第7話

文字数 2,032文字

 しばらく無言のまま、私と純季は病院の廊下の白壁の中を進んだ。ふいに、純季がある病室の前で立ち止り、病室の札に目をやった。

 ここが目当ての病室だろうか、純季の細い背中の向こうに見える名前に目をやると、舘岡雄樹と記されていた。やはりこの病室のようだ。

 純季が病室のドアをノックしようとすると、引戸になっていたドアが勢いよく開いた。一人の少年が病室から飛び出し、ドアの前で呆然と立つ純季とぶつかりそうになった。ふたりは慌てて互いを避けるように一歩退いた。

 病室から駆けだしてきた少年は、純季の姿を確認すると一瞬顔を強張らせ、そしてすぐに視線を逸らすと足早にその場を去っていった。純季は敢えてその背中を見ないようにしている、私にはそう思えた。

「今の、だれ?」

私は純季にそう尋ねた。

「渋沢新・・・」

 俯いたまま、純季はそれだけ言った。うちの高校の制服を着ていたし、そうだろうとは予想していた。けれどその渋沢新がなぜ、純季と出会った瞬間に逃げるようにここを立ち去っていったのか、その理由はわからなかった。

 純季はしばらくその場で動こうとはせず、躊躇うようにドアと床との間で視線を往来させていた。

「入らないの?」

 純季の顔を下から覗き込むようにして、私は尋ねた。純季は私を一瞥すると、うんと小さく唸ってドアに手を掛けた。

 病室のドアはするすると開き、薄暗い病室に光が忍び込んだ。ドアの前には間仕切りのカーテンが下ろされていた。

「新?何かわすれものでもしたの?」

 カーテンの向こうから、女性の声が聞こえた。

「あ・・・、加賀美純季です、舘岡先輩のお見舞いに来ました」

 純季はほんの一瞬言葉を詰まらせ、なんとかその言葉を絞りだした。緊張しているのだろうか。私の知る限り、純季が緊張しているところなんて見たことがない。

「え、純君?うわぁ、久しぶり」

 カーテンが少し開いて、若い女性の看護師がこちらに顔を見せた。

「新かと思った、なんか顔見るの久しぶりだね、どうぞ」

 看護師は嬉しそうに私達の方を見、部屋の中へ招いた。

「御無沙汰してます」

 遠慮がちに小さく頭をさげ、純季は看護師の招きに従ってカーテンの内側へ入った。私もそれに続いた。

「受付の人から純君と同じ名前の学生さんが来てるって連絡があったから、待ってたんだよ」

 看護師は嬉しそうに言った。重体の患者がベッドで寝ていることを意識してか、声のトーンは抑えていた。

「二年からは別のクラスだったんで、会う機会も減って・・・」

「そっか、違うクラスになったら、なんかそうなるよね」

 それでもわざわざお見舞いに来てくれたんだ、ありがとう。看護師はそう言い、ふと私の方へ視線を向けた。

「その子、純君の彼女?」

「違います」

 純季が何か言おうと口を開きかけたのを制して、私はきっぱりとそう答えた。

「・・・うん、そっか」

 看護師は朗らかな表情でそう言ったけれど、多分自分に都合の良いように勘違いして解釈しているに違いなかった。

「河西舞衣です、同じ学校の知り合いです。この人は新のお姉さんで、ここの看護師をしてる橘花さん」

 純季は私のことをそう紹介した。知り合いって、そういう紹介の仕方はどうなのだろう。そう思ったけれど、私は敢えて何も言わず、ほんの少しの不信感を込めた視線を純季へ送るだけにした。彼がそれを気づいた様子は窺えなかったけれど。

「舘岡先輩、容態はどうですか」

 純季はベッドに視線をやり、そう尋ねた。そこには呼吸器を取り付けられた若い患者が眠っている。

「うん、まぁ見ての通り。学校の屋上から落ちたっていうのに、集中治療室に入ってたのはお昼過ぎまで。落ちた場所が土を入れ替えたばかりの花壇だったから、目立った怪我も無し。念のため呼吸は確保するようにしてるけど、一般病棟に移しても問題ないくらいには回復してる。運がよかったなんてことは言えないけど、大事には至らなくて安心したよ」

 壁に立て掛けられていたパイプ椅子を二つ並べて、橘花さんは私達に座るようすすめた。

「すいません、ありがとうございます」

 私は橘花さんに頭を下げ、椅子に座った。でも純季は椅子に座ろうとはせず、舘岡先輩の足下からじっとその姿を見つめていた。そしてふいに顔を上げ、橘花さんに向かい「先輩、腕にアザがありますね」と言った。彼の視線は、敷布団の上に置かれた舘岡先輩の両腕に向けられていた。

 驚いた顔で橘花さんは純季を見た。聞かれたくない事を聞かれた、彼女の表情がそう言っているように見えた。

「右腕のところ、服で隠れてますけど、青黒くなってる部分が見えます」

 純季は橘花さんの表情を汲み取ることなく、舘岡先輩の右腕を指差し言った。というより、敢えて配慮することを拒んでいるようだった。

 橘花さんはしばらく逡巡して、そしてゆっくりと純季のそばへ近づき、言った。

「私も口止めされてるから、でも純君だから特別に言うよ、他の人には言わないで」

 あなたもねと、橘花さんは私に顔を向け言った。
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