第24話
文字数 3,785文字
沙織の姿をその視界に捉え、落ち着きを取り戻しつつあった秀治の胸の鼓動が、反転するように早鐘を打ち始めた。目尻から頬の辺りがひりひりと温度を上げ、半開きになった口からは声の代わりに息が漏れ出ていた。言葉は何も出てこない。
何も言わずに自分の方を見ている秀治のことを、沙織はさして不審に思うでもなく、細面の頬を少し緩めて笑顔を見せた。その仕草が、秀治の心臓を握りつぶしてしまいそうなほど強く、繰り返し掴んだ。それでもなんとか会釈だけを小さく返して、沙織の微笑みに応えた。
「尾崎君も本を見に来たの?」
沙織の問いかけに、本当は違うけれど、秀治は思わず二度、三度と頷いた。
「そうなんだ。でもこの辺の本棚まで見に来るって、結構本好きなんだね」
意外って思っちゃった、ごめん。沙織はそう言って、今度は気まずそうに、俯き加減に微笑んだ。
「あ、いや全然。本好きには見えないって、自分でもわかってるから、大丈夫」
秀治は早口でそう言った。実際、秀治は本好きではない。
「そんなに色々な本を読んでるわけじゃないし、多分三橋より全然、何もしらない」
そこまで言うのが精一杯だった。勢いに任せて沙織の苗字を呼び捨てにしたことに気付いて、秀治の感情は羞恥に苛まれそうになっていた。そして、そんな秀治を見る沙織の情の深そうな眼差しが、余計に秀治の心を揺らした。
「ごめん、また失礼なこと言っちゃうけど、尾崎君て、結構優しいしゃべり方なんだね。あ、さすがにこの言い方はないか、ごめん」
そう言って、沙織は顔の前で小さく両掌を合わせた。
「いや大丈夫。それもなんとなくわかってるから」
動揺しきった秀治は、とにかく大丈夫、大丈夫と繰り返すしかなかった。
「俺、顔怖いし、なんか身体も厳ついから、怖い感じに見られるだろうなとは思ってる」
「怖いとは思ってないよ。ただもう少し、厳しい感じの人かなって、勝手に想像してただけ」
沙織は笑顔のまま言った。身体は相変わらず熱いままだったけれど、会話を交わしていくうちに、秀治は段々と三橋に言葉を返せるようになった。
「厳しい感じか、全然、緩いよ。あ、緩いって言い方もよくわかんないよね」
「ううん、なんとなくわかる」
そんなやりとりをして、秀治と沙織は交わした言葉の可笑しさに、目を見合わせて笑った。
「なんか変なこと言った。緩いってなんだろ」
「ごめん、私も、ほんとはよくわかってないのに、なんかわかったような気になってた」
沙織が柔らかな口元を手で隠すようにして笑う姿が、可愛らしく、愛おしく、遠慮がちに歯を少し見せて忍び笑いする秀治の目尻は、ほんの少し熱くなった。
「でも、ここの本棚までわざわざ来る人って、私くらいかなって思ってた。上級生でもここに来てる人なんて見たことないから、少しびっくりしちゃった」
いや、なんとなく来てみただけで、別に何か本を探しに来たわけじゃないよ、そう答えた秀治に、沙織はそれでもどこか嬉しそうな表情を見せた。
「私も、ここの本はよく知らないものの方が多いよ。すこしチャレンジしたくて来てみただけだから、知識の量は同じくらいじゃないかな」
沙織は細い指の先を、日に焼け変色してはいるものの、いかにも上質な赤い背表紙の本たちへ向けた。そしてその一つ一つを指でなぞるようにしながら、透き通った、そしてどこか弾むような声で言った。
「ここにあるのは海外の文学とか、あとは日本のでも、明治以降から、多分戦前、戦時中とか、戦後すぐの時代のもの。それと古典の授業に出てきそうな古い文学作品、そういうのばっかり、読書好きな人でも簡単に手は出せそうにない作品だよね」
そう語った沙織の声は、控えめながらどこか誇らしげにも聞こえた。自分はチャレンジングなことをしようとしている、そんな自覚が多少なりともあるのかもしれない。
「古典、あぁ、なんか『枕草子』とか、そういう…」
秀治はそう言いかけて、なんだか自分がとても間抜けなことを言っているような気がした。授業で聞いたことのある、所謂昔の文学とやらの名前をとりあえず挙げてみただけだったから、沙織の知識や熱量に対して釣り合わない会話をしてしまったような、そんな思いに駆られた。
「そうそう、それもあるよ。あと『方丈記』も『和泉式部日記』も。基本的に、分類は十進分類法に従ってて、日本文学のジャンルならその中で時代ごとに並べてるみたい。だからほら、『徒然草』はこっちにあるでしょ」
沙織は『和泉式部日記』と書かれた背表紙を一度指で触れた後、少し手を伸ばして『方丈記』を軽くなぞってから、その少し先にある『徒然草』を指差した。
