おまけ 細川藤孝のライバル上野清信

文字数 2,959文字

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 おまけの解説
 謎の作家細川幽童著「どうでもよい戦国の知識」より
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「細川藤孝のライバル、上野清信」

<上野氏>
 上野氏は足利泰氏(あしかがやすうじ)の子の上野義弁(うえのぎべん)を祖とする足利一門で、鎌倉時代に足利家が三河守護となり三河国碧海郡(へきかいぐん)八条院領(はちじょういんりょう)上野荘(うえのしょう)の地頭職を獲得したことから上野荘の地名を取って上野氏を名乗っている。
 たぶん鎌倉時代は細川氏より格上ですな。

 室町時代には上野義弁の孫の上野頼兼(うえのよりかね)が足利尊氏・直義に従って戦い、丹後・石見の守護職を得たりしたけど、他の足利一門のように世襲化することができずに終り残念ながらマイナー路線を突き進む。
 上野家の嫡流である民部大輔(みんぶだゆう)家は将軍に近侍するようになり、奉公衆の三番番頭を務め、申次衆(もうしつぎしゅう)御部屋衆(おへやしゅう)御供衆(おともしゅう)を勤めるようにもなる。
(上野氏の諸流は宗家すらまともに家が残らなかったため、ろくに研究もされていないので、備中上野家と豊後上野家以外はぶっちゃけよく分からんです)

<上野信孝>
 上野信孝(うえののぶたか)は足利義晴の側近ヅラしているが、元々は義晴の父である足利義澄(あしかがよしずみ)に敵対する足利義稙(あしかがよしたね)の近臣であり、義稙の西国政策の中で1509年に備中守護代になっている。
 備中守護代となった上野信孝は弟の上野頼久(うえのよりひさ)を備中松山城に、上野高直(うえのたかなお)を備前常山城(つねやまじょう)などに配し西国に影響力を持ったようで、義稙の命で安芸に下向もしている。
 安芸武田家の武田元繁(たけだもとしげ)を討ったばかりの毛利元就(もうりもとなり)御教書(みきょうしょ)を渡すなど毛利家と親交を持ち、足利義晴・義輝期には毛利家の申次としても活動している。

 足利義晴の死に際しては遺言される近臣の一人となり、足利義輝にも側近として、御供衆として仕えることになる。
(三好長慶関連でもいろいろやらかすけど本編でそのうち語ると思う)

上野清信(うえのきよのぶ)
 上野中務大輔(なかつかさだゆう)清信は上野信孝の次男で兄には上野量忠(憲忠とも)がいる。
 足利義秋(義昭)の将軍就任前の越前南陽寺(なんようじ)観桜遊宴(かんおうゆうえん)あたりから活動が見られ、細川藤孝と共に岐阜の織田信長への使者となるなど義昭の上洛、将軍就任に尽力しその寵臣となる。(この辺までは藤孝と仲は悪くない)

<細川と上野の喧嘩>
 めでたく義昭が将軍に就任し二条城を築城(今出川の邸宅とも)するのだが、その際に上野清信は総奉行に任命されめちゃくちゃ張り切る。
 だがこの工事現場で上野清信と細川藤孝との間に問題が起きるのである。

 上野清信の足軽と奉公衆の荒川輝宗(あらかわてるむね)荒川晴宣(あらかわはるのぶ)の子で藤孝の甥)の歩卒が口論から石を投げあう喧嘩騒ぎを起こし、その石が荒川家の隣の細川家の小屋にも飛んできて細川家の足軽が怪我をしてしまう。
 怒った細川家の者は荒川家の手の者と一緒に上野家の持ち場に押しかけ、さらには三淵(みつぶち)、沼田、飯河(いいかわ)といった細川家の親類までもが加勢して、大騒動にハッテン。
 総奉行としてハリキリまくって派手に飾っていた自慢の鉄砲や虎毛の敷物がこの騒動で無くなってしまい上野清信がブチ切れる(笑)。
 まあ上野清信も怒るとは思います。
 この件は細川家に非があると思いますので……

(この喧嘩騒動で7歳の細川熊千代(くまちよ)忠興(ヤンデレ))が荒川家に味方して上野家の持ち場に攻め込んだなんて逸話があったりするのだが、さすがに7歳じゃ無理だろと思うが、忠興(ヤンデレ)ならやりかねないとも思わなかったりする)

 この騒動に上野清信は大いに怒って、もともと荒川との騒動に過ぎないのに細川藤孝が親類縁者と語らって荒川家を応援して騒動を大きくし、御所新築の目出度い場で乱暴狼藉を働いた! と足利義昭に訴え、悪口を並び立てて細川藤孝には謀反の兆しが有るなどと讒言(ざんげん)に及ぶ。
 そんでもってバカな足利義昭は上野清信の讒言を信じてしまい、ついには織田信長に細川藤孝を討つように命じてしまう。
 ただの喧嘩騒ぎが拗れに拗れまくるのである……

