第39話

文字数 1,944文字

“ 開いてる? ” 

 そう思って秀治がドアノブをまわすと、思ったとおり玄関の鍵は開いていた。姉が外に出たのだろうか。そう思いながら扉を開けると、玄関の土間に小さな古めかしいサンダルがあった。

 吉岡さんが来ているようだ、朝、登校前に確かに姉の世話を頼んではいたけれど、こんな時間までいてくれたのか?もしかすると、夕食の支度をしてくれているのかもしれない。それなら、こっちで買い物する必要はなかったんじゃないか。吉岡さんにも御礼に何か買って来ればよかった。

 そんなことをぼんやり考えながら、秀治はただいまと言い忘れたまま、靴を脱いで、扉の鍵を閉め家に上がった。電気が点いたままの台所には誰もいないから、多分吉岡さんも姉も奥の居間にいるのだろう。そう思い、秀治もそこに向かった。期待したとおり、既に夕食の準備はされていた。

 秀治が居間に続く扉を開けると、すぐ目の前に吉岡さんがいた。こんばんわ、秀治はそう挨拶をしようとしたけれど、同時に吉岡さんの手元に目がいった。そして、その手に握られた数枚のお札を見て、言葉よりも先に手が吉岡さんの胸倉に伸びていた。

 吉岡さんは居間の奥に置かれた小さな棚の一番上の引き出しに手を掛けていた。そこには受領した生活保護費のうちの幾らかが引き下ろされて、仕舞ってあった。

 一瞬で状況を理解した秀治は、吉岡さんの胸倉を掴むやそのまま抱え上げるように立たせ、恐怖の表情を浮かべながら何事が言おうとしている相手を背後の窓まで追いやった。吉岡さんの後頭部が強く窓に打ち付けられたけれど、秀治は気にすることなく激しく詰め寄った。

「ばばぁ、何してんだよ。何握ってんだよこの野郎!!」

 胸倉を掴む手に、キリキリと力が入る。首を締めあげてしまっているのか、吉岡さんは苦しそうに喘いでいる。けれどそんなことなど秀治の眼には入らない。

 瞬間、吉岡さんの胸倉を掴んでいる方の秀治の腕に、白い細腕が絡みついた。姉の腕だった。彼女は吉岡さんから秀治を引きはがそうとしている。秀治の腕に爪を立て、唇を強く噛みながら必死にその細い両腕に力を込める姉の両目に、雫が溜まっているのがわかった。

「離せよ、何してんだよ」

 喉が千切れるような声を上げて、秀治は自分の腕に絡みつく姉の腕を取り払おうとした。秀治の手が離れた吉岡さんは、その場に力なくへたり込んだ。それを確認した姉は、ようやく秀治から離れ、吉岡さんを庇うようにして隣に座った。

「なんなんだよ、泥棒じゃねえか、そのばばぁ」

 秀治は強い口調で座り込む二人に言葉を投げつけた。それだけでは収まらず、棚の上に置かれた古い時計を力任せに壁に叩きつけた。姉は秀治から目を逸らし、縋りつくように吉岡さんに抱き着いた。けれど、すぐにまた秀治の方へ視線を向けた。

「泥棒じゃない、私があげたの。毎月、あげてきたの」

「は?ふざけんなよ、なんでこんな奴に金やらなくちゃいけねぇんだよ」

 姉の口から出た言葉の意味が理解出来ず、秀治は棚を叩きながら姉に詰め寄った。けれど、姉はそんな秀治に怯む様子もなく、真っすぐと彼を見据え、言葉を返した。

「吉岡さん、いつも一緒にいて、私のために色々してくれてたんだよ。食事も、洗濯も掃除も、あ
んたが学校に行ってる時も、バイトしてる時も、誰かと遊んでる時も、私が一人にならないようにって、いつも一緒にいてくれたんだよ」

 姉の言葉は、荒れる秀治への怖れをどこかに含みながら、それでも真っすぐに秀治に向けられた。小さく震えるその身体を、吉岡さんが丁寧に、ゆっくりと撫でていた。

「これくらいしか、御礼のやりようが無いの、お金を渡すくらいしか・・・」

 絞り出すようにそう言った姉の言葉を、秀治は最後まで聞くことが出来なかった。秀治は座り込んだままの二人に背を向け、玄関まで真っすぐに向かった。さっき脱ぎ捨てたばかりの靴を履き、
乱暴にドアを開けると、閉めもせずに外へ飛び出していった。

 早足のまま駐輪場まで来た秀治は、自転車を学校に置いたままにしていたことに改めて気が付いた。そのことに思い至った時には、秀治の右足は衝動を抑えきれず、駐輪場の柱を踏みつけるように蹴っていた。駐輪場の柱は力任せの秀治の蹴りにも、わずかに鈍く震えただけで、ほとんど動じることはなかった。

 自分がいないときも、姉には吉岡さんがいた。いや、現在進行形で、姉には自分がいなくても吉岡さんがいる。さっきの姉の言葉は、そんな現実を秀治に突き付けていた。どうしようもなく秀治の手は震えた。足も、胸も、粟立つような不快な震えが止め処なく波になって秀治の全身を侵す。

 駐輪場の柱を両手で握りつぶすように掴む秀治の脳に、加賀美純季の言葉が幾度も幾度も響き、頭骨の内側でぶつかりあった。
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