その1 「エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする」(エリナー・ファージョン作)
文字数 1,768文字
赤んぼうのエルシーが、耳が聞こえるようになって最初に聞き分けたのは、村の女の子たちのなわがシュッシュッと回る音、彼女たちの足がピタパタと地面を叩く音、そして、なわとび歌の最後の、早口でとなえられる部分の歌詞でした。
「おまえのおっかさんのつくってる晩ごはんは、パンとバターのそれっきり!」
まずしい村なのです。エルシーは、キャンディの味を知りません。
ある夜中、両親は、三つになったエルシーが、おとうちゃんのズボン吊りでなわとびをしているのを発見します。木の柄をつけた短いなわをおとうちゃんのピドックさんに作ってもらったエルシーは大喜び。あっというまに村一番のなわとび上手になります。
七つになったころ、その評判を、ケーバーン山の妖精 たちが聞きつけます。
妖精の頭領アンディ・スパンディに見込まれたエルシーは、眠ったままケーバーン山頂に呼び出され、ありとあらゆるなわとびの妙技を伝授されます。
月をとび越えるほどの「高とび」。クモの巣におりてもつゆ一つ落とさない「軽とび」。その場にいるのに見えなくなってしまうほどの「早とび」。などなど。
しかも、おとうちゃんお手製のなわにアンディは魔法をかけてくれ、片方の柄は「さとうのキャンディ」に、もう片方の柄は「アマンド入りあめんぼう」になります。しかもしかも、このあめ、どんなになめてもなくならないのでした。
(この、柄があめになっている魔法のなわ。死ぬほど憧れました。笑
私(ミムラ)は本当に、どうしようもなく、なわとびが下手な子どもだったのです。笑)
月日は流れ……
成長したエルシーは、長いなわでとぶようになり、その後、大人になって、なわとびそのものをしなくなります。そして、村のすみで、ひっそりと年老いていきます。
彼女が家庭を持ったという記述はありません。もしかしたら子や孫ができたのかもしれませんが、少なくとも晩年のエルシーはひとり住まい。
パンにつけるバターもない晩、そっと、アンディがくれた「一生なくならないキャンディ」をなめていた、と記されるだけです。
百年後。妖精のようにとんだ小さなエルシーの姿を覚えている人さえ、ほとんどいなくなりました。
ここで、昔話なら、もうエンディングですよね。
ところが、
なんとここで、村人たちに襲いかかってくる敵の名は。
《近代化》というのですね。(本文にそんな語は出てきませんが。)
けちん坊の領主が、ケーバーン山に工場を建て、村人たちに二度と立ち入らせないことを決定するのです。
エレンというなわとび上手の少女が、森で泣いていると、「枯葉のような」かすかな声が、彼女に助言をくれます。領主に契約書を作らせるようにと。その条件は、
三日月の晩、村じゅうの、かつてこの山でなわとびをした者たちに、順番になわとびをさせる。
結末は、もうおわかりだと思いますが、
圧巻は、百九歳になって小さくちぢんだエルシーおばあちゃんが登場して、昔の、あの短い魔法のなわで、とぶシーンです。ありとあらゆる妙技を披露して。
アンディ・スパンディたちが応援する中。
「エルシー・ピドック、とべ! あいつに、おまえのわざを見せてやれ!」
「いまでも三日月の晩、あなたがたが、ケーバーン山にのぼってゆけば、小さな、腰のまがった老女のすがたを、ちらりと見ることがあるかもしれない」という一文で始まる最終段落を読むとき、私は、つい、涙してしまいます。いまでも、眠りながら、微笑みながら、歌いながら、山を守ってとびつづけているおばあちゃん。
永遠。自由。自分を信じること、世界を信じること。
戦うこと、正義のために。
恐れないこと。
足るを知ること――幸福。
思えばエルシーは幼い私に、数十年後に必要になるものをすべて、教えてくれていたのでした。
絵本『エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする』エリナー・ファージョン作、シャーロット・ヴォーク絵、石井桃子訳、岩波書店、2004年。
