよりは三好長慶派であったはずなのだが、とりあえず今この場では三好長慶派ではなく俺の味方でもないということであるか……

「ひとつお聞きしますが、右京大夫(晴元)殿と手切れをすすめることが、何ゆえ公方様をそそのかすことになるのでありましょうか?」

「兵部大輔殿(細川藤孝)よ、公方様に対し(たてまつ)り、幕府の重責たる京兆家当主の讒言(ざんげん)を吹き込まんとしたことはすでに露見しておる。政所執事様の言ではないが、つまらぬ言い逃れは貴殿の立場を悪くするものと心得るがよい」

 この者は杉原(すぎはら)兵庫助(ひょうごのすけ)晴盛(はるもり)であったな。
 公方様の走衆(はしりしゅう)を務める奉公衆であるが、今まで俺に敵対することはなく中立的な立場であったのだが……

「白々しいぞ! すでに証拠もあがっているのだ」

 上野信孝の暴言はいつものことなのでどうでもよいが、証拠とは何のことだ?

「この書状はそこもとが公方様に差し出したものに相違はないのではないかね?」

 そういって書状を取り出したのは申次衆(もうしつぎしゅう)彦部(ひこべ)雅楽頭(うたのかみ)晴直(はるなお)殿であった。
 その書状は俺が調べた三好長慶と細川晴元の兵力についてのものであるが、義藤さまに渡した物が他人の手に渡ってしまっている。

「私が公方様に差し出した物に相違はありませぬ」

「どのような意図を持って公方様を謀ろうとしたのか、弁明を聞こうか」

「これは()なことを申される。私は公方様の忠実な臣下として、諜報(ちょうほう)にて調べた結果を公方様にお知らせしたに過ぎませぬ。伊勢守様は何を根拠に私が公方様を謀ろうなどと申されますのか」

「全くのデタラメを書き連ね、右京兆様が三好長慶に負けるなどとの流言を公方様に吹き込んでおるではないか!」

「若輩者が黙るでおじゃる!」

「右京大夫様から貴様に対する抗議も来ておるのだぞ!」

「黙れこわっぱ!」

 これは何を言っても無駄ということか……
 三好長慶と結び、細川晴元を幕政から排除しようとする俺の動きは露見しており細川晴元からの圧力があったのであろう、詮議はただただ俺を糾弾する場であった。
 結局のところ詮議で俺を吊るし上げることは最初から決まっていたのだ。

 詮議では父である三淵晴員(みつぶちはるかず)や義父の細川晴広(ほそかわはるひろ)などの姿はなく、大御所の周りは俺を敵視する(やから)で固められており、俺を擁護してくれるものは一人もいなかった。
 最終的には大御所の裁定で俺は幕府への出仕を止められ、蟄居謹慎(ちっきょきんしん)を命ぜられることで詮議というなの一方的な裁判は終わった。

 幕府への出仕はともかく義藤さまに逢えないのはヘコむな……
 詮議の場には公方様のお姿はなく、どうされているのか正直心配でならない。

 領地経営や商いなどの雑務に追われて8月から義藤さまの側を離れてしまったのが失敗であった。
 今までも何かをしようとすると周囲の反発に遭うことは多かったが、ここまで露骨に封じ込められることはなかったのだが、今回は何かが違っている。

 はて、俺は何をやらかしたのであろうか?
 細川晴元と手切れを勧めたことが問題なのであろうが、そもそも2年前には大御所自らが細川晴元に対して挙兵しているのだ。
 それがなぜにここまで問題となるのか……
 幕府内部の政治状況が変わってきているのだろうが、状況が変わった理由が分からない。

 とりあえずは義藤さまと連絡を取りたいのだが、柳沢元政(やなぎさわもとまさ)まで義藤さまにお目通りが適わない状況であり、正直連絡の取りようがない。
 謹慎の身で俺は淡路細川の屋敷から出歩ける状況ではないが、来客までもが禁止されているわけではないので、伝手を頼って情報収集をするほかあるまい。

