その4の2 『森は生きている』(サムイル・マルシャーク作)

文字数 3,523文字

『噫(ああ)無情』。『巌窟王』。『若草物語』。
 古い日本語の翻訳タイトルって、よくぞ付けたり!という凝ったのが多いですけど、この『森は生きている』もそうですね。原題は直訳するとシンプルに「十二の月」だそうです。
 前回ご紹介したスロバキア民話に基づく、創作。
 戯曲です。児童劇。
 歌もたくさんあって、音楽劇です。

 本を開くと、ちょっとびっくりするのですけど、ヒロインに名前がありません。彼女は「ままむすめ」と呼ばれます。
「むすめ」は、いじわるな姉さんのほうです。母親は「老婆」。
 この二人の強欲ぶりは、もとの民話どおりですけど、この戯曲ではさらに《真打登場》とでも言うべき、ラスボスが登場します。
 女王さま。超~わがままな。
 花(ここではスミレではなくてマツユキソウ=スノードロップ。もとの民話もそうなのかもしれませんね)を取ってこいと無理難題を言いつけるのは、彼女です。

 この女王さまにも、名前はありません。そして——
 十四歳の少女です。ヒロインと同い年。
 ヒロインと同じく、両親をなくして、ひとりぼっち。
 ヒロインと同じく——
 愛に飢えています。

 ここです。

 作者のマルシャークはユダヤ人。この戯曲は第二次世界大戦中に書かれています。
 差別と恐怖と弾圧と地獄を生き抜いているさなかの彼が、どうしてこんな、ラスボスさえも可愛らしいという、すみずみまで思いやりに満ちた作品が書けたのでしょうか。

 それは、彼が、読む人——観る人——
 つまり、子どもたちのことを、何よりもまず、考えていたからではないでしょうか。

 自分の不安、恐怖を、

ことより、
 自分の表現を

人たちの気持ちを、優先したからではないでしょうか。

 たしかにマルシャークは苦しい少年時代を送りましたが、彼の才能を見抜いた大人たちが奔走して、彼を守りました。体の弱い彼を(比較的)温暖な地へ移住させ、ゲットーの中でしか勉学が許されなかったユダヤ人の彼に、さらなる教育の機会を与えました。その大人たちの中には文豪ゴーリキイもいたそうです。
 その大人たちは、サムイル少年から、何か見返りを求めたわけではありません。ただ、純粋に、応援してくれたのです。そう、「たいそう かわいそうに」思って。
 だから、大人になった彼は、今度は自分が、子どもたちのために尽くしたのではないでしょうか。ただ、純粋に。

 女王さまから話がそれました。すみません。
 このマルシャークの女王さま、他人に対して《命令》と《賞罰》というコミュニケーションの取り方しか知りません。
「○○しなさい。そうしたら、○○をあげるわ」
「○○しなさい。そうしないと、死刑よ」
 この戯曲、日本でも長い人気を誇っていて、私は数年前に老舗の児童劇団《仲間》さんの舞台で観ましたが、女王さまがこうしてめちゃくちゃな命令を出すたびに、子どもたちは大笑いしていました。だけど、じつは、現実の恐怖政治や粛清と直結していて、痛烈ですよね。大人の私はつい背筋がつーっと寒くなったりしたのですが、その針を、暖かく柔らかく笑いに包んでしまうところが、この作品の美しいところです。

 最後に女王さまは学びます。ただ、純粋に、《お願いする》ということを。
 雪の中で立ち往生し、いまや立場が逆転したヒロインに、
「あなたのそりに乗せて。そうしたら……」
 ではなく、ただ、ひざを折って、
「あなたのそりに乗せて」
 と、頼むことを。

 逆に言えば、作品をつらぬくいちばんの魅力は、何と言ってもこの《ままむすめ》の、驚くべき純粋さです。
 私、「なかやすみ」で、ヒロインになる女の子は、「圧倒的な何か」を持っていてほしい、と書いたのですけど、この《ままむすめ》のまっすぐさも、本当に圧倒的です。
「火に、あたらせてください」
 ぎりぎり必要最小限のことしか、言いません。願いません。駆け引きをしません。
 それは、ほかならぬ彼女自身が、誰かに何かを頼まれたら、見返りがあろうとなかろうと、けんめいに応えようとする子だからです。
 頼まれた、という、相手が困っているという、ただ、それだけで。

 駆け引きをしないこと。見返りを求めないこと。
 これ、できそうで、できない。そんなことないですか?
 いわば、武器なしで、素手で立つ。
 気がつくと、自分が、いかに「武器を持った」戦いばかりに囲まれていることかと思います。