もともとは『ヒナギク野のマーティン・ピピン』(石井桃子訳、岩波書店、1974年)という長編ファンタジーの中で語られる一挿話なのですが、残念ながらこの本は絶版です。岩波さーん! 再版してくださーい!涙
「おまえのおっかさんのつくってる晩ごはんは、パンとバターのそれっきり!」
まずしい村なのです。エルシーは、キャンディの味を知りません。
ある夜中、両親は、三つになったエルシーが、おとうちゃんのズボン吊りでなわとびをしているのを発見します。木の柄をつけた短いなわをおとうちゃんのピドックさんに作ってもらったエルシーは大喜び。あっというまに村一番のなわとび上手になります。
七つになったころ、その評判を、ケーバーン山の
妖精の頭領アンディ・スパンディに見込まれたエルシーは、眠ったままケーバーン山頂に呼び出され、ありとあらゆるなわとびの妙技を伝授されます。
月をとび越えるほどの「高とび」。クモの巣におりてもつゆ一つ落とさない「軽とび」。その場にいるのに見えなくなってしまうほどの「早とび」。などなど。
しかも、おとうちゃんお手製のなわにアンディは魔法をかけてくれ、片方の柄は「さとうのキャンディ」に、もう片方の柄は「アマンド入りあめんぼう」になります。しかもしかも、このあめ、どんなになめてもなくならないのでした。
(この、柄があめになっている魔法のなわ。死ぬほど憧れました。笑
私(ミムラ)は本当に、どうしようもなく、なわとびが下手な子どもだったのです。笑)
月日は流れ……
成長したエルシーは、長いなわでとぶようになり、その後、大人になって、なわとびそのものをしなくなります。そして、村のすみで、ひっそりと年老いていきます。
彼女が家庭を持ったという記述はありません。もしかしたら子や孫ができたのかもしれませんが、少なくとも晩年のエルシーはひとり住まい。
パンにつけるバターもない晩、そっと、アンディがくれた「一生なくならないキャンディ」をなめていた、と記されるだけです。
百年後。妖精のようにとんだ小さなエルシーの姿を覚えている人さえ、ほとんどいなくなりました。
ここで、昔話なら、もうエンディングですよね。
ところが、
なんとここで、村人たちに襲いかかってくる敵の名は。
《近代化》というのですね。(本文にそんな語は出てきませんが。)
けちん坊の領主が、ケーバーン山に工場を建て、村人たちに二度と立ち入らせないことを決定するのです。
エレンというなわとび上手の少女が、森で泣いていると、「枯葉のような」かすかな声が、彼女に助言をくれます。領主に契約書を作らせるようにと。その条件は、
三日月の晩、村じゅうの、かつてこの山でなわとびをした者たちに、順番になわとびをさせる。
ひとり残らず
。最後のひとりがとび終えたら
、れんがを積みはじめてよい。それまでは、積んではならない。結末は、もうおわかりだと思いますが、
圧巻は、百九歳になって小さくちぢんだエルシーおばあちゃんが登場して、昔の、あの短い魔法のなわで、とぶシーンです。ありとあらゆる妙技を披露して。
アンディ・スパンディたちが応援する中。
「エルシー・ピドック、とべ! あいつに、おまえのわざを見せてやれ!」
「いまでも三日月の晩、あなたがたが、ケーバーン山にのぼってゆけば、小さな、腰のまがった老女のすがたを、ちらりと見ることがあるかもしれない」という一文で始まる最終段落を読むとき、私は、つい、涙してしまいます。いまでも、眠りながら、微笑みながら、歌いながら、山を守ってとびつづけているおばあちゃん。
永遠。自由。自分を信じること、世界を信じること。
戦うこと、正義のために。
恐れないこと。
足るを知ること――幸福。
思えばエルシーは幼い私に、数十年後に必要になるものをすべて、教えてくれていたのでした。
絵本『エルシー・ピドック、ゆめでなわとびをする』エリナー・ファージョン作、シャーロット・ヴォーク絵、石井桃子訳、岩波書店、2004年。
もともとは『ヒナギク野のマーティン・ピピン』(石井桃子訳、岩波書店、1974年)という長編ファンタジーの中で語られる一挿話なのですが、残念ながらこの本は絶版です。岩波さーん! 再版してくださーい!涙