第13話

文字数 2,368文字

 秀治の両親が離婚したのは、秀治がちょうど十歳の誕生日を迎えた日だった。事あるごとに母や姉、そして秀治に暴力を振るっていた父は、それでも自分から離れようとしない母に憎悪と怖れの言葉を投げつけるだけ投げつけ、いつの間にか秀治たちの元からいなくなっていた。

 法的には離婚したという形式を取ってはいたものの、秀治にしてみれば父はいつの間にかいなくなっていたとしか思えないほど、気づけば離れ離れになっていたのだ。

 父親に対してそれほど執着のなかった秀治にとっては、自分に反抗してこない奴にしか手を出せない弱い男が、いつの間にか自分の前から消えていたというだけのことだったのだけれど、母はそうではなかった。

 元々、精神疾患を抱えながらどうにか生きていた母にしてみれば、あんな父親でも依存しなければ生きてはいけなかったのかもしれない。父親がいなくなってから程なく母は仕事を辞め、一日の大半を寝て過ごすようになった。

 たまに起きていることがあったかと思えば、そんな時は決まって秀治や姉に対し憎悪の言葉を突き刺した。

 そうかと思えば、子供のために何も出来ない自分の不甲斐なさに涙しながら、必死に秀治たちに許しを乞うたりすることもあり、それが幼い秀治の未熟な思考を撹乱した。

 お母さんは何を考えているの、何がしたいの、自分たちにどうして欲しいの、そんな問いが常に秀治の頭のなかを旋回し続けていた。そしていつも、秀治はその着地点を見いだせないまま問いそのものを心の奥に封印していた。母に直接向き合い、問いかける勇気もないまま、日々をやり過ごすことを選んだのだった。

 けれど、姉の方はそんな中途半端な態度を取る気はなかったようで、常に母と激しく言い争っていた。

 いや、どちらかといえば姉が一方的に母にきつい言葉を投げかけたり、糾弾したりすることのほうが多かったかもしれない。もっと母親らしくしろとか、自分に頼るなとか、具体的になんと言っていたのかはつぶさには覚えていないけれど、大体そんなことを言っていたような気がする。

 そうやって姉が母にきつい言葉を投げつけている間、決まって母は怯えた子犬のように俯いて、小さくなって震えていた。時には涙を堪えながら、ただただ姉に言われるがままにしていた。そんな態度が余計に姉の心を乱し、一層彼女の言葉を鋭くさせた。

 姉だって、あんな風にきつい言葉を吐きかけたいわけじゃない、秀治にはそのことがよくわかっていた。だから、何か言われる度にただ小さくなって謝ることしかしない母の心に寄り添うことがどうしても出来ず、不愉快に思いながらも姉と母の間で傍観者の立場を崩すことはなかった。

 母親なんだから、大人なんだから、子供の力なんて借りずに、もっとしっかりするのが普通だ。親らしくするのが当たり前だ。子供の思いをしっかり受け止めなくちゃだめだ。そんな観念的な決り文句に逃げ込むことで、秀治はいくらでも自分を正当化できると思っていた。

 だから、離婚してから一年たった頃に、今度は母親がどこかへ消えてしまった時も、秀治には母を責める言葉しか思い浮かばなかった。

 そんな幼さしかなかった秀治とは対象的に、中学校卒業を控えた四歳年上の姉は、自分では背負いきれるはずのない重荷を不意にその肩に負わされることになった。

 両親ともに親戚とは一切の縁を切っていたせいで、絵に描いたような天涯孤独になってしまった秀治と姉は、学校に斡旋された児童養護施設への入所を断った。姉の強い意向だった。秀治もそうだったけれど、とりわけ姉は自分の周りを取り巻くすべての大人という大人に、もはや不信感しか持てなくなっていた。

 そんな姉弟に、学校や周りの大人は、断るのなら仕方ないと放任する姿勢を示した。自業自得と言ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど、まだ年端も行かない姉弟に自己責任を強要するのも酷だった。そしてそのことが余計に秀治たちの大人への不信感を増幅させた。

 そういう事情もあって、姉は中学校卒業と同時に働きはじめた。元々、家賃が破格に安い公営住宅に住んでいたおかげで、母親がいなくなったあとにわずかばかり残された預貯金と、姉が月々のアルバイトで稼ぎ出す僅かな給金でも、どうにか姉弟は自分たちの住処を失わずにすんでいた。

 とはいえ、生活そのものは今までにも増して切り詰めることを余儀なくされた。衣服や水道光熱費、食事に至るまで、とうに限界を超えたはずの日常生活をさらにダウンサイジングせざるを得なかったし、電気や水道を止められたのも一度や二度ではなかった。

 そんな中でも、せめて見栄えだけはまともにしたいと思い、秀治は学校に着ていく服にはとくに注意を払っていた。それでも一年以上同じ服を着回していれば、当然服たちも草臥れてくる。そして、それを目聡く見つけ出す奴が学校には必ずいる。

 どちらかと言えば大人しく、自己主張のない秀治は、必然的にそんな連中の犠牲にならざるを得ない存在だった。自分の存在を誇示するため、もしくは単なる話題作り程度の気持ちで、クラスメイトの何人かは秀治の服装や、シャワーを十分に浴びる事が出来ない秀治の体臭を話題にした。

 秀治はやり返す事もできず、ただ小さく、卑屈に笑いながらそれをやり過ごし続けた。そういうものなんだと、無理やり達観したふりをしていれば、案外やり過ごせるものなのだと、秀治はよく理解していた。

 日々の自分の有り様に必要以上に思いを馳せてしまえば、多分、秀治は学校に行けなくなってしまうだろう。そうなってしまって、姉にこれ以上余計な心配をかけるわけにはいかなかった。

 表層の部分では強気に振る舞いながら、ほんの少し掘り下げればたちまち繊細な部分が露わになってしまう。姉のそんな脆い部分を、秀治は良く知っていた。
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