第27話

文字数 3,839文字

「ここ、今日はここに連れてきたかったんだよ」

 俊は、商店街の雑居ビルにはおよそ不釣り合いな瀟洒で洗練された木製の扉を、やや乱暴に平手で叩いた。木の扉と簡単に言ってしまうのが失礼に思えるほど凝った彫り物が施された扉を、そんなに荒っぽく扱って良いのかと、秀治は不安に思いながら俊を見ていた。

 健は、店の軒先に吊るされたどこの国の言語ともわからない洒落た看板を見ながら、フランス語か、それともドイツ語?と、呟いていた。呟いていた、というにはやや声を張っているようにも思えたけれど、秀治も他の誰もそんな健に目を向けてはいなかった。

「すいません、あんまり乱暴に叩かな・・・」

 扉がゆっくりと開くのに合わせて、女性の高い声が暗い店内から浮き上がるように伝わってきた。けれどその声の主は、扉を叩いているのが俊であるとわかると、俊の髪の毛を乱暴につかんで、人の店の顔に傷つけてんじゃない!と甲高い声を上げて彼を怒鳴った。ただ、周りに秀治たちがいることに気付くとすぐにその手を俊から離し、取り繕うように笑顔を振りまいてみせた。

「あ、ごめんなさい、このアホがまたつまんないことしてたから・・・」

 スレンダーな体型に、なんという名前なのか秀治にはわからないけれど、よくバーテンダーが着用しているベストのような制服がフィットした背の高い女性が、そう言いながら扉を大きく開いた。

「こいつから話は聞いてたから、どうぞ」

 短い黒髪が艶やかに揺れる端正な顔立ちの女性に、店の中へ入るよう促され、俊を除くその場にいた全員が、どこか緊張した面持ちでめいめい女性に御礼を言いながら、薄暗い店の中へ入っていった。最後に俊が店の中に入ろうとするのを女性は一旦制止し、

「ノックはいいから、普通に店に入ってきて。乱暴に叩いて彫刻に傷なんてつけたら、冗談抜きに賠償金請求するから、叔母さんに」

 と凄むような眼を向けそう言っていた。あの女性は俊の身内なのだろうか。俊は、はいはい、と本気にしていないような適当な返事を返し、すぐに秀治たちに追いついた。

「好きなとこ座れよ、どこでも適当でいいから」

 まるで店のオーナー気取りでそう促す俊の様子を、さっきの女性は苦々し気に見ながらも、すぐに秀治たちのほうへ笑顔を向けながら、どこでもどうぞ、と言った。

「ちょっと暗いから、足元、気を付けてね」

 洗練された大人っぽい見た目に似つかわしくない、少し幼さを感じさせる女性の声を背中に受けながら、秀治たちはどこか躊躇うようにひと足ずつ店の中へ入っていく。

 玄関から続く狭い導線の先に、数席のカウンター席と、反対側には低い丸テーブルを囲むように配置されたソファ席が一組置かれたスペースがあった。その周りには木組みの棚や植栽が効果的に配置され、床も木目調の淡い色合いで統一されていた。暖かみのある薄橙の間接照明が、水が地面に染み込むように淡く室内に浸透する空間は、バーというよりもカフェや美容室のような落ち着きを感じさせた。

 腰の位置よりも低い場所に、いくつかの間接照明が配されているだけなので、確かに部屋の中は薄暗く、まだ明るい屋外から入ってきたばかりの秀治たちにとっては歩き辛かった。けれど、やさしい店内の雰囲気は少しずつ秀治達の緊張をほぐし、誰に促されるでもなく、ソファにひとり、またひとりと腰を降ろした。

「なんか、ここってバーなんですよね、言われないとわかんないくらい、雰囲気がやさしい」

 そう言ったのは、梨沙だった。もう場の雰囲気に馴れてしまったのだろう。敬語を使ってはいるものの、親し気な様子で女性に話しかけていた。

「ありがと、昼はカフェもやってるから、こんな感じのレイアウトになってるんだけど、一番は私がお酒を飲みたくなるような場所ってことで、こんなデザインにしてるんだ。友達にもどんどん来てほしかったし」

 よかったら、お昼にカフェしてるときも寄ってよ。そう言いつつ、彼女はバーカウンターの向こう側に立った。確かに、カウンターの周りは白壁を基調にして、調度品も木製の淡い色合いのものが多い。

 頭上にはドライフラワーが下げられ、カフェと言われた方が確かにしっくりくるかもしれない。それでいて、棚に並べられた様々な種類の酒の瓶やグラスは、決して店の雰囲気を壊したり、破綻させたりすることなく、彼女の作る小宇宙の構成要素としての役割をしっかりと担っていた。

「あ、自己紹介してなかったよね、俊も私のこと紹介してないでしょ?みのりです。俊とは従姉弟同士なんだ」

 みのりはグラスを磨きながら、簡単に自分のことを、そして自分と俊の関係について説明した。背筋をきれいに伸ばして、無駄のない動きで準備をするみのりの姿に、秀治はいつの間にか見入っていた。それは沙織や梨沙も同じだったようで、言葉もなくみのりの背中を目で追っていた。