<そして確執へ>
 まともな織田信長は藤孝討伐なんてもちろんしないで、逆に足利義昭を「誰のおかげで将軍になったのよ藤孝の忠節のおかげじゃね? 藤孝の言い分も聞けよ」となだめて一応おさまるが、以後も上野清信は讒言を繰り返して細川藤孝と上野清信は対立していく。

 ついに両者は足利義昭の面前にて口論にも及んだ。
「信長は叡山焼討ちとかマジ悪逆非道じゃん! なんか思い上がってるし討伐しようぜ」と上野清信。
「信長討伐とかアホ抜かすな! 信長マジサイコー」と細川藤孝。
 藤孝は親信長派、清信は反信長派として、幕府の政策でも対立していく。

 対武田信玄でも対立する。
 上野清信は武田家の申次をやっており贈り物もいっぱい貰って恐らく親武田派。
 細川藤孝は「武田信玄とか幕府のために何もしてねーから! 信長マジサイコー」と義昭に諫言(かんげん)する。
 だが夢見がちな足利義昭は信長包囲網に突き進んでしまう。
 上野清信の讒言は続くし、足利義昭は信長ラブな細川藤孝を疎みだし、藤孝は幕府に居られなくなり結局織田家にリクルートするハメになる。
 上野清信の存在は室町幕府と細川藤孝の運命を狂わせたかもしれない。
(まあ、細川藤孝は織田信長に鞍替え成功してますが)

<その後の上野家>
 上野清信の養子は上野秀政(うえのひでまさ)といい、元は足利義昭の坊さん時代からの寵童(ちょうどう)(アーッ! 的な)である堀孫四郎で、上野清信の養子となり上野秀政となる。
(個人的にはこの上野秀政と上野清信の切り分けが結構出来ていない気がする。両者の混同もあり上野清信の晩年は不明としたい)
 
 いろいろあって大名になった細川家に元幕臣の槙島昭光(まきしまあきみつ)が仕官してくる。(大坂の陣で豊臣側で参戦するも細川家の願いで助命)
 槙島昭光の妻は上野清信の姉であり、槙島昭光の娘は上野秀政に嫁いでいた。
 その縁があって上野秀政の子を養育していた槙島昭光はその子も連れて来たのだが、上野の名が問題となった。

「上野家は細川家に対して敵なれば、名字を改めよ」となり、「(こおり)」の名字を与えられ、上野家は郡家として細川家の家臣となった。

 時は既に大坂の陣のあとの徳川家の天下である。
 だがそんな(のち)にも「上野」の名は細川家には敵と認識されていたのである。(上野清信と細川藤孝の最初の対立は1569年で45年以上経ってます)
 上野清信と上野秀政は細川藤孝と細川忠興やその当時の細川家中には相当恨まれていたのだろう……

 だが、細川藤孝が足利義昭を裏切り織田信長に鞍替えしたのは上野清信のせいなの! 讒言されてしょうがなかったの!
 と言い訳がバッチリな気がするのは私の気のせいであろうか?

 そしてこれを皮切りに、織田家、豊臣家、徳川家と細川家は主を変えて渡り歩くのであるが、何故か「裏切り者」呼ばわりはされない細川家であったとさ、めでたしめでたし♪
(豊臣家裏切りの理由も石田三成が嫌いで理由付けバッチリですな)

<参考 上野家系図>

     ┏上野澄相(早世)
 上野尚長╋上野信孝┳上野量忠
     ┃    ┗上野清信=上野秀政━郡五左衛門(肥後細川藩家臣)
     ┣上野頼久━上野頼氏(備中松山城主、滅亡)
     ┗上野高直━上野隆徳━上野隆秀(備前常山城主、滅亡)
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登場人物紹介

細川藤孝:主人公


従五位下兵部大輔に叙位任官され

作中では兵部大輔や与一郎と呼ばれることも多い


戦国武将としては最高級の教養人と知られ

肥後熊本藩52万石の藩祖となる


現代では歴史マニアであったおっさんが転生している

ヒロインの義藤さまに拾われ、義藤さまを助けるために

室町幕府を再興しようとしている


室町幕府の奉公衆である淡路守護細川家に養子入りしている

義父は細川晴広、実父は三淵晴員

足利義藤:ヒロイン


いわゆる足利義輝で、室町幕府の第13代征夷大将軍なのだが

なぜか可愛い女の子である

(なぜ女の子なのかはそのうち本編で明かされる)


拾った細川藤孝を気に入り側に置いている

細川藤孝には「食いしん坊将軍」と呼ばれ

美味しい物を貢がれて餌付けされている


作中では義藤さまや公方様、大樹と呼ばれる


ちなみに胸は貧乳である

米田求政:家臣


肥後熊本藩の家老米田家の祖となる人

米田はコメダと読む

通称は源三郎


史実よりも早く細川藤孝に仕え

傅役の立場にあり主人公からは

源三郎の兄貴と親しみを持って呼ばれる


現代でも売られている伝統の胃腸薬「三光丸」を作る

米田一族の出身で医薬に造詣が深い


淡路細川家では新兵を鍛える鬼軍曹役でもある

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