第14話

文字数 2,215文字

 ただ、そこまで姉のことをわかっているにも関わらず、一方で秀治は姉がどんな仕事をしているのか、全く知らなかった。苦しいとはいえ、二人の生活を支える程度の稼ぎを得ることは出来ているようだが、その手段まではわからなかった。

 いや、わからないようにしていたのかもしれない。高校には進学しなかったはずの姉が、高校の制服のような、それにしては随分派手派手しいデザインの服をルーズに着たまま深夜に帰宅し、倒れ込むように布団に入った姿を見た時に、もう彼女がどんな仕事をしているのか、秀治はわかっていたはずなのだ。

 けれど、秀治はわかっていないふりをして、深い寝息を立てる姉から目を逸した。翌日、仕事着のまま帰ってきたと、ぽつりと姉が言っていたのも、聞こえないふりをした。

 心配はするけれど、自分の手から溢れ出しそうになれば手を離す。そうやって自分の身を護ることに汲々としながら生きていくので秀治は精一杯だった。姉のメイクが派手になっても、着ている服の肌の露出する面積が少しずつ多くなっていっても、秀治は気づいていないふりをした。

 そんな秀治の臆病な態度を姉も察していたのか、時に蒼い肌の色で帰って来る日があっても、決して秀治にその辛さを吐露したり、不安をぶつけたりはしなかった。秀治にとっては都合の良いことだったけれど、日に日に表情に乏しくなっていく姉の、近づいただけでわかる酒やタバコの強い匂いだけは、気づかずにはいられなかった。 

 姉自身が酒やタバコをおぼえたのかもしれないけれど、秀治は姉の傍に身体を寄せるぎらついた目の男たちの姿を想像せずにはいられなかった。筋張った腕を姉の身体に這わせる情景を想像しながら、それでも秀治はそこに真正面から目を向けることを拒んでいた。

 自分には何も出来ない、やれることなんて何もない。呪文のように心の奥で繰り返し、消耗していく姉の姿を電車の車窓を流れる風景を眺めるように見ていた。そんな秀治を、姉の方も責めることもなく、助けを求めるでもなく、すべて自分で背負い込む覚悟でいるようだった。

 そんな自分を思いやる姉の姿が一層秀治の罪悪の荷を重くした。姉の辛さや苦しさに自分も一緒に向き合おうと、せめて何か行動を起こした方がむしろ楽になれるはずなのに、少しでも姉の背負っているものを一緒に背負う努力をした方が、そこから目を背けるよりも一層自分を誇れるとわかっているのに、秀治はただただやり過ごす道を選んだ。

 自分でも馬鹿だとわかっている。他人から見ても、いつまでも苦しいまま逃げ続けるのは馬鹿だと思われるに違いない。けれど、どう思われようと、今の秀治にはその最初の一歩の苦しみを受け入れる選択肢はなかった。すでに秀治は十分に苦しんでいた。さらなる苦しさを積み重ねることなど想像も出来なかったのだ。

 中学校に入学しても、気がつけば秀治は苛められるポジションにいた。小学生も中学生も、苛めても良い奴かどうかを見極める嗅覚の鋭さは変わらなかった。大人しく、抵抗する力が弱く、場合によっては貧しく。

 中学生はストレスが溜まる。とにかく、何か弱さを感じさせる人間を見つけ出して、いつもの当たり前の生活の中で溜まっていった何か良くないものを吐き出すなり、ぶつけるなりしないと、中学生はもたないのだ。

 ではどこに、誰にぶつけるのだろう。それを見つけ出す能力を中学生は本能的に見つけ出す。そして残念ながら、多くは同じ環境で同じように良くないものを溜め込んでいる、別の生徒が標的になる。

 中学校に入学して一ヶ月と経たないうちに、秀治は自分よりも身体の大きな数人の生徒達から絡まれるようになった。

 彼らは内側に溜め込んで持て余した力を、より直接的に秀治にぶつけた。例えば最初のうちは平手で強く秀治の背中を叩いたり、そのうちに腕を首に絡ませ、きつく締め上げたり、後ろから膝で膝や太ももを蹴り上げたりした。最近では、正面から腹に拳や蹴りを入れるようになった。

 そんな時でも、秀治は抵抗の意思を示すことはせず、ときには卑屈に笑みさえ浮かべながら、さもそれを受け入れているかのような素振りを見せた。

 秀治に拳を向ける生徒達にすれば、これ以上ない免罪符を得たようなものだった。彼らは折に触れて秀治を取り囲み、薄ら笑いを浮かべながら、やめて、やめてと小さな声で遠慮がちに声を上げる秀治の首に腕を回し、互いに視線を交わしながら秀治の姿を笑いあった。

 首を締め上げるその力が強められていく度に、秀治は息苦しさと、さらに別の苦しさを噛み殺しながら、それが昔からの習慣であるかのように、薄い唇を悲しく釣り上げて笑った。

 期待などしていなかったけれど、先生や他の生徒達が自分を助けてくれることはなかった。誰かが気づいて、自分の首を締め、背中を蹴りつける奴らを止めてくれたらなんてことは、最初からあてにはしていなかった。小学校のころからそうだったのだから、中学校に入学したくらいでそこに変化があるとは思えない。

 悔しい気持ちからも、怖い気持ちからも目を逸した。他人の苦しみに対してそうするように、自分の苦しみと向き合うことからも逃げた。

 そうやって喉の奥が焼け付くようなひりひりした日々を送っていた。そんな日々でも、かろうじて彼が中学校に通い続けていたのには理由があった。一つには姉に余計な心配をかけないため、そしてもうひとつは、いつもの朝のルーティン。
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