第9話 火事

文字数 1,154文字

わたしと弁蔵は2年の月日を得て結婚した。

新居は、わたしが手習いのため借りていた芝居町の借家。

弁蔵がいる双葉屋は、旅回りの巡業が多いし、

江戸にいても、芝居の稽古に明け暮れており、

夫婦二人の時間は限られていた。

「たまには、一緒にどこか行かないかい? 」

「わりいが、呑みに誘われているわけさ」

 たまに、家にいると、昼から宴に呼ばれる。

双葉屋の頭領の付き添いなことが多いが、

ごくたまに、親しい役者仲間とつるんだりする。

「吞み過ぎないように」

 わたしは仕方なしに、どこか浮足立った弁蔵を送り出した。

ふと、さみしくなって、無性に涙が出て来ることがある。

そんな時は、三味線を弾く。

「なんか、良いことでもあったかい? 」

 夕方になり、買い物するため外を出ると、

近所の老人とばったりと出くわした。

「別に何もないよ」

 わたしがそう返事すると、老人がつまらなそうな顔をした。

日が沈むのを眺めながら、歩きなれた道を歩く。

八百屋の店先で、野菜を選んでいるその時、

風に乗って、火事を報せる鐘の音が聞こえた。

何かと思い、店の外へ飛び出すと、

店の前に黒山の人だかりができていた。

「火事はどこ? 」

 わたしは、近くにいた人に聞いた。

「あっちらしい」

 その人が来た道の方角。つまり、わたしの家の方を指さした。

「なんてこと! 」

 わたしは、視界に飛び込んで来た黒煙に驚きを隠せなかった。

急いで、帰ろうとした途中、火の粉が降りかかって来た。

家の前まで来ると、家が炎に包まれていた。

隣近所が、家の外に出て来て大騒ぎしている。

家財道具を第八車に積んでいる人たちが横を通り過ぎた。

わたしは、その中のひとりを見てハッとした。

(盛五郎の女房じゃないか!? )

盛五郎の女房は着の身着のまま逃げて来たらしく、

髪の毛2、3本が、顔にべったりとはりつき、

胸元がはだけて、浅黒い肌がチラ見えしていた。

(年月が過ぎれば、人って変わるもんね)

元花魁。盛五郎の女房がかつて、

派手な流行模様の着物を身に着けて、

高いかんざしを頭につけていたことを

今でも、鮮明に覚えている。うらやましさはなかった。

わたしの視線に気づいたのか、すれ違いざまに、にらまれた。

そのあと、わたしは急いで、庭の方へまわった。

庭に面した縁側の戸をなんとか開けることに成功した。

開けた瞬間、熱風が降りかかって来た。

わたしは無我夢中で、手あたり次第、

そばにある物を家の外へと運んだ。

「なにやっているんだい! 早く、逃げなさい」

 駆けつけた火消しが、ぐずぐずしているわたしを注意した。

わたしは、貴重品や身の回りの品を風呂敷袋に包むと、

それを背負って、一目散にその場から逃げた。

走っても走っても、火の手が追いかけて来る気がした。

御救い場になっている近所の寺へ着くと、

火事から避難してきた人たちでいっぱいになっていた。







ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み