第三十五話 そうだ美濃へ行こう(2)
文字数 3,840文字
【そうだ美濃へ行こう(1)の続き】
◆
翌朝――俺は慈照寺で目覚めた。
そう俺は初めて慈照寺に寝泊りしてしまったのだ。
しかも俺は一人で寝ていたわけではない。
俺の周りは……酔いつぶれた奉公衆がいっぱい居る。
そしてすぐ横に寝ているのは、俺の実 の 親 父 だよ。
くそったれがぁぁ!
「ぐががぁぁぁ、ぐごぉぉぉぉ」すんげえイビキだなおい。
昨日義藤さまにプレゼントをして良い雰囲気になっていたのだが、そこに大御所からの使いパシりで親父の三淵晴員が飛び込んで来た。
それは公方様の妹御と武田義統 との婚姻の合議を行うことを報せるためのものであった。
せっかくの桃色空間を親父にこっぱみじんに粉砕され、公方様ともども常御所 に連れられて、縁談の合議に形だけ参加した。
さらにその後の宴会に強制参加させられたあげく、宴会後は会所において幕臣大勢での雑魚寝 である。
そして今、最悪の朝を迎えたわけだ。
義藤さまはむろん東求堂にお一人で静かに寝ているぞ。
ああ無念なり。(この小説にエロはありませぬー、残念でしたー)
今回武田義統に嫁ぐことになった公方様の妹御 は、大御所の足利義晴とその正室である近衛稙家 の妹(のちの慶寿院 )の子であり、公方様の同母妹 になる。
武田義統は若狭 守護職の武田信豊 の嫡男になる。武田は武田でも武田信玄の甲斐 武田氏ではなく、若狭武田氏の方である。
(この当時は武田義統の名は信統か元栄だが、義統で統一します)
若狭守護の武田信豊の正室は六角定頼の娘になり、細川晴元とは相婿 の関係となっている。
この縁談には細川晴元と六角定頼の意向も少なからずあるであろう。
大御所としても若狭武田家はこの時点では幕府を支持する有力守護家の一つであり、若狭武田家を婿とすることに反対する理由などない良縁であったはずだ。
この縁談に反対なのは多分俺ぐらいであろう。
反対の理由は、この先の若狭武田家が内紛でガタガタになることを知っているからだ。
だが残念ながら現時点で表立って反対できる理由が無い。
「武田義統は無 能 だ か ら 公方様の妹婿 とするには反対です」などと言えば俺の立場がなくなってしまう。
この婚姻には口出しのしようがない。
この時点では若狭武田家の内紛についても対処のしようがない。
内紛などま だ 存 在 しないためだ。
若狭武田家の今後については、伝手 のあてが複数あるので、この先介入して対処していくことは可能だ。
今はまだ若狭武田家は置いておこう。
それよりも他のことで功績をあげ、幕府の外交方針を左右できるだけの力を持てるよう地道に活動するべきだな。
今は若狭武田家で無理をする必要はない。
◆
この時期の幕府については大御所の意思はともかくとして、なかなか安定している。
京兆家 の細川晴元と近江の実力者である六角定頼が婚姻で結ばれ、若狭の武田信豊も晴元の相婿であり、越前の朝倉孝景も若狭武田氏の娘を正室とするなど畿内 近隣の有力守護大名が婚姻で結ばれている。
現行の幕府の体制に対抗しようとしている勢力は、細川晴元に対抗し現在河内の高屋城を攻められている細川氏綱と畠山尾州 家ぐらいなものである。
義晴・義輝父子の将軍家を否定するものなどは何の実力もない元堺公方の足利義維しかいない。(細川氏綱も畠山尾州家も公方様とは敵対していない)
だが、畿内近郊でまったく安定していない世 紀 末 状 態 な国があったりする。
昨年11月に幕府が調停して守護となったはずの土岐頼純が急死した美濃国である。
美濃の情勢は安定どころかここ数十年混乱を極めヒ ヤ ッ ハ ー しまくっている有様なのである。
吉田兼見に頼んでいた情報収集だが結構順調だ。
遠国はまだだが近隣国の情勢を伝えるものが結構集まってきた。
尾張の織田弾正忠家(織田信秀)の申次になれたように、これらの情報を活用して外交で点数稼ぎを考えたいところだ。
有力諸大名の申次になることができればなおよろしい。
申次というのは実はとても美味しい仕事だったりする。
各大名が幕府に各種お願いをする時の窓口なのだが、申次も取次ぎの礼として謝礼が当然もらえるので儲かるのである。
俺は謝礼にはそこまで興味はないがな。
有力大名とのコネこそが欲しいのである。
集まった情報の中から注目したのはやはり織田信秀である。
昨年から三河において岡崎城を攻めるなど攻勢にでている。
だが美濃においては大垣城を攻め落とすなど快進撃を続けるが、1544年には「加納口の戦い」と呼ばれる戦いがあり、土岐頼純を盟主に朝倉孝景と織田信秀による連合軍で稲葉山城を攻めるも、織田信秀が大敗している。
織田・朝倉という両雄相手に大勝した男は斎藤利政、のちに美濃のマムシの異名で呼ばれる「斎藤道三」その人だ。
