第35話 ジェリー・バーカー

文字数 4,745文字

 僕は新しいご主人様ほど良い人には初めて出会った。ジェリーは親切で優しく、ジョン・マンリーのように強い信念を持っていて、常に機嫌が良く快活で、誰かと口論するようなことはほとんどなかった。ジェリーは小さな歌を作って、自分で歌うのがとても好きだった。お気に入りの歌のひとつはこんな感じだ。

「おいで、父に母
 そして兄に妹
 おいで、みんな、互いを見て
 そして助け合おう」

 ジェリーの家族はいつもそんな感じだった。ハリーはもっと年上の子よりも馬小屋の仕事に熟達していて、いつもできることをしていた。ポリーとドリーはいつも朝にやってきて、馬車の手入れを手伝った――ブラシ掛けをし、クッションをはたき、窓ガラスを磨いて、ジェリーはその間に中庭で僕たちを綺麗にし、ハリーはハーネスの手入れをした。この一家はいつも楽しそうに笑いあっているので、キャプテンと僕は怒鳴られたりきつい言葉をかけられたりするときよりも、もっとずっとやる気が出るのだった。一家はとても早起きで、それについてジェリーはこう言っていた。

「もし朝になっても中にいたら
 それは時間を捨てるのと同じこと
 そして拾うことなどできはしない
 その一日の中ではね
 慌てても、急いでも
 うろたえても、悩んでも
 失ったものは永遠に戻らない
 そう、永遠に」
 
