第4話 はちあわせ

文字数 1,965文字

それから数日後の夕方。

嫌な予感がしていてもたってもいられず、

わたしは人目を忍ぶようにして、

不忍池の出会い茶屋へと急いだ。

なじみの茶屋だから、秘密厳守は心得ている。

今まで、人気役者との逢瀬が見つからなかったのは、

口の堅い店主はじめ、店の人のおかげだ。

玄関に入ると、上等な草履があるのが見えた。

「あいにく、今夜は貸し切りでねえ」

 玄関先で、店主に謝られた。

どうしょうかとも思ったが、貸し切りにしてはやけに静か。

次の瞬間、盛五郎が階段を降りて来た。

わたしは思わず手を振った。

盛五郎がなぜか、わたしを見つけると

ばつが悪そうに眼をそむけた。

「おまえさん、ちょいと、呑みすぎじゃないのかい? 」

 階段の踊り場に、見知らぬ女が姿を見せた。

一目で、その女が元女郎だと気づいた。

「でぇじょうぶだ。厠までついて来るな」

 盛五郎が、その女に向かって声をかけた。

「なにさ、心配してやったのに」

 その女はそう言うと、ぷぃっといなくなった。

「あの‥‥ 」

「すまねえ。見ての通りだ」

「すまねぇって、なに? 」

「おまえさんとの縁はこれきりにしてくんねえ」

「ひょっとして、今の人が女房? 」

「お言いの通りだ。燕松屋の宴に、

女房と妾を同席させるわけにはいかねえ」

 盛五郎は、自分が属する一門の宴の場を

台無しにしたくないと言い張った。

「そりゃそうだけど‥‥ 」

 わたしは思わず涙ぐんだ。

「とにもかくにも、話は別の日に」

 盛五郎がやけっぱちで言った。

「宴なら、料理屋でやるんじゃないのかい? 」

 わたしは食い下がった。

「‥‥ 」

 すると、盛五郎が黙りこくった。

その態度を見て、ウソだと気づいた。

「あれ、貸し切りかい? 」

 修羅場になりそうなその時だった。

背後から、聞き覚えのある深くて渋い声が聞こえた。

驚きふり返ると、二川百太郎が立っていた。

「若頭。お待ちしていやした」

 盛五郎がいつになく低姿勢であいさつした。

「おう。して、どういう用件なんだ? 」

 どうやら、呼び出された方は、くわしい用件を知らないらしい。

「折り入って、相談がありまして」

 盛五郎が、わたしに去るようにと目配せした。

「おまえさん。どうしたんだい? 」

 盛五郎の女房の甘ったるい声が聞こえた。

「あれ、話が違うじゃねぇかい? 

たしか、さしで呑むはずじゃ‥‥ 」

 わざとなのか、百太郎が大声で言った。

「すみません。ついてきちまいまして。帰らせます」

 盛五郎がそう言うと、階段を駆け上がって行った。

「おまえさんはここで、何をしているんだい? 」

 百太郎が聞いた。

わたしは会釈した後、黙って帰ろうとした。

「ちょい、待った」

 なぜか、百太郎が、わたしを引き止めると、

強引に、奥の座敷へ連れて行った。それからすぐ、

座敷の外へ飛び出して行った。

少しして、百太郎が、盛五郎夫婦を引き連れて

座敷へ舞い戻って来た。

「さあさあ、正々堂々とケリをつけてくんねえ」

 百太郎が、上座にどっかりと腰を下ろすと告げた。

「あんた、他人の亭主に手を出してなんのつもりだい? 」

 盛五郎の女房が啖呵を切った。

「女房がいるとは知らなかったわけです」

 わたしが正直に告げた。

「てっきり、知っていると思った」

 盛五郎が承知の上なんだろうと言ってきた。

火に油を注ぐようなセリフに、

盛五郎の女房が血相を変えた。

「わたしを誰だと思ってんだい?

これでも、遊郭にいた頃は、御職を張った女だよ! 

こんなどうでもいい女に負けてたまるものかい! 」

 盛五郎の女房がすごんでみせた。

その迫力に負けて、わたしは言葉をつぐんだ。

「カナ。すまねえ。おまえさんとは別れる。

わしは、このひとに惚れちまったんでえ」

 突然、盛五郎が、わたしの横に座り込むと告げた。

「するってぇと何かい。相談というのは、別れ話か? 」

 百太郎が目を丸くした。

「はあ。まことならば、若頭だけにと思ったんですがね」

 盛五郎がすまなそうに告げた。

「互いに、はちあわせしたとあれば、

何もなかったことにはならねえ。とことん、やるがいいさ」

 百太郎が、わたしと盛五郎の女房の顔を交互に見ると話を切り出した。

「妾になるのならかまわないよ。

なれど、これだけは覚えておくんなし。

わたしが、盛五郎の正妻であって、

跡継ぎも、わたしとの間の子だということをね」

 盛五郎の女房が、わたしに詰め寄ると言った。

「カナ。離縁状に判を押してくんねぇか? 」

 盛五郎が、懐から半紙を取り出すと告げた。

どうやら、盛五郎のわたしへの気持ちは本当らしい。

「いやだよ。いやに決まっているじゃないか」

 すると、途端に、盛五郎の女房が泣きわめいた。

「さすがに、浮気相手を前にしてそれはねぇだろ」

 百太郎がそう言うと、ため息をついた。

次の瞬間、鈍い音がして、わたしは意識を失った。

気がついた時、視界に飛び込んで来たのは、

見知らぬ屋敷の天井だった。
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