 だが、俺が身動きが取れない状況にあっても事態は動いていくのだ。
 11月になり三好長慶の挙兵の詳細が伝わってきた。
 三好長慶の挙兵には摂津の国衆の大半が合流し、三好宗三(みよしそうぞう)(政長)の嫡男である三好政生(みよしまさなり)(初名は三好政勝)の居城である榎並城(えなみじょう)に向けて進軍を開始したという。
 しかもその先鋒を務めるのはあの十河一存(そごうかずまさ)である。

 これに対して細川晴元は六角定頼と協調して三好長慶を謀反者と断じて討つべく準備を始めた。
 六角定頼は援軍を送るべく国元に指示を出し、和泉(いずみ)守護で伯父の細川元常(ほそかわもとつね)も細川晴元や六角定頼に協力しているらしい。
 紀州の根来衆(ねごろしゅう)にも六角定頼は出兵を依頼したらしいが、鉄砲の取引をしている津田監物(つだけんもつ)は出兵する気がないようだ。

 この乱の当事者である三好宗三は嫡男の三好政生を救援するため一足先に榎並城に向けて出陣するという。
 着実に後世「江口(えぐち)の戦い」と呼ばれる三好長慶と三好宗三の決戦に向かって歴史は進んでいるようだ。

 この時点で三好長慶と組めなかったのは痛かったが、細川晴元と三好長慶が遣り合うことに関しては京兆家の専制体制が崩れることになるので良しとする。
 だが、事態は思わぬ方向に向かってしまうのだ。

 幕府が細川晴元支持の姿勢を鮮明にし、さらには援軍までをも出すという流れになってしまったのだ。
 しかも、その援軍の主軸となるのが義父の細川晴広であるという。
 俺はそんな歴史は知らないのだが、何がいったいどうなっているのであろうか……

 ◆

 細川藤孝の与り知らぬところであるが、当初の幕府の方針は中立または細川晴元と距離を取ることに傾いていた。
 公方の足利義藤や大御所側近の三淵晴員などが細川藤孝の用意した両勢力の兵数や各国の状況を記した書状をもって大御所を説き伏せ、三好長慶と細川晴元の対立において、幕府は細川晴元と再度距離を取るべく動いていたためだ。

 元々それほど細川晴元を信頼していない大御所はその足利義藤の意見に賛同し、また細川藤孝に近しい大御所の幕臣たちからの援護射撃(三淵晴員・飯川信堅(いいかわのぶかた)など)もあって、大御所の方針は細川晴元と手切れをする方向になっていた。

 だが9月になってから情勢が変わる――
 細川晴元の娘が越前の朝倉義景に輿入れし、京兆家と越前朝倉氏が縁戚となったのである。
 細川晴元は六角家と朝倉家という、近年において室町幕府を支えてきた畿内近国の有力守護大名との結びつきを強めたのである。

 これが日和見な幕臣たちに大きな影響を与えてしまう。
 細川晴元の権勢がさらに強大になったように見えたのであろう、元々の京兆家びいきの幕臣や日和見派の幕臣が細川晴元支持に傾き、三好長慶に対する非難の声をあげ始める。

 さらに近衛家が細川晴元を支援すべきと強硬に主張を始めるのだ。
 天文(てんぶん)の乱で荒れる奥州へ下向し、陸奥守護(むつしゅご)伊達(だて)家の内紛の調停に聖護院(しょうごいん)道増(どうぞう)が成果をあげると、近衛家の発言力が強化され幕府の方針は一気に細川晴元支持に傾いてしまった。

 公方様が大御所に渡した細川藤孝の記した書状は、近衛家に近しい大御所の近臣から近衛家に渡り、近衛家から細川晴元の手に渡ってしまっていた。
 本来の歴史の流れでは幕府は「江口の戦い」にほとんど関与していないのだが、細川藤孝が細川晴元排除に動こうとしたことが、京兆家と近衛家を史実以上に結びつけ幕府の動きが過激な方向へと向かってしまったのだ。

 それが細川一門であろうとする淡路細川家当主の細川晴広の京兆家へのさらなる接近となり、幕府から細川晴元へ援軍を送るという動きになってしまう。

義父上(ちちうえ)、細川晴元に援軍を出すというのはまことでありますか!」

「謹慎中のそなたが口を出すことではない」

「しかし義父上!」

「そなたの右京兆殿に対する動きによって、我が淡路細川家は右京兆殿や太閤殿下(たいこうでんか)近衛稙家(このえたねいえ))から非難されておるのだ。ここで右京兆殿に誠意を示さねば我が家は幕府内で立ち行かぬことになる」