「でもどうなのかな、時代ごとに並べるのはシンプルだけど、でも作品の舞台になった時代にするのか、成立した年代で並べるのか、どっちが相応しいのかな。それに『徒然草』と『太平記』が並んでしまわれてるけど、随筆と軍記物が隣同士って…」
沙織の止まらない語りに秀治は圧倒されて、何も言わず彼女を見ていた。沙織もそれに気が付いたのか、秀治の方へ視線を向けて、ごめんねと小さく言った。
「話し出したら止まらなくて、しかも黙って聞いてくれる人なんて久しぶりだったから。意味わかんないでしょ」
きまりが悪そうな表情を見せながら、沙織は言った。
「いや、全然、そうやって語ってるの聞くの、嫌いじゃないよ」
秀治はそう言って、沙織をフォローした。実際には、話の内容そのものは何一つ頭には入って来てはいなかったのだけれど。
「ありがとう、そう言ってくれて」
沙織は控えめに、けれどさっきよりも明るい笑顔を見せて言った。
「でも私はどっちかって言うと、外国文学の方を目当てに来たんだ。例えば」
そう言って、沙織は壁伝いに配された本棚をさらに奥の方へ進み、本棚二つ分進んだところで、彼女の胸の高さ辺りに置かれた本を取り出した。彼女が手に取った厳めしい黒の装丁の本の表紙には『失われた時を求めて』の表題が見えた。
「タイトルとあらすじ、しかも数行程度のざっくりした内容しか、実は知らないんだけどね、この本。でもこれだけで、とても興味が湧いてきて。“お茶会の席で口にしたマドレーヌと紅茶の香りが、私に失いかけていた過去の記憶を思い起こさせた。“あらすじはこの数行だけ、でもこれだけでも、自分の過ごしきた遠い過去に向かって、翼を羽ばたかせながら遡っていくようなイメージが湧かない?」
もちろん、読んでみないとそれが正しい理解なのかはわからないけど、あくまでタイトルだけ見た時の想像だからと、沙織は恥じらうように微笑んで、そう言った。
「きっと、間違った想像じゃないと思うよ」
反射的に、秀治はそう言った。もちろん根拠はないし、それを確かめるためにこの本を読む勇気も胆力も秀治にはないけれど、思わず口をついてその言葉が出てしまった。
「ありがとう。尾崎君て優しいね」
優しいね、その言葉を掛けられたのは、初めてかもしれない。両親や姉ですらそんなことを秀治に言ってくれはしなかった。沙織にしてみれば、特に意識することもなく言った言葉だったのかもしれないけれど、秀治の身体は動かすのもままならないほど強張り、熱くなった。黙ったままでいる秀治を不思議に思ったのか、沙織は首を傾げた。
「大丈夫?何か変なこと言っちゃったかな・・・」
「あ、いや、大丈夫。優しいねって言われたこと無かったから、なんだか変な感じで。こんな時ってどう反応したらいいのかなって思って」
息継ぎもせずにそう話して、それから大きく息を吸って、秀治はようやく自由に動かせるようになった自分の身体に出来る限り酸素を取り込んだ。
「どう反応したら?そっかぁ」
沙織は可笑しさを噛み殺すように口元を押さえた。
「ごめんね、笑っちゃだめだよね。でも、誉められてうれしいって思ってくれたのかな、それならよかった。私はさ、優しいって、なんだかありきたりなお礼の言葉だなって思ってたから、もう少し良い言葉は無いかなって思ってたくらいだよ」
ツリーチャイムのような沙織の涼やかな声は、強張りの取れかけていた秀治の心と身体をさらに優しくほぐした。
「もちろん、うれしい。でも、ただ普通のことをやっただけなのに嬉しいって言われるのは、なんていうか、どうしていいかわからないっていうか」
言葉は見つからないけれど、とりあえず話そう。秀治はそう思った。沙織との今の時間を少しでも長く、少しでもたくさん会話をしなければ、そんな風に、時間の流れを惜しむように言葉を継いだ。
「相手の言葉を素直に受け取って、うれしいって思ってくれたら、言った相手も嬉しくなるよ。だから尾崎君はやっぱり優しいと思う」
沙織の言葉が穏やかに秀治の心に染み入った。秀治は照れたように唇を結んで、少し微笑んで俯いた。沙織は、ただ秀治が謙虚に照れているだけだと思ったかもしれないけれど、秀治にとっては早鐘を打つ心の内側を悟られないための精一杯の仕草だった。
優しい、そう初めて言われたことに対する気後れはもちろんあるけれど、その相手が沙織であることの特別さと、そしてその特別な出来事に、喜びよりも動揺と緊張が勝って混乱する自分の内側を、秀治は出来るだけ秘めておきたかった。