「一応、夜も客来てんだ」

 いつの間にかソファの真ん中に深く座っていた俊が、冷やかすようにいった。

「夜の方もちゃんと来てます」

 少し口を尖らせるように言ったみのりは、まぁ、お昼ほどじゃないけど、と付け足した。

「母親のやってる店を夜だけ借りて、こんな感じでお店してるんだ。昼のカフェでただで働くのがその対価」

 秀治達の方へ目を向け、笑顔でそう答えたみのり。なんの屈託や恥じらいもないみのりの清涼感溢れる姿に、沙織も梨沙も、秀治たちも一様に見入ってしまい、頷くことすら忘れていた。

「普通にカフェ継げばよかったじゃん、繁盛してるのに」

 俊のそんな悪態を、多分意識的に無視して、みのりはメニューを数冊手にして、秀治達のテーブルへやってきた。

「学校には内緒にしとくから、みんなも何も言わないでおいてね」

 悪戯っぽく笑ってみのりが差し出したメニュー表には、お酒やカクテルの名前が記されていた。それを見た沙織や梨沙、連れの女子生徒たちは一瞬顔を強張らせたものの、すぐに好奇心が勝ったような眼をして互いの顔を見比べ始めた。

 どれにする?ちょっと、わかんないかも、カクテルとか…。声を潜めて、そんなことを言っていた。

 いきなりお酒のメニューを見せられ、困惑したのは女子生徒たちだけではなかった。克己は、どうすんの、ホント頼んでいいのと、いつもどおりの何も隠そうとしない明るさで俊に尋ねていた。健の方は、相変わらず無表情を崩さずに、品定めするような態度でひとりメニューに目を通していた。けれど時折、ためらうように視線をメニューから外しながら、俊達の様子を伺っていた。

「えっと、カクテルとかよくわかんないんで、とりあえず甘いのが良いです」

 カウンターに向かって、梨沙が威勢よくそう言った。

「甘いのかぁ、あんまり度数が高くないのが良いよね。爽やかなのと、なんていうかな、クリーム系?どれがいい」

 そう問いかけたみのりに向かって、クリーム系が良いですと元気よく答える梨沙。隣にいた女子生徒二人もお互いに顔を見合わせながら、それぞれにクリーム系だの、爽やかなのがいいだの言っていた。沙織だけ、少し不安そうにメニューを見ていた。

「大丈夫?」

 幸運にも、あるいは俊や梨沙の作為なのか、沙織の隣に座っていた秀治は、出来る限り周りに聞こえないよう気をつけながら沙織にそう問いかけた。

「ごめん、なんだかちょっとドキドキするね。やっちゃいけないことをするのに、ドキドキするのも本当は良くないんだけど」

 沙織は、苦しそうにも、楽しそうにも見える笑みを向け、秀治に言った。

「これとかだったら、多分甘いし、度数も高くないよ」

 秀治はファジーネーブルを指差して言った。メニューにはカクテルの名前の下に簡単な説明があり、さらにアルコール度数まで丁寧に記載されていた。ファジーネーブルの度数は三度、ほとんど酒の要素が見当たらないような飲み物だ。少なくとも秀治にはそう思えた。

 姉が冷蔵庫に常備しているストロング系の缶を飲みつけてしまっている秀治には、酒の敷居は低い。秀治の言葉に少し安心したのか、沙織はファジーネーブルをみのりに伝えた。

「カクテル、詳しいの?」

 ほんの少しの驚きと、さらにほんの少しの羨望と嫉妬の混じった声で、梨沙が沙織に尋ねた。

「柑橘系っぽい名前だなって、これなら飲めるかもって思っただけ。度数も低そうだし」

 沙織は梨沙から向けられた矛先をかわすようにそう答えた。そんな二人のやり取りを見つつ、秀治はジンバックを注文した。ストロング缶に交じって冷蔵庫にあったのを、前に勝手に飲んでから気に入っていたカクテルだ。もちろん、この店で提供してるものの方が、度数は倍近く高い。

 各々の注文を受け付けてから、みのりはスナックの類いを乗せた籠をテーブルに持ってきた。そして去り際に、すごい子連れてきたねと、秀治の方に一瞥をくれながら俊に言った。ジンバックの力だろうか。俊は特に何も答えず小さく笑った。けれどみのりが去ったあとで、お前カクテル詳しいの?と秀治に尋ねてきた。

「これだけ知ってた」

 秀治は適当な調子でそう言った。

「そっか、だよな」

 俊はどこか安心したように言って、今度は克己と一緒に女子たちのいる方へ移っていった。

「ありがとう」

 不意に、沙織が秀治に向かって小声でそう言った。

「え、あぁ別に、知ってるやつ教えただけだから」

 首筋から腕の付け根のあたりが痛いくらい熱を帯びているのを、秀治は感じた。沙織はそんな秀治に優しい視線を送り、もう一度、ありがとうと言った。
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