 ジェリーは考えなしにうろついたり、時間を無駄にするのに耐えられない性質だった。そしてジェリーが何よりも怒るのは、いつも遅れているのに、辻馬車に無茶な速度を出させて遅れを取り戻させようとする人に出くわすことだった。
 ある日、ふたりの乱れた身なりの若い男の人が、辻馬車乗り場の近くの居酒屋から出て来て、ジェリーを呼んだ。
「おーい、辻馬車屋! 急いでくれ、遅れてるんだ。エンジン入れて、一時の汽車に間に合うようにヴィクトリア駅まで行ってくれないか? 一シリング余計に払うから」
「俺は決まった速度しか出しませんよ、お客さん。馬はシリングでエンジンが入る生き物じゃありませんから」
 ラリーの辻馬車が僕たちの次に止まっていた。ラリーはドアを大きく開けて言った。「こちらへどうぞ、お客さん! うちの辻馬車に乗ってくれ、うちの馬がそこまでお連れします」ラリーはその客たちを乗せてドアを閉めながら、ジェリーに向けて片目を瞑って言った。「のんびりより速く走るのは、あいつの良心に反するんですよ」それからくたびれている自分の馬に鞭を入れ、出せる限りの速度で走り出して行った。ジェリーは僕の首を軽く叩いた。「いいや、ジャック。あれでシリングもらうことなんてない、だろう?」
 ジェリーは無理な速度を出させない、ましてや思慮の浅い人たちを喜ばせるためにそんな真似はしない、と固く決意していて、いつも適性な速度を保っていたが、理由を承知していればそこを曲げて速度をあげることもあった。
 僕はある朝のことをよく憶えている。僕たちが辻馬車乗り場で客待ちをしていると、重そうな大型の旅行鞄を持った男の人が、舗道に落ちていたオレンジの皮を踏み、派手に転んで倒れてしまった。
 ジェリーが最初にその男の人に駆け寄って、助け起こした。男の人はひどく呆然としているようで、みんなが彼を店につれて行ったが、ひどい痛みを感じているようだった。ジェリーはもちろん辻馬車乗り場に戻って来たが、十分としないうちに、お店の店員さんがジェリーを呼んだので、僕たちはそちらへ向かって舗道で止まった。
「サウスイースタン鉄道まで連れて行ってくれないか?」その若い男の人は言った。「さっき運悪く転んでしまったせいで、遅れてしまうかもしれないんだ。でも大事な用事があって、十二時の汽車に乗り遅れるわけにはいかないんだよ。もしその時間までに送り届けてもらえたらとても感謝するし、料金も割り増しで払うよ」
「最善を尽くしましょう」ジェリーは熱心に言った。「お客さんの体調が大丈夫なら、ですが」その男の人はひどく青ざめていて具合も悪そうだった。
「僕は行かないといけないんだ」男の人は真剣だった。「ドアを開けてください、時間を無駄にさせないでくれ」
 一分後にはジェリーは御者台に乗って、僕に陽気な声をかけ、手綱をくいっと引いたので、僕には意図がよくわかった。
「さて、ジャック」ジェリーは言った。「全速力で行くぞ。理由さえあれば地面だって飛び越えられるんだってのを、見せてやろうな」
 昼日中の道が非常に混雑しているところを、速度をあげて馬車を飛ばすのはいつだって難しいが、僕たちはできるかぎりをやった。それに、良い御者と良い馬がいて、互いを理解しあって心をひとつにできていれば、素晴らしい結果を出せるのだ。僕は敏感で良質な口をしている――だから、手綱を軽く動かすだけで、指示を感じ取れるのだ。そして、それはこのロンドンを進むのにとても重要だった。四輪馬車、乗合馬車、荷馬車、箱馬車、辻馬車、そして歩くのと同じくらいの速度で進んで行く巨大な無蓋の荷馬車といった多くの種類の馬車が、あるものは向こうへ、あるものはその反対へ、あるものはゆっくり進み、あるものはそれらを通そうとする、その間を抜けて走るのだ。乗合馬車は数分ごとに乗客を拾うために停止するから、その後ろにいたらあわせて止まるか、追い抜いてその前へ行くかしないとならない。仮に追い抜こうとしても、そのための狭い隙間めがけて他の馬車が走ってくるかもしれないから、そうなったらまた乗合馬車の後ろにつかねばならない。今がその機会だと思って、なんとか前に出たとしても、両側の車輪に一センチ半の余裕しかない道では、ぶつけてしまうかもしれない。そして、うまくいったとしても、すぐに自分が荷馬車や四輪馬車の長い列の中にいて、歩くぐらいの速度でしか進めないのだと気づかされる。きっと定期的に止まらねばならなくて、その場合道を塞いでいる何かが脇の道へ移動するか、警察官が干渉するまで、立ったままじっと数分間待たなくてはならない。あらゆる機会に備えなくてはならないが――道が開いたらすぐ前へ飛び出し、小型の猟犬のように素早くどこかに隙間がないか目を配り、時間があれば車輪が動けなくなったり壊れたりしていないか、または突然他の馬車の舵棒が胸や肩にぶつかって来ないか注意する。これがすべてに備えなければならないということだ。昼日中にロンドンを高速で突っ走りたいのなら、かなりの熟練が必要になる。