「あ、ところでなんだけど」
沙織は、不意に何かを思い出したように秀治に問い掛けた。
何も言わずに自分の方を見ている秀治のことを、沙織はさして不審に思うでもなく、細面の頬を少し緩めて笑顔を見せた。その仕草が、秀治の心臓を握りつぶしてしまいそうなほど強く、繰り返し掴んだ。それでもなんとか会釈だけを小さく返して、沙織の微笑みに応えた。
「尾崎君も本を見に来たの?」
沙織の問いかけに、本当は違うけれど、秀治は思わず二度、三度と頷いた。
「そうなんだ。でもこの辺の本棚まで見に来るって、結構本好きなんだね」
意外って思っちゃった、ごめん。沙織はそう言って、今度は気まずそうに、俯き加減に微笑んだ。
「あ、いや全然。本好きには見えないって、自分でもわかってるから、大丈夫」
秀治は早口でそう言った。実際、秀治は本好きではない。
「そんなに色々な本を読んでるわけじゃないし、多分三橋より全然、何もしらない」
そこまで言うのが精一杯だった。勢いに任せて沙織の苗字を呼び捨てにしたことに気付いて、秀治の感情は羞恥に苛まれそうになっていた。そして、そんな秀治を見る沙織の情の深そうな眼差しが、余計に秀治の心を揺らした。
「ごめん、また失礼なこと言っちゃうけど、尾崎君て、結構優しいしゃべり方なんだね。あ、さすがにこの言い方はないか、ごめん」
そう言って、沙織は顔の前で小さく両掌を合わせた。
「いや大丈夫。それもなんとなくわかってるから」
動揺しきった秀治は、とにかく大丈夫、大丈夫と繰り返すしかなかった。
「俺、顔怖いし、なんか身体も厳ついから、怖い感じに見られるだろうなとは思ってる」
「怖いとは思ってないよ。ただもう少し、厳しい感じの人かなって、勝手に想像してただけ」
沙織は笑顔のまま言った。身体は相変わらず熱いままだったけれど、会話を交わしていくうちに、秀治は段々と三橋に言葉を返せるようになった。
「厳しい感じか、全然、緩いよ。あ、緩いって言い方もよくわかんないよね」
「ううん、なんとなくわかる」
そんなやりとりをして、秀治と沙織は交わした言葉の可笑しさに、目を見合わせて笑った。
「なんか変なこと言った。緩いってなんだろ」
「ごめん、私も、ほんとはよくわかってないのに、なんかわかったような気になってた」
沙織が柔らかな口元を手で隠すようにして笑う姿が、可愛らしく、愛おしく、遠慮がちに歯を少し見せて忍び笑いする秀治の目尻は、ほんの少し熱くなった。
「でも、ここの本棚までわざわざ来る人って、私くらいかなって思ってた。上級生でもここに来てる人なんて見たことないから、少しびっくりしちゃった」
いや、なんとなく来てみただけで、別に何か本を探しに来たわけじゃないよ、そう答えた秀治に、沙織はそれでもどこか嬉しそうな表情を見せた。
「私も、ここの本はよく知らないものの方が多いよ。すこしチャレンジしたくて来てみただけだから、知識の量は同じくらいじゃないかな」
沙織は細い指の先を、日に焼け変色してはいるものの、いかにも上質な赤い背表紙の本たちへ向けた。そしてその一つ一つを指でなぞるようにしながら、透き通った、そしてどこか弾むような声で言った。
「ここにあるのは海外の文学とか、あとは日本のでも、明治以降から、多分戦前、戦時中とか、戦後すぐの時代のもの。それと古典の授業に出てきそうな古い文学作品、そういうのばっかり、読書好きな人でも簡単に手は出せそうにない作品だよね」
そう語った沙織の声は、控えめながらどこか誇らしげにも聞こえた。自分はチャレンジングなことをしようとしている、そんな自覚が多少なりともあるのかもしれない。
「古典、あぁ、なんか『枕草子』とか、そういう…」
秀治はそう言いかけて、なんだか自分がとても間抜けなことを言っているような気がした。授業で聞いたことのある、所謂昔の文学とやらの名前をとりあえず挙げてみただけだったから、沙織の知識や熱量に対して釣り合わない会話をしてしまったような、そんな思いに駆られた。
「そうそう、それもあるよ。あと『方丈記』も『和泉式部日記』も。基本的に、分類は十進分類法に従ってて、日本文学のジャンルならその中で時代ごとに並べてるみたい。だからほら、『徒然草』はこっちにあるでしょ」
沙織は『和泉式部日記』と書かれた背表紙を一度指で触れた後、少し手を伸ばして『方丈記』を軽くなぞってから、その少し先にある『徒然草』を指差した。
