第32話 馬市

文字数 2,860文字

 疑うまでもなく、何も失うものがない者にとっては、馬市というのはとても楽しい場所だ。どちらにせよ、そこには見るものがたくさんある。
 田舎から連れて来られた若い馬たちの列が、生き生きとした様子で続いている。メリーレッグスと同じくらいの背丈の、毛むくじゃらのウェルシュポニーの群れがいる。何百頭もの、あらゆる種類の馬車用の馬たちがいて、うちの何頭かは長い尻尾に赤い紐が編みこんであった。そして僕のように、姿が良く高い血統の出身だが、なんらかの欠点――事故や、傷や、気管の損傷や、あるいはその他の何か――があるため中級に落ちた馬たちもいる。どんな用途にもぴったりの、最高の状態のとても素晴らしい馬たちもいて、四肢をしゃんと伸ばし、最高に素晴らしい走りを見せていた。引き綱をつけて速歩(トロット)で走るときは、馬丁が隣を駆けている。だが裏手のほうに行くと、そこには多くのみすぼらしい姿の馬たちがいた。悲しいことに辛い重労働でぼろぼろになり、一歩歩くごとに膝が折れそうになって後脚がふらついてしまう。そこにはとても気落ちした様子の老馬たちもいて、下唇が垂れ下がり、耳は重そうに下に垂れていて、もうその馬生になんの楽しみも希望もないのだと言わんばかりの様子だった。肋骨が透けて見えるほど痩せている馬や、背や尻が古傷だらけの馬もいる。馬が見るには辛い光景だ。知らなくとも、いつか同じ状態になるのかもしれないのだから。
 あちこちで値上げや値引きの交渉が行われていて、もし馬が自分の考えの及ぶところを話せたなら、賢い人間が説明するよりももっと、馬市で行われている嘘や駆け引きについて語れただろう。僕は他の二、三頭の、力強く有能そうな外見の馬といっしょにいて、多くの人が僕たちを見にやってきた。裕福な人たちはみんな、僕の膝を見ると背を向けた。僕を連れている男の人が、これは馬房で滑っただけだと説明していても。
 最初にやるのは僕の口を開かせることで、その次には目を調べ、それから脚を撫で下ろして確認すると、今度は肌と筋肉に強く触れて調べ、そのあとで走りぶりを試す。こういうやり方のひとつひとつに違いが現れるのはすばらしい。乱暴で無作法なやり方で、こちらを木材か何かと思っているのではないかと思える人もいれば、優しく丁寧に触れ、ときに軽く叩き、「ちょっとごめんね」と言ってくれる人もいる。もちろん、僕は自分に対するそういった作法で、買い手の人たちを判断した。
 ある男の人がいて、彼が僕を買ってくれたら幸せになれるだろうと思った。彼は裕福な人ではなかったが、派手でけばけばしい身なりでもなかった。どちらかといえば小柄だが、体格は良く、ひとつひとつの動きがきびきびしていて素早い。僕は彼が僕を扱ったときの様子で、すぐに馬の扱いに熟達しているとわかった。穏やかな話し方で、灰色の目は優しくて陽気そうだった。そして奇妙に聞こえるかもしれないが――だが何にせよ同じことだ――僕が彼を気に入ったのは、彼が僕を扱ったとき、清潔で良い匂いがしたからだ。僕の嫌いな古いビールやタバコの臭いではなく、干草の棚から漂ってくるような良い匂いだ。彼は僕に二十三ポンドなら出せると言ったが、売り手はそれを断ったので、彼は歩いて行ってしまった。僕は彼を見ていたが、向こうは行ってしまい、そして厳つい外見で乱暴な声の男の人がやってきて、僕はこの人に買われるのではと怖くなったが、その人も行ってしまった。ひとりかふたり、冷やかしの客が来た。それから厳つい人が戻ってきて、僕に二十三ポンドの値をつけた。この値段交渉の進行中に、僕の売り手は希望の額が無理なら、多少の値引きは必要ではと思い始めたようだった。と、ちょうどそこへ、灰色の目の男の人が戻って来た。僕はその人のほうを向かずにはいられなかった。彼は僕の顔を優しく撫でた。
「やあ、兄ちゃん」彼は言った。「俺たち、お互いに相性ぴったりだと思うんだ。この子に二十四ポンド払うよ」
「二十五ポンド出せば、すぐに連れて帰れるよ」
「二十四ポンドと十シリング」と、僕が親近感を感じているその人はきっぱりした口調で言った。「これ以上はビタ一文無理だ――『はい』か『いいえ』か?」
「売った」売り手は言った。「その馬はとてつもなく良い馬だから当てにできるだろうし、あんたが辻馬車用にこいつを買ったのなら、お買い得だね」
 代金はその場で支払われ、僕の新しいご主人様は端綱(はづな)を手に取ると、僕を引いて宿屋へ向かったが、そこには既に鞍と手綱が用意されていった。ご主人様は僕に美味しい燕麦をくれ、僕がそれを食べている間、独り言を言ったり、僕に話しかけてくれたりしていた。三十分ほどそこで休憩してから、僕たちはロンドンへの旅路につき、心地よく開放的な田舎の道を抜けて、大都市ロンドンへ通じる主要路へと入り、そこを着実に進んで、黄昏時にこの大都市に到着した。ガス灯は既に点いていて、何本もの道があるものは右へ、あるものは左へ、またあるものは交差して十字路になり、それが何キロも続いている。決して終わりにはたどり着けないのではと思ったぐらいだ。そしてようやく、その通りの一本を抜けて行くと、長い辻馬車乗り場に着き、ご主人様は大きな声で陽気に叫んだ。「お疲れ様、元締め!」
「いよう!」大きな声が答えた。「いい子はいたかい?」
「そう思うね」ご主人様は答えた。
「お前とその子がうまくいくのを願ってるよ」
「ありがとう、元締め」そしてまた先へと進んだ。僕たちはすぐに脇の通りへと移動し、その通りを半分ほど進んだところで、ひどく狭い道へと入った。そこは片方の側面にややみすぼらしい家々が並び、反対側には馬車置き場と馬小屋とおぼしきものが並んでいた。
 僕のご主人様はひとつの家の前で僕を止まらせると、口笛を吹いた。ドアが勢い良く開いて、若い女の人が、飛び出してきた小さな女の子と男の子のあとに続いて出てきた。ご主人様が僕から下りる間、三人はとても元気良く彼を出迎えた。
「さてと、ハリー、門を開けてくれ。それから母さんはランタンを頼む」
 そして次の瞬間には、彼らは小さな馬小屋の庭で、僕を取り囲んでいた。
「この子は大人しいかな、お父さん?」
「ああ、ドリー。お前の子猫と同じぐらい大人しいよ。さあ、とんとんしてやってくれ」
 すぐに物怖じしない様子で小さな手が、僕の肩全体を優しく叩いてくれた。とても気持ちが良かった!
「あなたがその子を綺麗にしている間に、その子のためのゆでて潰したふすまを持ってくるわ」母親が言った。
「頼んだよ、ポリー。それこそがこの子には入用だし、俺のためにも美味しいものを用意してくれてるのもわかってるぜ」
「ソーセージのお団子スープと、リンゴの三角パイだよ!」男の子が大声を出し、家族全員が笑った。僕は馬房に連れて行ってもらったが、そこは快適で良い匂いがし、乾いた藁がたっぷり敷いてあった。そしてちゃんとした夕飯を食べたあと、僕は横になり、ここで幸せに暮らせるだろうと思った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み