「私のせいで義父上の立場が悪くなったことはお詫び申し上げます。ですが――」

「いや、そなたのお陰で我が家の財政は余裕が持てたのだ。そなたの力があってこそこたびは軍勢を整えることができた。そなたは儂にとっては孝行息子であるぞ」

 皮肉なものなのだが史実における淡路細川家は内談衆であった細川高久の死後は財政的に困窮し、細川高久の残した刀剣などを売却するはめになるのだが、今の淡路細川家は恐らく幕府内で最も裕福な家であり、その財力のおかげで史実では無理であろう軍勢を整えることができてしまった。
(史実では細川高久が所持していた粟田口吉光作の短刀は売られてしまい、それを朝倉義景が買い求めることになり「朝倉藤四郎」として伝来するのだが、この淡路細川家は金持ちなので売ったりしません)

「義父上こたびの戦は三好長慶には勝てませぬ、それでも細川晴元の援軍として参りますのか」

「右京兆様は三好長慶ごときには負けはせぬ」

「義父上……」

「そなたの伯父である播磨守(はりまのかみ)細川元常(ほそかわもとつね))殿も出陣されるのだ。細川一門が結束すれば負けはせぬ」

 細川一門などは既にボロボロなのだが、京兆家の細川晴元と和泉上守護家の細川元常に政賢流(まさかたりゅう)典厩家(てんきゅうけ)細川晴賢(ほそかわはるかた)しか残っていないではないか。
 義父上は細川一門という名に拘り過ぎている……

「細川一門と言いますが三好長慶は細川氏綱(ほそかわうじつな)とも連携するでありましょう。細川一門同士で争う不毛な戦になりますぞ」

「京兆家の正統は晴元殿である。大御所様もそれは認めておろう」

 負けたらひっくり返る京兆家の正統などアテにしないでくれ、これから京兆家の家督は細川氏綱に移るのだ……言えるわけがないが。

「どうあっても細川晴元にお味方すると?」

「くどいぞ、我が淡路細川家は細川晴元殿にお味方いたす」

「……分かりました。ではお願いがあります。私も共に出陣させてくだされませ」

「そなたが右京兆殿にお味方するというのか?」

 細川晴元なんぞには味方する気は毛頭ないが、義父上が討死してしまっては困るのだ。

「私の手勢を合わせなければ我が家の軍勢は500にも足りませぬ。淡路細川家が一丸となってお味方することを右京大夫殿にお取り成し下さい――」

 蟄居謹慎から開放されるためであるのだが、覚醒するであろう三好長慶と戦って俺は生き残れるのだろうか……かなりな無理ゲーな気がするなぁ……
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登場人物紹介

細川藤孝:主人公


従五位下兵部大輔に叙位任官され

作中では兵部大輔や与一郎と呼ばれることも多い


戦国武将としては最高級の教養人と知られ

肥後熊本藩52万石の藩祖となる


現代では歴史マニアであったおっさんが転生している

ヒロインの義藤さまに拾われ、義藤さまを助けるために

室町幕府を再興しようとしている


室町幕府の奉公衆である淡路守護細川家に養子入りしている

義父は細川晴広、実父は三淵晴員

足利義藤:ヒロイン


いわゆる足利義輝で、室町幕府の第13代征夷大将軍なのだが

なぜか可愛い女の子である

(なぜ女の子なのかはそのうち本編で明かされる)


拾った細川藤孝を気に入り側に置いている

細川藤孝には「食いしん坊将軍」と呼ばれ

美味しい物を貢がれて餌付けされている


作中では義藤さまや公方様、大樹と呼ばれる


ちなみに胸は貧乳である

米田求政:家臣


肥後熊本藩の家老米田家の祖となる人

米田はコメダと読む

通称は源三郎


史実よりも早く細川藤孝に仕え

傅役の立場にあり主人公からは

源三郎の兄貴と親しみを持って呼ばれる


現代でも売られている伝統の胃腸薬「三光丸」を作る

米田一族の出身で医薬に造詣が深い


淡路細川家では新兵を鍛える鬼軍曹役でもある

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