「でもどうなのかな、時代ごとに並べるのはシンプルだけど、でも作品の舞台になった時代にするのか、成立した年代で並べるのか、どっちが相応しいのかな。それに『徒然草』と『太平記』が並んでしまわれてるけど、随筆と軍記物が隣同士って…」
沙織の止まらない語りに秀治は圧倒されて、何も言わず彼女を見ていた。沙織もそれに気が付いたのか、秀治の方へ視線を向けて、ごめんねと小さく言った。
「話し出したら止まらなくて、しかも黙って聞いてくれる人なんて久しぶりだったから。意味わかんないでしょ」
きまりが悪そうな表情を見せながら、沙織は言った。
「いや、全然、そうやって語ってるの聞くの、嫌いじゃないよ」
秀治はそう言って、沙織をフォローした。実際には、話の内容そのものは何一つ頭には入って来てはいなかったのだけれど。
「ありがとう、そう言ってくれて」
沙織は控えめに、けれどさっきよりも明るい笑顔を見せて言った。
「でも私はどっちかって言うと、外国文学の方を目当てに来たんだ。例えば」
そう言って、沙織は壁伝いに配された本棚をさらに奥の方へ進み、本棚二つ分進んだところで、彼女の胸の高さ辺りに置かれた本を取り出した。彼女が手に取った厳めしい黒の装丁の本の表紙には『失われた時を求めて』の表題が見えた。
「タイトルとあらすじ、しかも数行程度のざっくりした内容しか、実は知らないんだけどね、この本。でもこれだけで、とても興味が湧いてきて。“お茶会の席で口にしたマドレーヌと紅茶の香りが、私に失いかけていた過去の記憶を思い起こさせた。“あらすじはこの数行だけ、でもこれだけでも、自分の過ごしきた遠い過去に向かって、翼を羽ばたかせながら遡っていくようなイメージが湧かない?」
もちろん、読んでみないとそれが正しい理解なのかはわからないけど、あくまでタイトルだけ見た時の想像だからと、沙織は恥じらうように微笑んで、そう言った。
「きっと、間違った想像じゃないと思うよ」
反射的に、秀治はそう言った。もちろん根拠はないし、それを確かめるためにこの本を読む勇気も胆力も秀治にはないけれど、思わず口をついてその言葉が出てしまった。
「ありがとう。尾崎君て優しいね」
優しいね、その言葉を掛けられたのは、初めてかもしれない。両親や姉ですらそんなことを秀治に言ってくれはしなかった。沙織にしてみれば、特に意識することもなく言った言葉だったのかもしれないけれど、秀治の身体は動かすのもままならないほど強張り、熱くなった。黙ったままでいる秀治を不思議に思ったのか、沙織は首を傾げた。
「大丈夫?何か変なこと言っちゃったかな・・・」
「あ、いや、大丈夫。優しいねって言われたこと無かったから、なんだか変な感じで。こんな時ってどう反応したらいいのかなって思って」
息継ぎもせずにそう話して、それから大きく息を吸って、秀治はようやく自由に動かせるようになった自分の身体に出来る限り酸素を取り込んだ。
「どう反応したら?そっかぁ」
沙織は可笑しさを噛み殺すように口元を押さえた。
「ごめんね、笑っちゃだめだよね。でも、誉められてうれしいって思ってくれたのかな、それならよかった。私はさ、優しいって、なんだかありきたりなお礼の言葉だなって思ってたから、もう少し良い言葉は無いかなって思ってたくらいだよ」
ツリーチャイムのような沙織の涼やかな声は、強張りの取れかけていた秀治の心と身体をさらに優しくほぐした。
「もちろん、うれしい。でも、ただ普通のことをやっただけなのに嬉しいって言われるのは、なんていうか、どうしていいかわからないっていうか」
言葉は見つからないけれど、とりあえず話そう。秀治はそう思った。沙織との今の時間を少しでも長く、少しでもたくさん会話をしなければ、そんな風に、時間の流れを惜しむように言葉を継いだ。
「相手の言葉を素直に受け取って、うれしいって思ってくれたら、言った相手も嬉しくなるよ。だから尾崎君はやっぱり優しいと思う」
沙織の言葉が穏やかに秀治の心に染み入った。秀治は照れたように唇を結んで、少し微笑んで俯いた。沙織は、ただ秀治が謙虚に照れているだけだと思ったかもしれないけれど、秀治にとっては早鐘を打つ心の内側を悟られないための精一杯の仕草だった。
優しい、そう初めて言われたことに対する気後れはもちろんあるけれど、その相手が沙織であることの特別さと、そしてその特別な出来事に、喜びよりも動揺と緊張が勝って混乱する自分の内側を、秀治は出来るだけ秘めておきたかった。
「あ、ところでなんだけど」
沙織は、不意に何かを思い出したように秀治に問い掛けた。