この後も織田信秀と斎藤利政は戦いを続けている。
「加納口の戦い」は二度あったとも言われ、昨年の9月にも織田方が負けているという話もある。
織田信秀は東に『今川義元』、北に『斎藤道三」という二正面作戦を強いられることになり今後は苦しくなっていくのだ。
斎藤利政は朝倉孝景とは和睦し、土岐頼芸にかわり土岐頼純が美濃守護に返り咲くことには同意していた。
だが美濃の守護となるはずの土岐頼純が昨年の11月頃に急死したらしいとの話も伝わってきている。
これはやはり斎藤利政の暗躍が疑われる。
斎藤利政も美濃を完全に掌握したとまではいえない状況である。
美濃や尾張、三河からの便りをとりまとめ、申次となっている織田信秀の対応について公方様に相談をした。
「美濃へ行きたいと申すのか?」
「はい。美濃の調停は幕府としても過去に何度か取り組んでいるようですが上手くいっておりません。ですが私は織田信秀殿の申次の立場を頂いております。織田信秀殿と斎藤利政殿はまだ対立しておりますが、なんらかの交渉ができると思われます」
「織田信秀はわしも大した御仁だと感心したが、あれほどの御仁が大敗したと申すのであろう? 斎藤利政という男もただものではあるまい。織田信秀と斎藤利政などを相手に交渉などが可能なのか?」
「別にその者らと殴りあいをするわけではありませんので。それがしは織田信秀と斎藤利政との和睦を仲介したく考えております。可能であれば公方様からの使者として私を使わして頂ければ存分に働いて御見せいたしましょう」
「そなたをわしの正使とし、幕府として改めて美濃の調停に乗り出せということか?」
「はい。できれば両者の間を取り持ち、改めて織田信秀、斎藤利政の両勢力に幕府の必要性を、公方様の権威を示したいと存じます」
「父上と相談せねばならぬな……」
「美濃の安定は必ずや幕府に益をもたらします。隣国の越前朝倉や近江六角なども美濃の安定は望んでおりましょう。それに幕府の存在意義は有力者の調停にあります。そのあたりをご考慮頂ければ幸いです」
「相分かった。そなたがそこまで言うのならわしからのたっての望みとして、大御所へ相談しよう。そなたを美濃へやるのは心配ではあるがな」
公方様の願いでもあり、美濃へ幕府の使者として向かうことは大御所からも許可された(相変わらず公方様には甘いのだ)。
義藤さまと離れることは寂しいがここは頑張りどころである。
織田信秀に加え、あの斎藤道三とも誼を通じることができれば、それは間違いなく公方様に有益となるであろう。
俺としても斎藤道三の申次となることができれば政治的にも大きいことだ。
織田信秀にたいしては平野長治に先触れを送り、将軍の正使として美濃へ向かうことは伝えておいた。
六角定頼に対しては角倉吉田家から同族の六角家弓術師範の吉田家に連絡をいれてもらっている。
そして美濃においては淡路細川と同じく大原一族の竹腰家に先触れを送ってある。
また斎藤利三も実家の斎藤利賢のところに走らせている。
ついでに朝倉家には清原家から便りを送ってもらっている。
もはやコネの総動員である。
各方面への謝礼や土産も全力で用意した。
準備としてやれることはやった。
「義藤さま美濃へ出立したく存じます」美濃へ向かうための準備を整え、公方様にしばしの別れの挨拶をする。
「また美濃では戦が起こるのではないかと聞いておる。なるべく気をつけて行くがよい」
「公方様の使者を粗略に扱うものなどは、そう多くはありませぬ。織田信秀も斎藤利政もそこまで馬鹿な男ではありますまい。心配は無用と存じます……それよりまたしばらく傍を離れるのは心苦しいことではありますが、お許しください」
「そなたがあえてわしの傍に居てくれたことは分かっておる。案ずるな」
「しばらくは兼見殿が神道の講義に来てくれます。私がいなくて寂しいかもしれませぬが、しっかりと勉学には励んでおいてください」
「余計な心配はいらぬわ。別に寂しくなんかないのだ。さっさと美濃へ行くがよいわ」
「これは失礼しました。では行ってまいります」
挨拶を済ませ、東求堂から離れていく藤孝に義藤は声を掛けるが、その声は小さく、藤孝には届かなかった。
「――早く帰って来るがよい」
とにかく美濃情勢をなんとかしないと、隣国の越前や近江、尾張までもがおかしくなる。
これは今までの美濃の混乱極まる有様が証明している。
畿内東方の安定は今後の展開を考えるうえでは必ず必要になってくる。
俺は幕府のため公方様のため、畿内の東方の安定のため、美濃のマムシと対峙することを決意し、美濃へ向かうのであった――
◆
翌朝――俺は慈照寺で目覚めた。
そう俺は初めて慈照寺に寝泊りしてしまったのだ。
しかも俺は一人で寝ていたわけではない。
俺の周りは……酔いつぶれた奉公衆がいっぱい居る。
そしてすぐ横に寝ているのは、俺の
くそったれがぁぁ!