* * * * *

 と、こんな感じで、いい感じで(笑)、まとめようと思っていたのですが……、
 ここまで書いて、自分が本当に書きたかったことは、別にあるような気がしてきました。
 ちょっとよけいな話になりそうですけれど、よかったら最後までお読みください。

 ヒロインの《ままむすめ》が戦って、戦って、戦い抜く相手は、ダメな義母と義姉でも、暴君の女王でもない。のではないか。と、ふと、思いました。
 その敵の名前は、《孤独》と《絶望》、ではないかと。

 押しつけられる理不尽。身内からの虐待。雪の中をさまよいながらの、ヒロインの独白です。

「(あらしでたおれている木につまずき、足をとられ、立ちどまる)もうさきへいかないわ。このままここにいましょう。どこでこごえたって、おんなじだもの。(たおれている木にこしをかける)なんて暗いんだろう。じぶんの手がよく見えない。(中略)まえへすすむにも、うしろへもどるにも、道は見つからない。ほら、こうしてあたしは死ぬときがきたのよ」

 そのとき現れた、救いの火。十二人の精霊。
 けれども、家に帰れば、彼女を待つのはまた同じ無理解と嘲笑です。
 命がけで摘んできたマツユキソウばかりか、絶対なくしてはいけないよと十二の月たちに言われた魔法の指輪まで、卑怯なやりかたで母と姉に取り上げられた少女は、ひとり、つぶやきます。

「(ペチカのまえにこしをかけ、火を見ている)こうしていると、なんにもなかったような気がするわ。みんな、夢だったみたい。花も、指輪も……あたしが森からもって帰ったものの中で、のこったのは、そだだけだわ。(ひとかかえのそだを火にくべる)」

 凄くないですか。これ、子どもだましのお芝居どころじゃないのです。
 ハッピーエンドになるとわかっていても、私はここを読むたびに、いつも泣いてしまいます。この孤独。この絶望。
 よく、ここで心折れて、死なないなと……。

 そして女王に呼び出され、焚火のありかを教えろと迫られ、そのとき指輪は女王の手にあるのですが、ままむすめはがんとして口を割りません。誰にも言わないという月の精たちとの約束を、守りとおします。
 女王が怒りにまかせてその指輪を湖水に投げ捨てた瞬間、ままむすめは自分を押さえつけている兵士たちの腕をふりきって前へ飛びだし、呪文を叫びます。
「ころがれ、ころがれ、指輪よ」。
 そのとたん――

「風、ふぶきがおこる。ふりしきる雪がななめにとぶ。女王、けらいたち、老婆とむすめ、兵士たちは、いっしょうけんめいに頭をかくしたり、雪の旋風から顔をよけたりする。そうぞうしいふぶきの音にまじって、一月のタンバリン、二月のつのぶえ、三月の小鈴、の音がきこえる。雪の旋風といっしょに、なにか白いもののすがたが走りすぎる。これは、ふぶきかもしれない、また、冬の月たち自身かもしれない。かれらは、くるくるまわりながら、ままむすめをひきつれていく。ままむすめは消えていく」

 これ、もう、戯曲のト書きじゃないですよね。
 もちろん舞台化する人たちは、何としてでもこの光景を舞台上に出現させるわけで、《仲間》さんのステージでも、紗幕と照明を駆使したこのシーンは圧巻です。
 だけど。
 凄まじくないですか。もう、脳内に渦巻く吹雪が。どんな演出も演技も、実現不可能ではないですか?

 めぐりめぐってハッピーエンドになるとわかっていても(原作と違って誰も死にません)、それでも、私はここを読むたびに、いつも息をのみます。
 そして、つい、陶然としてしまうのです。
 もう――
 ここで終わりで、いいのではないかと。
 すべてを理解してくれ、信じてくれる、冬の長老たちの力強い腕にしっかりと抱かれて、もう、何もいらない。何も考えずに、目をつぶってしまいたい。

 北国の人たちの創るものがたりには、南の熱く甘い歓楽とは違った、官能があります。ふっと、気の遠くなるような。
 透きとおるように素直で、明るく希望に満ちたこの児童劇の足もとには、私たちが気づかずに踏み越えている深淵(クレヴァス)が、誘惑が、ぽっかりと口を開けているような気がするのです。


サムイル・マルシャーク作『森は生きている』湯浅芳子訳、岩波少年文庫。
1953年、第一刷発行。2000年、新版第一刷発行。
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