第10話 天国と地獄

文字数 1,567文字

「あんた。どうしたんだい、その顔?

赤くただれているじゃないか? 」

 片袖をつかまれて足を止めた瞬間、横で見知らぬ中年女性の声が聞こえた。

「え?! 」

 わたしは思わず両手で顔を覆った。

すると、まるで、ほおが焼けるように熱い。

「医者を呼んであげる。そこに座りな」

 ただならぬ様子に気づいて、近くにいた若い娘が言った。

わたしは茫然とした状態で、その場にへたり込んだ。

(痛い! 痛い! )

「さわらない方がいいよ」

 隣に座っていた老人が、わたしの顔をのぞき込むと言った。

しばらくして、町医者が見に来た。

「手を外して。隠していたら見えない」

 町医者が、わたしの両手を強引にわたしの顔からひきはがした。

「どうなんですか? 」

 最初に声をかけてきた中年女性が、町医者に聞いた。

「火傷だ。おそらく、火の粉を受けたんだろう。

薬を塗った後、布を巻く。うちはどこ? 名前は? 」

 町医者が矢継ぎ早に言った。

「女房の名前はリタです。うちは葺屋町にあります」

 わたしは、聞き覚えのある声に顔を上げた。

やっぱり、思った通り、弁蔵だった。

浴衣姿ということは、稽古の最中、避難したようだ。

「ああ、おまえさんは!? 」

「まあ、なんてこと! 」

 近くにいた女性たちが黄色い声を上げた。

弁蔵の他にも、複数の歌舞伎役者がいるのが見えた。

これこそ、地獄の中の大輪の花。

重症な状態で筵の上に寝ていた人も少なからずいたが、

ほとんどの人たちが、人気役者の存在に心救われた。

「一曲お願いいたします」

 白ひげを生やした老人が拝み手で告げた。

「ここではなんだ。場を変えよう」

 弁蔵たちはそう言うと、見物したい人たちだけを

外へと連れ出して境内の隅で、

小声を出すよう気を遣いながら、

「勧進帳」や「外郎売の名場面を演じて、

火事に遭った人たちを激励した。

 夕方。ようやく、火事が鎮火した。

わたしは、弁蔵に手を引かれながら帰宅した。

ところが、どんなに歩いても、我が家にはたどり着けなかった。

家が建っていたと思われる地域は、

焼け野原になっていて、家々ががれきと化していた。

「お~い! 」

 2人して、途方にくれている所へ、

さっき別れたばかりの同じ門弟の勘蔵が、

わたしたちの元へ駆け寄って来た。

わたしはとっさに、顔の包帯を見られたくなくて、

弁蔵の後ろに隠れた。

男2人は、そんなわたしをよそにその場に

しゃがみ込んで話し込んだ。

空に一番星が出た頃だった。

「しばらく、門人とその家族らの

衣食住を面倒みてくださるそうな」

 弁蔵が、わたしに言った。

 指定された場所は、深川にある老舗の小料理屋だった。

幸い、ここまで、火の手が来ていなかった。

「おお! 来たか。入れ! 」

 小料理屋の前まで行くと、二階の方から声が聞こえた。

上を見上げると、百太郎が、窓から身を乗り出していた。

玄関に入ると、店の主人夫婦が自ら、わたしたちを出迎えた。

「どうぞ、上階へ上がってくんねえ」

「お世話になります」

 上階から聞こえて来る和んだ話し声を聞いた途端、

胸に込み上げて来るものがあった。

焼け出された後の温かい人のぬくもりは、涙が出るほどうれしい。

「どうしたえ? 大事ないか? 」

 弁蔵が、わたしの背中をさすると告げた。

「なんだか、うれしくて泣けてきた」

 わたしが正直な気持ちを言うと、弁蔵が背中に手をまわした。

「よく来たね。無事で良かった」

 二川屋の老婦人が告げた。

「まずは腹ごしらえだ。食事が住んだら、男衆は夜回り。

女衆は、1階の座敷でくつろぐが良い」

 百太郎が威勢良く言った。

「先生。お互い、大変だけど、頑張ろうね」

「無事で良かった」

「リタさん。その傷どうしたの? 」

「先生。ケガをしたのかい? 」

 三味線のお稽古の生徒たちが、

わたしの元へ歩み寄って来ると、口々に言った。

わたしは微笑むのが精いっぱい。

気のきいたセリフなど言えなかった。















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