「ぐががぁぁぁ、ぐごぉぉぉぉ」すんげえイビキだなおい。
昨日義藤さまにプレゼントをして良い雰囲気になっていたのだが、そこに大御所からの使いパシりで親父の三淵晴員が飛び込んで来た。
それは公方様の妹御と
せっかくの桃色空間を親父にこっぱみじんに粉砕され、公方様ともども
さらにその後の宴会に強制参加させられたあげく、宴会後は会所において幕臣大勢での
そして今、最悪の朝を迎えたわけだ。
義藤さまはむろん東求堂にお一人で静かに寝ているぞ。
ああ無念なり。(この小説にエロはありませぬー、残念でしたー)
今回武田義統に嫁ぐことになった公方様の
武田義統は
(この当時は武田義統の名は信統か元栄だが、義統で統一します)
若狭守護の武田信豊の正室は六角定頼の娘になり、細川晴元とは
この縁談には細川晴元と六角定頼の意向も少なからずあるであろう。
大御所としても若狭武田家はこの時点では幕府を支持する有力守護家の一つであり、若狭武田家を婿とすることに反対する理由などない良縁であったはずだ。
この縁談に反対なのは多分俺ぐらいであろう。
反対の理由は、この先の若狭武田家が内紛でガタガタになることを知っているからだ。
だが残念ながら現時点で表立って反対できる理由が無い。
「武田義統は
この婚姻には口出しのしようがない。
この時点では若狭武田家の内紛についても対処のしようがない。
内紛など
若狭武田家の今後については、
今はまだ若狭武田家は置いておこう。
それよりも他のことで功績をあげ、幕府の外交方針を左右できるだけの力を持てるよう地道に活動するべきだな。
今は若狭武田家で無理をする必要はない。
◆
この時期の幕府については大御所の意思はともかくとして、なかなか安定している。
現行の幕府の体制に対抗しようとしている勢力は、細川晴元に対抗し現在河内の高屋城を攻められている細川氏綱と畠山
義晴・義輝父子の将軍家を否定するものなどは何の実力もない元堺公方の足利義維しかいない。(細川氏綱も畠山尾州家も公方様とは敵対していない)
だが、畿内近郊でまったく安定していない
昨年11月に幕府が調停して守護となったはずの土岐頼純が急死した美濃国である。
美濃の情勢は安定どころかここ数十年混乱を極め
吉田兼見に頼んでいた情報収集だが結構順調だ。
遠国はまだだが近隣国の情勢を伝えるものが結構集まってきた。
尾張の織田弾正忠家(織田信秀)の申次になれたように、これらの情報を活用して外交で点数稼ぎを考えたいところだ。
有力諸大名の申次になることができればなおよろしい。
申次というのは実はとても美味しい仕事だったりする。
各大名が幕府に各種お願いをする時の窓口なのだが、申次も取次ぎの礼として謝礼が当然もらえるので儲かるのである。
俺は謝礼にはそこまで興味はないがな。
有力大名とのコネこそが欲しいのである。
集まった情報の中から注目したのはやはり織田信秀である。
昨年から三河において岡崎城を攻めるなど攻勢にでている。
だが美濃においては大垣城を攻め落とすなど快進撃を続けるが、1544年には「加納口の戦い」と呼ばれる戦いがあり、土岐頼純を盟主に朝倉孝景と織田信秀による連合軍で稲葉山城を攻めるも、織田信秀が大敗している。
織田・朝倉という両雄相手に大勝した男は斎藤利政、のちに美濃のマムシの異名で呼ばれる「斎藤道三」その人だ。
この後も織田信秀と斎藤利政は戦いを続けている。
「加納口の戦い」は二度あったとも言われ、昨年の9月にも織田方が負けているという話もある。
織田信秀は東に『今川義元』、北に『斎藤道三」という二正面作戦を強いられることになり今後は苦しくなっていくのだ。
斎藤利政は朝倉孝景とは和睦し、土岐頼芸にかわり土岐頼純が美濃守護に返り咲くことには同意していた。
だが美濃の守護となるはずの土岐頼純が昨年の11月頃に急死したらしいとの話も伝わってきている。
これはやはり斎藤利政の暗躍が疑われる。