 ジェリーと僕は慣れていたから、僕たちが通り抜けたあとをついてこれる者はいなかった。僕は俊敏で勇敢で、御者を常に信頼していたし、ジェリーも機敏で同時に忍耐強く、自分の馬を信頼していたが、これはとても素晴らしいことなのだ。ジェリーが鞭を使うのはごくごく稀で、僕はジェリーの声や舌を鳴らす音で、彼が速度をあげたいと思っているのがわかったし、行かせたい方角は手綱でわかったから、鞭で打つ必要などはないのだった。さて、本題に戻ろう。
 その日、道はぎゅうぎゅうに混んでいたが、僕たちはチープサイドの端までは非常にうまく進んで行った。だがそこで、三分か四分ほど足止めをくらってしまう。若い男の人は頭を突き出すと、心配そうに言った。「思うに、降りて歩いたほうが良さそうだ。これでは目的地まで決してたどり着けない」
「できることは全部やりますよ、お客さん」ジェリーは言った。「時間までには着けると思います。この渋滞が終わるまでそんなにかからないでしょうし、お客さんの荷物は運んで行くには重過ぎますよ」
 ちょうどそのとき、すぐ前の荷馬車が動き始めたので、僕たちはついていた。出たり入ったり、出たり入ったりしながら僕たちは進み、僕は自分の力を出せる限りだした。ロンドン橋まで来ると不思議と開けた空間ができていたが、これはもしかしたら列になっている辻馬車や四輪馬車がどれも、汽車に間に合いたくて同じ方向にさっさと速歩(トロット)で進んだせいかもしれない。何にせよ、僕たちが他の多くの馬車と共に風のように駅へと駆け込んだとき、大時計は十二時八分前を指していた。
「神様、ありがとうございます! 間に合った」若い男の人は言った。「そしてあなたも、あなたの素敵な馬も、ありがとうございました。あなたには払いきれないほどのご恩があります。どうかこの半クラウンを受け取ってください」
「いいえ、お客さん。支払いは通常どおりでいいです、間に合って良かった。さあ、もう行ったほうがいいですよ、ベルが鳴ってますから。ポーター、こっちだ! こちらの紳士の荷物を運んでくれ――ドーヴァー線十二時の汽車だ――そうだよ」そして他の言葉を待たずに、ジェリーは僕の向きを変えさせて、最後の瞬間に間に合おうと走ってくる他の辻馬車のために場所を空け、混雑が過ぎて行くまで道の片側へと寄った。
「いやあ、良かった!」ジェリーは言った。「気の毒なお客さん! なんであんなに不安そうだったんだろうな!」
 ジェリーはいつもとても大きな声で独り言を言うので、動いていないときは僕にも聞こえる。
 ジェリーが乗り場の行列へと戻ると、いっせいに笑い声と冷やかす声が響いた。皆はジェリーが信念を曲げて、汽車に間に合わせるために突っ走ったからだと言い、いくら余計にもらったのかを知りたがった。
「普段と同じ額よりもかなり多く」ジェリーはおどけた様子でうなずきながら答えた。「あのお客さんがくれた額で、数日はいつもよりちょっとだけ快適に過ごせるかもな」
「おいおい!」ひとりが言った。
「嘘をつくなよ」別の人が言った。「俺たちに説教しといて、それから自分も同じにするのかい」
「おいおい、お前さんたち」ジェリーは言った。「あのお客さんは俺に半クラウン余計にくれると言ったが、俺は受け取らなかった。お客さんが汽車に間に合って喜んでくれたのが、充分な報酬だからな。それにジャックと俺はこれからも飛ばすのを選ぶときがあるが、それは自分たちのためだし、これはあんたらじゃなくて俺が決めることだ」
「それだと」ラリーは言った。「あんたは決して金持ちにはなれないだろうな」
「おそらくないね」ジェリーは言った。「でもだからといって俺がの幸せが目減りするとも思えないしな。俺は何度も戒律が読み上げられるのを聞いたが、その中に『金持ちになれ』なんてのを耳にしたことは決してないし、新約聖書には金持ちについての興味深い話がたくさん載ってるが、もし俺がそいつらのひとりだったら、きっと妙な気分になっただろうと思うね」
「もしお前が金持ちになったとしたら」元締めのグラントは、肩越しに自分の辻馬車の上のほうを見ながら言った。「お前はそれに値するんだよ、ジェリー。そして自分の富に呪いを見出したりはしないだろう。そしてお前はな、ラリー、貧乏なまま死ぬだろうな。鞭を使いすぎているんだ」
「それなら」ラリーは言った。「鞭がなきゃ動かない馬をどうやって動かすんだい?」
「お前は鞭を使わずに馬が動いてくれるかどうかを、確認したことなんて一度もないじゃないか。お前はいつも、コレラにかかって痙攣でもしてるみたいに鞭を使っているし、それでお前が疲れないとしても、お前の馬は疲れてしまうんだ。お前はいつも馬を変える羽目になる、何故か? それはお前が自分の馬に決して休みも励ましも与えないからだ」
「そりゃ、俺はいつもツキがないからな」ラリーは言った。「それが理由だ」
「そしてずっとそうだろうよ」元締めは言った。「幸運は飛び乗る相手にうるさいからな、たいていは常識があって温かい心の持ち主を好むんだ。少なくとも俺の知る限りでは、な」
 元締めグラントはまた新聞を読み始め、他の男たちは自分の辻馬車へと向かった。
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