第10話

文字数 1,938文字

 中学生の頃まで、私と母は今よりももっとたくさん、もっとじっくりと話をする時間を持てていたような気がする。床に入る時間も、起きる時間も、大体同じ位だった。

 時には夜遅くまで、母と様々な事を語り合った。学校のこと、当時所属していた部活動や人間関係の悩み、たまに異性の話も。

 母は自分の体験も交えながら、私の悩みに応えてくれた。自分のことを語る母がとても嬉しそうに見えて、それは幾らか私の救いにもなった。

 とりわけ、気になる異性の話題を私へ振り向けてきた時の母は、まるで同い年の女子に話しかけているかのようだった。誰かが聞き耳を立てているわけでもないのに、母はそういうとき声を潜めて私に話しかけてくるのだ。

 首から先をやや前にせり出して、秘めたる楽しみを享受する母の姿が、愛おしく思い出された。私はそんな母の、幼稚だけれど瑞々しい仕草にまごつきながら、誰にも言うつもりのなかった青く幼い思いを次々に引き出していった。

 気になる異性くらいはいたものの、当時の私は異性どころか同性にもろくに友人がいなかったから、母との会話で同性同士の人間関係を疑似体験していたようなものだった。

 もちろん限界はあったし、そのツケが今まさにまわって来ている。幸い、杏という、こう言ってはなんだか奇特な友人の存在がそれを緩和してくれていた。

 けれどそういう母との時間は、ここ二、三年でめっきり減った。原因はおそらく、母の仕事が忙しくなったからだろう。

 母は非常勤職員として、離婚してから十年以上福岡市役所に奉職している。身分は非常勤だから収入は少ないものの、一時期専業主婦をしていた母の再就職先としてはまずまずの場所だと、以前まで私は思っていた。一応は定時に帰る事が出来ていたし、休日も確保されていた。母子家庭であるとはいえ、少し我慢すればそこそこの生活を送る事は出来た。

 ところが、ここ最近は正規職員並みに残業を割り当てられたり、休日に出勤を求められることが多くなった。それがごくたまにというのであれば良いのだけれど、今年の四月からはほぼ毎日、問題になるんじゃないかというくらいの頻度で残業に駆り出されている。

 母は、以前は自分で料理をする事が多かった。けれど今は出来合いのものを買ってくることが多くなり、私も自分の食事は自分でどうにかすることを求められるようになった。

 料理が苦手で、食べることにも執着の無い私が、よく夕食を摂らずに済ませていることを母は知らない。知っていたとしても、それに対応する余裕も無い程忙しそうに見えた。

 母は酒量も増えた。毎晩呑むなんてことは今まで無かったのに。今では適当に買ってきた物を食べて、呑んで、お風呂に入ってすぐに寝て、その繰り返しがすっかり日常化していた。そしてそのプロセスの中に、私の入る余地は無かった。

 私もそれに馴れてきて、どうせ何も言葉を交わさずに夜を迎えることになるのだからと、いつしか母より先に眠るようになった。

 和室の畳の上に敷かれた二組の布団。私は毎晩窓側の方へ潜り込み、ダイニングキッチンに背を向けて頭から布団を被る。全身を布団にくるまれていると、ほんの一瞬母の匂いを感じることがある。そんな時には自然とキッチンの方へ頭を向けてしまう。

 でもそこにいる母からは、幼いころから馴染んできた丸みのある甘く暖かな匂いではなく、むせかえるような酒の匂いが漂ってきそうで、すぐに目を逸らしてしまう。

 母がシャワーを浴びていたりする時には、しばらくテーブルの上に置き去りにされた惣菜のパックや、空になったワンカップの酒の瓶をぼんやりと眺める。何か特別な感慨に耽るわけではない、ただ電気の点いた空っぽの部屋に身体も顔も向ける、それだけなのだ。

 ダメだ、関係の無い方へ意識が流れてしまう。私は全く集中力を保てない頭をふるふると振るうと、近くにあったクッションを手繰り寄せ、顔を埋めた。

 夕方を一人で過ごすのはいつものことだ。なのにどうして、今日はこんなにも奇妙な想像と感傷に心を掻き乱されるのだろう。クッションで顔を覆ったまま、私は強く息を吐いた。吐息が鼻の周りを熱くした時、私は純季の事を思い出した。

 あいつは何を考えているんだろう。本気で舘岡先輩を殴って突き落とした犯人を探すつもりなのだろうか。そもそも本当に誰かに突き落とされたのだろうか。

 殴られた痕跡は確かにあった。誰もいない朝の学校の屋上で、金属バットのような物で殴られ、そして下の植え込みに落ちた。

 気が付けば、私も屋上での出来事に思いを巡らせていた。なんだか頭がぼんやりしてきた。もう宿題どころでは無い、しばらくプリントは脇へ置いておこう。私はクッションに突っ伏したまま、しばしの眠りに落ちた。
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