斎藤利政も美濃を完全に掌握したとまではいえない状況である。
美濃や尾張、三河からの便りをとりまとめ、申次となっている織田信秀の対応について公方様に相談をした。
「美濃へ行きたいと申すのか?」
「はい。美濃の調停は幕府としても過去に何度か取り組んでいるようですが上手くいっておりません。ですが私は織田信秀殿の申次の立場を頂いております。織田信秀殿と斎藤利政殿はまだ対立しておりますが、なんらかの交渉ができると思われます」
「織田信秀はわしも大した御仁だと感心したが、あれほどの御仁が大敗したと申すのであろう? 斎藤利政という男もただものではあるまい。織田信秀と斎藤利政などを相手に交渉などが可能なのか?」
「別にその者らと殴りあいをするわけではありませんので。それがしは織田信秀と斎藤利政との和睦を仲介したく考えております。可能であれば公方様からの使者として私を使わして頂ければ存分に働いて御見せいたしましょう」
「そなたをわしの正使とし、幕府として改めて美濃の調停に乗り出せということか?」
「はい。できれば両者の間を取り持ち、改めて織田信秀、斎藤利政の両勢力に幕府の必要性を、公方様の権威を示したいと存じます」
「父上と相談せねばならぬな……」
「美濃の安定は必ずや幕府に益をもたらします。隣国の越前朝倉や近江六角なども美濃の安定は望んでおりましょう。それに幕府の存在意義は有力者の調停にあります。そのあたりをご考慮頂ければ幸いです」
「相分かった。そなたがそこまで言うのならわしからのたっての望みとして、大御所へ相談しよう。そなたを美濃へやるのは心配ではあるがな」
公方様の願いでもあり、美濃へ幕府の使者として向かうことは大御所からも許可された(相変わらず公方様には甘いのだ)。
義藤さまと離れることは寂しいがここは頑張りどころである。
織田信秀に加え、あの斎藤道三とも誼を通じることができれば、それは間違いなく公方様に有益となるであろう。
俺としても斎藤道三の申次となることができれば政治的にも大きいことだ。
織田信秀にたいしては平野長治に先触れを送り、将軍の正使として美濃へ向かうことは伝えておいた。
六角定頼に対しては角倉吉田家から同族の六角家弓術師範の吉田家に連絡をいれてもらっている。
そして美濃においては淡路細川と同じく大原一族の竹腰家に先触れを送ってある。
また斎藤利三も実家の斎藤利賢のところに走らせている。
ついでに朝倉家には清原家から便りを送ってもらっている。
もはやコネの総動員である。
各方面への謝礼や土産も全力で用意した。
準備としてやれることはやった。
「義藤さま美濃へ出立したく存じます」美濃へ向かうための準備を整え、公方様にしばしの別れの挨拶をする。
「また美濃では戦が起こるのではないかと聞いておる。なるべく気をつけて行くがよい」
「公方様の使者を粗略に扱うものなどは、そう多くはありませぬ。織田信秀も斎藤利政もそこまで馬鹿な男ではありますまい。心配は無用と存じます……それよりまたしばらく傍を離れるのは心苦しいことではありますが、お許しください」
「そなたがあえてわしの傍に居てくれたことは分かっておる。案ずるな」
「しばらくは兼見殿が神道の講義に来てくれます。私がいなくて寂しいかもしれませぬが、しっかりと勉学には励んでおいてください」
「余計な心配はいらぬわ。別に寂しくなんかないのだ。さっさと美濃へ行くがよいわ」
「これは失礼しました。では行ってまいります」
挨拶を済ませ、東求堂から離れていく藤孝に義藤は声を掛けるが、その声は小さく、藤孝には届かなかった。
「――早く帰って来るがよい」
とにかく美濃情勢をなんとかしないと、隣国の越前や近江、尾張までもがおかしくなる。
これは今までの美濃の混乱極まる有様が証明している。
畿内東方の安定は今後の展開を考えるうえでは必ず必要になってくる。
俺は幕府のため公方様のため、畿内の東方の安定のため、美濃のマムシと対峙することを決意し、美濃へ向かうのであった――